聖女の祝福水

 エンデの街には女神信仰が浸透していない。

 勇者の庇護から脱し、自分らの力で生きていくことを決めた連中が興した街では荒くれ連中が称賛の的になる。最近はちょくちょくこの地に顔を出してしまったせいで認知度が上がってしまったが、それでも勇者が信仰の対象として崇められることはない。この街の冒険者が築いた歴史はその程度で揺らぐほど脆くはないのだ。


 最も致命的だった溶岩竜騒動の件は箝口令を敷いたしな。事の全てを隠し立てできたわけではないが、真相を知るものが極一部に限られているとなれば信仰が根付くはずもなく。


 エンデは今日も異色な一日を送っている。

 朝の礼拝をしに教会を訪れる者はおらず、神の功績を説く神父はおらず、一日の終りに平穏無事の感謝を女神に捧げるべく祈る習慣がない。

 祈るいとまがあるなら自分にできることをする。それがこの街の在り方だ。


 信仰という文化が浸透していない。本来は女神が腰を据えている不動の地位が空席になっている。この状況は、ほんの少し見方を変えれば、その座に腰を据える者がポンと現れてもおかしくないということだ。


 聖女信仰を始めよう。


「おお……! あの人が『聖女』か!」

「この街に流通している魔石の半数はオリビア様の手から作られたと聞く……良質なものは王都へも献上されるとか」

「凄い綺麗な人……」


 庶民が生活用水を汲んでいる川のほとり。そこでオリビアは変装のために羽織っていたローブを脱いだ。

『聖女』の名前は広く認知されている。元々名を広めるために活動していたのだから当然というべきか。


 噂に名高い『聖女』を一目見ようと民衆が集まってくる。新たな人格ニコラスを作った俺は民衆の前にずいと歩み出た。平手を作った片手を伸ばして『待て』と示す。


「控えなさい。『聖女』オリビア様の御前ですよ」


 そう発すれば民衆は揃って動きを止めた。勢いのまま突っ込んで怪我でもさせたらことだからな。

 俺は鷹揚に頷いてから典雅な所作で道を空けて跪いた。神聖さを際立たせるためには従者の一挙手一投足が洗練されていないといけない。付き人が礼を欠いた分だけ主の格が落ちる。此度の計画はそんなつまらない失敗は許されない。だからお前も上手くやれよ、オリビア。


 楚々とした仕草でオリビアが一歩踏み出す。ぴんと揃った五指が視線を誘うように空を泳いだ。右手は軽く開かれ、左手は胸元へと添えられる。【魅了アトラクト】は既にかけてある。


「皆さま。ご機嫌麗しゅうございますか」


 鈴を転がしたような声が川のせせらぎに乗って耳朶を打つ。集まった人の多くがほぅと恍惚のため息を漏らした。長年にわたり『聖女』という猫を被り続けた者の技の冴えであった。


「わたくしはおかげさまで快く日々を謳歌しております。最近は魔物の活動が鎮まっており、こうして街へと戻ることが叶いました」


 オリビアが儚げな笑みを浮かべる。細部まで計算し尽くされた笑みだ。どう表情を作れば相手が靡くのかを研究したのだろう。

 有り余る実績と俺の補助が打算に塗れた笑みを神聖さへと昇華させる。


「やはりこの街はいいですね。活気があって、賑やかで。饗される酒食も大変美味しゅうございました。……ですが」


 オリビアが両の手を握りしめて胸の前に添えた。沈痛な面持ちを浮かべ、切々たる声を出す。


「街の活気が以前に比べ……落ちてしまっているように感じました。そこでわたくしは考えたのです。微力ながらお力添えできることがあるのではないかと……!」


 ここだな。

 俺はあらかじめ用意した水甕みずがめに被せておいた布をバッと剥ぎ取った。修道服を翻していくつもの水甕に向き直ったオリビアが見せ付けるように手を組んでから麗句を詠む。


「破魔の霊耀は木漏れ日に似て――遍く痛苦を忘れさせる」


 オリビアの身体から緑の燐光が立ち昇っていく。高位の回復魔法によるものだ。その光は白昼の下でも確かに存在を主張する。


「生の灯火は希望に宿る――求めるものに安息を。願うものに安寧を。魔を遠ざける約束の光よ、此処に――」


 オリビアが詠唱の終了と同時に両手を広げた。燐光が舞う。聖性を凝り固めたような輝きがより一層まばゆさを増し、辺り一帯を照らし出し、ふわりと舞い上がり、そして水甕へと吸い込まれていった。よし。


 俺はすっくと立ち上がって民衆へ呼び掛けた。


「ご覧頂けましたでしょうか。今、貴方がたがまさに目にしたものがっ! エンデの冒険者を支え続けた『聖女』の奇跡、その一端である!」


「おぉ……」


「神秘的だ……」


 食い付いたな。手筈は整った。あとは丸め込むだけである。

 俺は小瓶一杯に水を満たし、民衆に向けて高らかに見せ付けた。


「これは高名なる『聖女』オリビア様が手ずから聖別した祝福水である! 今、ここにいる方には奇跡の産物であるこの祝福水をお譲りしたいと思っております」


「えっ……ほ、本当か!?」


「無論です。ですが……『聖女』様の祝福を賜るには条件がある。心付け、という言葉は分かるでしょう?」


 俺の言葉を聞いた何人かは目に見えて落胆の表情を浮かべた。まぁそうなるわな。金を取る時点でそれは施しではなく商売になる。

 ここに集まったやつらは裕福とはいえないやつらが大半だ。金を余らせているやつはわざわざ水汲みなどせず湧水の式が刻まれた魔石を買って楽をしている。不景気の波に影響を受けて四苦八苦している連中がほとんどだろう。


 勿体ぶった演出で作った祝福水はいったいどれほどの値段になるのだろうか。そういう心理は逆手に取れる。俺は高らかに宣言した。


「心付けは……銅貨三枚。水一杯につき銅貨三枚である!」


「……えっ?」

「銅貨、三枚?」

「それだけ、なのか……?」


 エンデでよく食されている串焼き一本の相場は銅貨五枚といったところだ。ツマミ用の炒り豆が少量で銅貨三枚くらいである。

 つまるところ、銅貨三枚という値段はむちゃくちゃ安い。失ったところで財布に響きはしないだろう。


 裏を返せばどれほど売っても大した儲けにならないというわけだが、これはもちろん熟考した上での価格設定である。


「お聞きなさい。『聖女』様は……貴方がたから糧を奪うつもりなど毛頭ない」


「ニコラス殿の仰る通りです。わたくしは商売がしたいのではありません」


 俺の言葉を継いでオリビアが朗々と語る。まるで本物の聖女のように。


「わたくしはただ……今、わたくしにできることをしたいと、そう思っただけなのです。ですが、大きく事を構えようとすればどうしてもお金が入り用になります。なので多くの方からほんの少量ずつ頂ければと思って今回の話をニコラス殿に持ち掛けたのです」


 ポイントは三つだ。

『聖女』が何か大きな事をしようとしている。

 そのための資金を工面しようと奔走している。

 この話は『聖女』自らが考案したものである。


 動くのは、そこらの庶民だけじゃない。嗅覚の優れたやつらは必ずこの話を好機と捉えるはずだ。


 機を見るに敏な連中は今夜にでも動き出す。それまではここに集った連中に働いてもらうとしよう。

響声アジテート】発動。俺はバッと両手を広げて『聖女』の功績を褒め称えた。


「私は『聖女』様の慈悲の心に強く賛同の意を示したッ! 救世済民の理を体現するような御方だ……。私はですね、敢えて言わせていただきますが、女神という存在を信じておりません。この世に神が御座おわすならば……それはオリビア様であるッ!!」


 王都の往来で口にしようものなら即座にひっ捕らえられる禁句だが、この街ならば大胆不敵な前口上に取って代わられる。

 返ってきたのは不敬を咎める罵声ではなく気持ちの良い歓声であった。


「『聖女』様の偉業、その第一歩を盤石にするため私ニコラスは杖となることを決意しました。貴方がたにはゆく道を照らす灯火になって頂きたく」


 ここで本題へと戻る。俺は再び祝福水を掲げて言った。


「『聖女』オリビア様が聖別した祝福水……飲めば滋養強壮、恋愛成就、運気改善、食欲増進! 生まれ変わったような気分になれるでしょう……。寄進は銅貨三枚になります。容器の準備が整った方から前へどうぞ」


 数瞬の後、熱に浮かされた民衆が揃って水甕の前に殺到した。


 ▷


「なんかさー、回りくどくねえか?」


 その日の夜。金持ち連中しか利用しない宿の一室で諸々の準備を整えていたところ、顔をのぞかせたオリビアが開口一番に疑問を呈した。


「アンタ、要は金が欲しいんだろ? だったらアタシが大量に魔石を加工すればそれで終わりじゃねぇか。持ってくとこ持ってけば金貨なんていくらでも稼げるんじゃねぇの?」


「どうしたよ急に。不満なのか?」


「いや不満っつか……まだるっこしいことしてんなぁと思ってよ」


「文句がないならいいだろ。何でもすると言ったのはお前なんだからな」


「まぁそっちがいいならいいけどよ……」


 いいに決まってる。計画はすこぶる順調だ。微塵の瑕疵もない。


 オリビアに魔石を加工させ、それを高値で売り捌く。それもありだが、些か短絡的に過ぎる。賢いやり方とはいえない。

 オリビアは金級だ。魔物の活動が活発になったらすぐさま戦場へとんぼ返りすることになる。魔石の加工は個人の力量によるところが大きいので、オリビアとの連絡が途絶えた時点で金を得る手段も消える。それでは意味がない。


 真に欲するのはオリビアが生み出した金じゃない。『聖女』というブランドが生み続ける経済の流れだ。ひいてはその源流にこの俺ニコラスが君臨することである。


 祝福水の噂はすぐさま広まった。集まった連中ざっと五百人くらいに水を売りつけただろうか。大変な労力だったが、それでも儲けは銀貨十五枚ぽっちである。普段の儲けに比べたら割に合わないどころの話ではない。


 だが昼の活動はほんのきっかけに過ぎない。まさしく呼び水ってやつよ。


 ……いま、この宿の大広間には各分野で突出した成果を上げた豪商が駆けつけている。狙い通りだ。そのために噂を広めた。『聖女』という付加価値の化身が何か大きな事を起こそうとしている、と。


 金を用立てる提案をしてくるやつ、自分らの商会の製品をアピールしてくるやつ、支援を名目に計画の中枢へと潜り込もうとするやつ。おおかたそんなところか。


「くくっ……ギルド主導の活動ではないとアピールした甲斐があったぜ。付け入る隙ありと判断したんだろうな。本当に鼻が効くようで何よりだ」


 聖女の祝福水を銅貨三枚で売っていると聞いた時、やつらは酷く嘆息したことだろう。何を馬鹿なと毒づいたかもしれない。同時にニコラスという男を見くびったはずだ。金級という存在の価値も知らぬ凡愚め。その座を明け渡せ、と。


 全員だ。ナメた考えでたかってきた全員を、揃って美味しく頂くとするかね……!

 俺は丁寧に聖別された祝福水のように清らかな笑みを浮かべた。

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