命の洗濯
人の欲望には限りがない。それは先日の色街騒動でも改めて認識したばかりだ。
何かをしたいという強い欲望に歯止めをかけるのは容易ではない。それは生得的に備わった生きるための機能だからだ。
もしも食欲が湧かなかったら人は数日後に餓えて死ぬ。性欲がなかったら滅びの末路は数十年後に訪れる。つまるところ、欲というのは本来生きるために必要不可欠な要素なのだ。
しかし、文明という力を持った人類が欲のままに生命を全うすると大抵は武力を用いた衝突合戦にもつれ込むことになる。故に人はより強い力で個人の欲を縛った。法っつうやつだな。
他人の食料や寝床の強奪、そして強姦を禁ずる。それは人が己らと獣を区別するために作った最も尊ぶべき法と言われている。
これを破るやつは畜生同然だ、と喧伝することで秩序の維持を促す目論見だったんだろう。寒村のガキにもしっかりと教えが浸透しているのを鑑みるに、法を作ったやつの狙いは成功していると評していい。
そんな人の理性を礼賛する法を成立させるために必要なのがカネだ。
カネを払えば食い物を交換してもらえるし、寝床も貸してもらえる。場合によっては女も買える。
だがしかし、何事にも限度というものが存在する。
『大金を積むから俺を女風呂に入れてくれ!』と誰かが主張したとして、誰がそれを認めてくれるだろうか。
口にすれば犯罪者候補として目をつけられ、実行に移したら危険人物として粛々と処理されるのが落ちである。
だとすれば、これは野郎の夢の一端を叶える商売と言えるのではないだろうか。
「……おい、先程の話は……本当なのだろうな?」
公衆浴場の従業員通用口を歩くのは俺と一人の商人の男である。
その男は、いつもならいる護衛を侍らせていないからか、酷くそわそわとした様子で周囲を見回していた。脛に見せられない傷を一つ二つ抱えているのだろう。まあ……だから目を付けたのだがね?
「ええ、ええ。勿論ですとも。そろそろ信用していただきたいものですなぁ」
「だが……ここはあの『聖女』が一枚噛んでいるのだろう……? 既にギルドの管轄下ではないのか?」
くくっ。俺は思わずこみ上げてきた笑いを押し殺した。
そこまで警戒しておきながらのこのこと付いてくるとは……よほど自身の欲に忠実と見える。裏を返せば、だからこそ一廉の商人として大成したというべきか。
「我々も一枚岩ではないということですよ。ギルドも『聖女』もこの件は感知しておりませんのでご安心下さい。……さ、着きました。中へどうぞ」
「うむ……中は普通だな。……! お、おい! あの眼鏡が例のものか?」
「ええ。それを掛けて向こうの壁の左側をご覧いただければと……」
「ああ。こうか……!? ほう……ほう! これは……なるほど……くくっ……絶景は此処にあったか……っ!」
ニタニタとした笑みを貼り付けて壁にかじりつく商人の男を見て俺は今回のビジネスの成功を確信した。やはり人の欲は金になる。普遍の摂理というやつだ。
これ以上は邪魔になるだろう。俺は潮時を見極めている男だ。存分に愉しんでいる商人の男を置いて俺は個室を出た。そして去り際に念を押しておく。
「利用料金は……一時間金貨一枚になります……!」
▷
女湯を覗ける個室風呂の噂はお天道様に顔向けできない類の商人連中に知れ渡ることとなった。
蛇の道は蛇。俺が最初に目を付けた商人の男は同類の連中にここを紹介してくれた。一人紹介するたび色街のタダ券を一枚くれてやるという試みが功を奏したのだろう。興奮に顔を赤らめた男は一も二もなく俺の策に飛びついた。ちょろいちょろい。
あと数日もすれば呪装の購入費用を上回る利益を得られるだろう。その後の儲けは青天井だ。欲にまみれた商人連中は金に糸目をつけない。発散した欲が溜まり次第何度でも訪れることだろう。
窓口として俺が常駐しておく必要があるのは多少面倒だが……必要経費として割り切るしかあるまい。書き入れ時が過ぎたら自由時間を増やそう。あらかじめ個室を利用できる日を決めておき、早い者勝ちの予約制にすればいい。
となると……人気の時間帯の料金を吊り上げられるな。利用時間を半分にして回転率を上げるのも悪くない。多少値上がったとしてもやつらは金を落としに来るだろう。人の欲に際限などないのだから。
いいね。いい位置に収まった。湯も匙も加減一つってやつだ。またまたボロい商売を見つけちまったぜ……くくっ。
詳細を詰めるために羽ペンを走らせているとノックの音が響いた。
俺はいま定宿の自室にいる。浴場の事務所だと邪魔が入りそうだったからだ。この控えめなノック音はクロードだろう。
鍵を外してドアを開ける。そこには予想通りの人物がいた。
「おう、どうしたよ。何か用事か?」
「はい、この前の件は一体どういう趣旨だったのかを聞こうと思って……来たんですが……」
クロードは俺の顔を見るなりすっと目を細めた。同時に吐き出す言葉の歯切れも悪くなる。あんだよ。
「……なんか、またヒリついてませんか……?」
ははは。俺は笑って誤魔化した。
「何を言い出すかと思えば、またそれか? お前は俺が四六時中悪巧みをしてるとでも思ってんのか?」
「公衆浴場の経営者が変わったと聞きましたが」
「クロード。それが今なんの関係があるというんだ?」
「新しい経営者の人は『聖女』様と懇意にしているらしいですね。この前、この宿に来た『聖女』様と」
チッ。こいつ……既に確信してやがる。【
クロードが懐疑心を隠そうともしない視線と声色で問うた。
「『聖女』様を利用して何かしようとしてます……?」
コツは真実だけを話すこと。俺は人好きのする笑みを浮かべて答えた。
「安心しろよクロード。俺は誰にも迷惑をかけてないし、これからも迷惑をかけるつもりはない。絶対にな」
世間を知らねば高枕でいられる。
覗かれてるという事実を知る者がいなければこの件は全て丸く収まるのだ。罪はそれを咎める者がいて初めて罪になる。裸くらい別にいいだろ減るもんじゃあるまいに。
俺が心底からそう思って発言すれば勘の向上を欺ける。
「そう、ですか」
クロードがホッとした声を出す。どうやら俺の発言を信じたらしい。
くくっ……まだまだ未熟。敵の手の内を知っているからこそ打てる策というものがあるのだよ。この柔軟な発想こそ勝利の鍵。俺を出し抜こうなど十年早いわ。
クロードから意思が飛んでくる。おっと【
「どうして魔法を切るんですか?」
「なんだよクロード。対面にいるんだから普通に話せや」
「伝わったらまずい考えでもあるんですか?」
「魔法も便利だが面と向かった会話ってのも大事だぞ」
互いが互いの主張のみを押し通そうとする光景は、剣の柄に手を添えつつ間合いを測り合う達人同士の立ち会いにも似た。シラの切り合いだ。悪いがこの分野では俺に一日の長がある。折れたのはクロードであった。
「……やめましょう。そう言うのであれば、僕は信じますよ」
「そうしろ。それが最も平和的だ」
「はい。……では、僕は用事があるのでこれで」
「おーう、じゃあな」
俺は手をひらひらと振ってクロードを見送った。
くく……撃退成功。これで邪魔者はいなくなった。さて、計画の細部を煮詰めるとしますかね……!
▷
本日も公衆浴場は多くの人で賑わっていた。どうやら不景気の中で手軽に楽しめる娯楽的なポジションを獲得したようだ。貴重な魔石を費やしただけのことはある。
そして俺個人のビジネスもすこぶる順調だ。
商人連中が同類を呼び込んでくれたおかげで個室利用の申請が殺到している。この分なら一日に金貨七から八……上手いこと回せば十枚ほど稼げるかもしれんな。
完璧じゃないか。非の打ち所がない。あとは従業員に怪しまれないよう根回しをするだけだな。それはオリビアの力を借りて黙らせればよかろう。
盤石な経営路線が整ったところで本日一人目の特別客を招待する。
「さて、例の個室まで案内してもらおうか」
豪華な召し物を纏い、尊大な態度でふんぞり返っているのは十五歳くらいと思われるガキンチョである。どこぞの商人の令息とのことだ。
親と商人仲間の話を聞いて居ても立ってもいられず押しかけてきたらしい。とんだマセガキである。
だが金さえ払えば客に貴賤はない。俺はもてなしスマイルを浮かべて媚を売った。
「ええ、ええ。ささ、こちらへどうぞお坊ちゃん」
「うむ」
偉そうに腕を組んだマセガキを個室へと案内する。道中、好奇心旺盛なガキはあれこれとものを尋ねてきた。
「随分と盛況じゃないか。儲かってそうだな?」
「いえいえ。それほどでも……」
「『聖女』はいないのか? ひと目見ておきたいのだが」
「彼女も忙しい身でして……今日はギルドに用事があると仰っていたかと」
「そうか」
上から物を言うことに慣れきったガキと歩くことしばし。俺たちは個室風呂へと到着した。扉を開いて入室を促すと、礼の一つも言わず当然のような顔をしてガキが個室へと入る。無愛想なやつだ。
「召し物を脱いだらそこの籠に入れて下さいね。身体を拭く布はこちらに」
「おい、これが例の眼鏡か?」
人の話聞けやクソガキ。喉元まで出かかった言葉を飲み下す。
「気になりますか? では、是非掛けてみてください」
柔らかな声で促すとガキは眼鏡を掛けて壁を覗き込んだ。納得したように一つ頷いて言う。
「なるほど、報告通りだ。……ニールと言ったな? この呪装はどこで手に入れたんだ?」
「お気に召されましたかな? ですがお譲りできませんよ。手に入れたのも、ほんの偶然でして」
「そうか……。しかし、驚いたな。まさか『聖女』がこんな商売を許すとは。慈愛の乙女は男の欲にも寛容、といったところか」
……んん? このガキ何を言ってやがる。俺はすかさず口を挟んだ。
「お言葉ですが……今回の件は『聖女』様には知られておりませんよ?」
「なに? 僕は『聖女』主導で行われている話だから安全だと聞いたぞ」
おいおいどういうことだよ。俺は内心で舌打ちした。
どこで話が拗れやがった。どっかの馬鹿が早合点してあらぬ噂を流したのか?
『聖女』ブランドはこれからも利用する方針でいる。こんなところで傷を付けるわけにはいかない。なにより、本人にバレたら絶対に面倒くさいことになる。
俺は即座に否定した。
「それは全くのデタラメですな。私としても『聖女』の名を貶めることのリスクは承知しておりますので。……ところで、どこの誰がそんなことを仰ったのですか? お坊ちゃんの親御さんですかな? それとも親の知人の方」
「一つだけ聞く。この件に『聖女』は無関係なんだな?」
俺の言葉を遮ってガキが言う。躾がなってねぇなおい。苛立ちを隠して俺は頷いた。
「ええ、勿論です」
「そうか」
俺の言葉を聞いたガキはおもむろに眼鏡を外した。
「それは……良かったです」
冷水を浴びせ掛けるような声。
「もしも彼女が関わっていたのなら……非常に面倒な処分を下さなければならないところでした」
納得が遅れてやってくる。こいつ……カマかけてやがったのかッ!
今の不自然なやり取りが誘導尋問のそれであったのだと気付いた時には――もう遅かった。
「お前……『遍在』……ッ!」
「ようやく気付いたようですね。大人しく投降してください。既に個室の利用者から裏は取れています」
擬態を解いた『遍在』が無情な宣告とともに構える。
もう調べが済んでいるだと? 早すぎる……それよりもこいつ……クソっ! 完全に油断したッ! まさか……まさか男装して潜入してくるとか思わねェだろッ!!
「汝、金級冒険者であるオリビアに取り入り、公衆浴場の経営を乗っ取った上に下劣な覗き行為で私腹を肥やす大罪人。女神様の許でその罪、存分に雪ぐと良いでしょう」
『遍在』がジリと距離を詰めてくる。一足一刀の間合い。獲物の喉笛に喰らいつく角度を探るように睨め付けてくる捕食者を前にして――俺は素直に両手を差し出した。
「……随分と、潔いのですね」
「…………まあな。連れていけよ。断頭台だろ?」
「えっ………………ええ……」
「フン……連れてけよ」
「………………では」
俺は連行された。
▷
「…………」
「これより、『聖女』の慈悲を利用して街の主要施設の利権を貪ろうと画策し、
首枷を嵌められた俺は断頭台に掛けられていた。
「てめぇこのクソ野郎がッ! 『聖女』様の気持ちをなんだと思ってやがるんだッ!」
「最低ッ! このゲス男! 人でなしッ!」
「覗いたのか!? 女湯をッ! くそっ……クソッ! ふざけやがってコノヤローッ! その呪装寄越せッ!」
「…………」
広場を埋め尽くす民衆から数限りない悪罵の声が響き渡る。ここ最近で注目の的だった公衆浴場で起きた事件だけあって注目度は段違いだ。
鳴り止むことのない罵声を甘んじて受け入れる。反論はしない。
「……何か申開きはないのですか?」
「ねぇよ」
「……全ての罪を認めるということで宜しいのですね?」
「ああ」
怪訝そうな声を掛けてくる『遍在』に対し、確とした語調で返す。今回ばかりは足掻くつもりはない。
「なんとか言えよクズがーっ!」
「都合悪くなったらダンマリかよッ! おいッ!」
罵倒のレパートリーも減ってきた。そろそろ頃合いだろう。そんな胸中の思いに反応したかのように『遍在』が声を上げる。
「……最期に、何か言い残すことはありますか?」
「ねぇよ。早くやれ」
「…………そうですか」
返ってきたのは困惑混じりの声だった。あんまりにも従順すぎたか? 却って怪しまれたかもしれんが、まぁ……手間がなくていいだろ。
お前には……この前助けられちまったからな。借りは返すさ。今回ばかりは……勝ちを譲ってやる。
ガコンと音がした。歓声が沸く。
ミラさんよ……勘違いはするなよ? これは降参じゃねぇ。清算だ。次はこうはいかねぇぞ……今の俺が本気を出したらあの場から逃げ出すことなど造作もなかったのだ。強がりじゃない。真っ当な事実さ。お前は、それを――ゆめ忘れるな。俺は首を飛ばされて死んだ。
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