勇者ガルド、色街で覚醒する
冒険者割引が利く飯処でガッツリとした肉と酒を堪能してから定宿へと戻ってきたところ、へべれけと化した女将が俺を出迎えた。
「エイトちゃあん……おかえりぃ……」
俺が贔屓にしている宿は受付を担う女将が色街の娼婦も兼任しており昼夜出ずっぱりのため、宿の体を取っているくせして飯も出ないしサービスも悪い。泊まろうと思っても受付がいないなんてザラだし、運良く泊まれても見ず知らずの連中の喘ぎ声が子守唄として流れるクソ宿なので客は消えていなくなる。
だが俺にとってはいい隠れ家だ。知らんやつらが寄り付かないってだけで計り知れない価値がある。
それにここの女将は口が固い。俺が数日戻らなくても何も言わないし、勝手に部屋に入ったりしないので信頼を置ける。彼女との縁は切るべきではないと俺の経験は告げていた。
「あはぁ……酔っ払っちゃったよぉ〜……ねぇ、酷いの! お客さんったら、散々お酒飲んだら一人で酔い潰れて、わたしのこと放ったらかしでぐっすりなの! もう、お店抜けてきちゃった〜」
強い酒精の匂いを漂わせた女将が身体の熱を冷まそうと服の胸元を掴んで空気を送っていたが、酷く上気した頬を見るに効果の程は薄そうだ。きっと興奮作用を及ぼす類の酒を飲んだのだろう。
この街でクスリの恩恵に与っているのは冒険者だけではない。過酷な戦場で心身を磨り減らした冒険者が安寧を求めるように、娼婦もストレスや苦労で心を痛めないようクスリに頼ることがある。興奮作用を引き起こす酒もその一種だ。飲まなきゃヤってられないってやつだな。
色街で働く者の多くは孤児上がりや流れ者、もしくは伴侶を亡くして拠り所を失った未亡人などだ。働くことになった事情は様々ある。
それしか道がなかった。借金のカタに。身を粉にして戦う冒険者を支えたい。中には好んで働くスキものだっていると聞く。
ギルドは彼女らの貢献を鑑みて厚い保護と割高な給付を手配している。冒険者連中の昂ぶりを発散させる先が必要だったんだろう。街で強姦騒ぎが頻発したら洒落にならんからな。
言っちまえばこれも一つの治安維持にあたる。厚遇を約束することで質のいい娼婦を揃え、冒険者連中や金を余らせたやり手の商人を満足させることで平和と発展を同時に促す。俺は利用する気なんて更々ないが、色街はこの街の名物だ。
「はぁ〜……あっつぅい……あついよ〜! エイトちゃあん!」
まあ、いくら厚遇が約束されてるからってならば良しとはならんだろう。
相手をするのは切った張ったの世界に身を置く連中が大半だ。鍛え上げられた肉体を持つ男が欲の発散のために己を抱く。相応の恐怖や心労に苛まれるに違いない。
ギルドは娼婦への乱雑な扱いや暴行を禁止するよう厳命しているが、それでも馬鹿なやつってのは一定数いるもんだ。勢いをつけるために酒や軽いクスリの力を頼ることもあらぁな。
「ねぇ……部屋、行ってもいい?」
女将がすっと近寄ってきて俺の腕を絡め取った。擽るように指先を絡めてきてから潤んだ瞳でこちらを見上げてくる。
俺より年はいってるだろうが、まだ若い部類なのによくやるよ。女慣れしてない石級や鉄級なんかが引っ掛かったら大変なことになりそうだ。
俺も女将も互いの素性や経歴を探り合わない。何かしらの事情を抱えているんだろうなと互いに察しつつ、適切な距離を保って踏み込むことはない。知る必要がないからだ。そして俺は今後もそういう距離感を保ちたい。
自分に【
「悪いがそういう気分じゃねぇの。そと行って適当な男捕まえて来い」
「エイトちゃんがいーい!」
「なんでだよ……」
「だって意外と紳士的だしぃ〜」
俺は種を撒く気がないからそう映るだけだろう。
「それに結構身綺麗にしてるし!」
頻繁に死ぬからな。身体の汚れは勝手に落ちる。
「ねぇ……いいでしょ?」
精神を安定させる【
「えっ……ここでぇ? お客さんきたらどうするの……?」
「こんなクソ宿になんて誰もこねぇよ。……さて、始めるか」
「……っ!」
ゴクリとつばを飲み込む女将の頭に手を添える。何を期待してるのか知らんが、まあそれなりに応えられるよう力を尽くすとするかね。
最近俺は魔法の開発に凝っている。きっかけは補助魔法をスライ向けに変質させた件だ。
俺はあの一件で【
そこで思ったのだ。使える魔法を作り出し続ければいつかとんでもない飯の種になる魔法が出来上がるんじゃないか、と。
研鑽と試行錯誤を重ねた経験があるからこそ俺は魔法を変質させることができる。その能力を腐らせておくなんて勿体ない。磨き上げた宝飾の類も砕けてしまえばガラクタだ。腕に錆が浮かないよう手入れしてやる必要がある。
ということで被験体になってもらおう。俺は魔法を発動した。
酒気を帯びた者の脳をパーにする【
肉体の内部に走る感覚を鋭敏化させる【
肉体の表皮で受ける刺激や動作の感覚を鮮明にする【
併せて三つ。練り上げる。
魔法が形を為す前に作用を捻じ曲げ、変質させ、新たな型に落とし込んで別物へと変容させる。
【
「っ!? っあッ!?」
【
俺の新魔法を浴びた女将は二、三度痙攣すると恍惚の表情を浮かべてソファに倒れ伏した。ふむ、効果は上々か。俺の魔法変質の匙加減も鈍っちゃいないようで何よりである。
「ただこいつは使い所がねぇな……酒に酔った女将を撃退するくらいか?」
勢いに任せて作ったはいいが……なんとも限定的な効果の魔法である。
ま、いいさ。こういう地道な積み重ねがいつか金の流れを生むはずだ。俺はその時まで研鑽を続けるのみ。俺は適当な部屋からシーツを持ってきて女将に被せ、自室に戻ってから【
▷
「エイトちゃん! 昨日の、あの不思議な魔法の力を貸してっ! お金なら払うからっ!」
「えっ?」
▷
俺は顔と体を覆い隠す黒一色の隠密衣装を身に纏い、色街にあるお高い娼館の一室で息を潜めていた。
扉が開いた時にちょうど影になる位置で壁に張り付いて時を待つ。息を殺し、物音一つ立てないように静かに。
そして時が訪れた。
相当深く酔っているのだろう、下品な男の制御しきれていない笑い声が外から響いてくる。相槌を打つ女の声はどこか引き気味だ。それだけで男の品性をうすらと察せられるというもの。
笑い声が部屋のすぐ前まで来た。……そろそろだな。魔法の発動準備を終える。
ガチャリと音がしてノブが回された。内開きのドアが開き、男女のペアが部屋へと入ってくる。狙いは酒に酔っている男だ。死角から忍び寄り、そっと男の頭に手を添える。【
「そこで俺ぁ言ってやったのよ! そんな腕じゃいつまで経っても石級、おッ!?」
ビクンと震えた男がにへらと締まらない笑みを浮かべて膝から崩れ落ちた。程なくして気絶する。
ふむ、やはり冒険者は頑丈だ。昨日女将にかけた時よりもだいぶ出力を上げたが、それくらいでないとむしろ効き目薄といったところか。絶妙な塩梅が要求されるものである。
「わぁ、すごい……! あの、ありがとうございました!」
下品な男と一晩を共に過ごす予定だった娼婦がぺこりと頭を下げてきた。声を聞かれたくないので片手を上げて応じる。【
これが俺の新ビジネス、迷惑客撃退商売だ。
娼館に訪れる客の中には娼婦たちからあまり歓迎されない連中がいるらしい。乱暴で粗野な態度の客。不潔、不衛生を直そうとしない客。拗れた癖を惜しげもなく押し付けてくる客などなど。
俺はそうした連中にちょいと魔法をかけてやる役である。別室で娼婦が男に酒をたらふく飲ませて酔わせ、部屋につくと同時に眠ってもらうというのが仕事内容だ。
男は一発もヤれずに終わるわけだが、俺の魔法のおかげで強烈な快感の記憶だけは残っている。文句なんて出るはずもない。あとは朝起きた時に同衾している娼婦の口八丁で煙に巻くという作戦だ。
酔ってて何も覚えてないんでしょ、とでも
速やかに仕事を終えた俺は別室へと移動し、新たな迷惑客が到着するのを待つ。鼻をつまみたくなるような匂いを漂わせる男を眠らせ、陰湿な性癖を抱えているという商人を眠らせ、素行の悪そうな男を眠らせる。
実に簡単な商売だ。まさか即席の魔法にこんな使いみちがあったとは思わなかった。やはり貴重な縁ってのは繋いでおくもんだな。どこがどう転がって金になるか予想できたもんじゃねぇ。加えてなかなかいい金になるってんだから笑いが止まらんね。
一人眠らせるだけで銀貨十枚。景気のいい話である。それだけ娼館も従業員の保護に積極的ということだろう。普段は我慢してもらっているが、たまには休みがあってもいい、だそうだ。泣ける話じゃねぇの。全力でお手伝いさせていただきますよ。貰うモンは貰うがな?
十人眠らせればそれだけで金貨一枚である。しかも元手がゼロときた。いいね。良い商売だ。小遣い稼ぎには悪くない。俺は息を潜めて新たなカモが来るのを待った。
「んンンフゥゥぅぅ〜……」
嘘じゃん。
廊下から聞こえた唸り声と壁越しでも伝わる熱気に俺は薄ら寒さを覚えた。嘘だろ。おい。それはさすがに無理だから。
俺は野太い唸り声の主が扉を通り過ぎてくれることを女神に祈った。俺がこんなに真摯に祈ったのなんて生まれて初めてかもしれない。頼む、どっか行け!
果たして、扉がガチャリと音を立てて開いた。クソが。死ねよ女神。
窮屈そうに身を屈めて扉から入ってきた偉丈夫が酒気と熱気を振りまいて憚らない。金級、アウグスト。『柱石』様のお出ましだ。
俺は速やかに部屋から出ていこうとしたのだが、野生の勘なのか、ぐわと手を伸ばしたアウグストに腕を掴まれて逃走を封じられた。そのままずるずると引き寄せられる。おい、おい、冗談だろ……?
「今宵の夜伽の乙女はァ……貴女、か? 宜しくゥ、頼む」
目の焦点がブレている。こいつ……クソほど酔ってやがるぞ。相当に強い酒を飲まされたと見える。俺のことにまだ気付いていない。それはつまり、こいつは俺のことを女だと……おい! 馬鹿触んじゃねぇ! クソっ! こんなの笑い話にもならねぇぞッ!!
【
「ンぅッ!! 熱烈な歓迎ッ、痛み入るッ!!」
特殊なプレイだと認識されてしまったらしい。なんだ、何なんだこの生き物は。俺はドン引きした。同時に恐怖が込み上げてくる。どうやって逃げればいいんだこれ……?
「ッ!」
緩慢な動きで『柱石』が動く。俺の腕を掴んでいる手とは逆の手が、まるで俺を抱きすくめるかのように。冗談じゃねぇ!
強化した肉体を捻り、あらんばかりの力を込めて脚を跳ねさせた。目標はやつの膝裏だ。酔ってフラついている今なら刈れる。
「オッ!」
姿勢を崩して仰向けに倒れ伏したアウグストは、しかし俺の腕を確りと握って離さない。畜生が! 俺もつられて倒れ込む。ならば……ッ!
倒れ込む瞬間、床を蹴ってアウグストの眼前へと躍り出る。こいつは……ここで沈める。酒が回って赤ら顔になったアウグストに手をかざし魔法を行使する。【
「ンンッ!! 魔法はダメだッ! 俺様にはァ……効かんッ! その瑞瑞しい肉体で、直接語り、聞かせてくれェ……!」
抵抗力が……高すぎる。なんだこの化け物は……。どうする? どうすればいい? 一瞬の逡巡が致命的な隙を生んだ。
「フンッ」
丸太のように太い腕が俺の腰に回される。もがいても、押し退けようとしても、まるでビクともしない。退路を完全に塞がれた。化け物め……!
「くそ、がっ……やめろ! 俺は男だぞッ!」
「そういう設定かァ……男として生きてきた乙女が、男をなぶる快感を知ってメスになる……実に趣深い」
駄目だこいつ。頭がおかしい。
生存本能を開放する。そうした時、俺は極めて純粋かつ単純な結論として眼の前の脅威の排除を試みた。自然に身体が動く。俺はアウグストの頸部に腕を押し付けてありったけの力を込めた。意識を落とせば逃げられる。俺は必死だった。
「ぬッ!? 首絞めっ……! どうやら基礎は習得済みのようだなッ!」
だというのにこれだよ。なんだこいつ。無敵か?
俺は殺す気で挑んでいるのに、どうしてだろう、何故か俺の方の心が折られそうだった。
止まってはならない。俺は半ば狂乱状態になりながら右手でアウグストの頬を殴りつけ、左の掌底を目に落とした。
「目ッッ! 躊躇いの無さは才能の証左ッッ!! 情熱的だ……乙女よ、名は何と言う?」
身の毛もよだつ、とはまさにこのことだと思った。意味が分からない。分かりたくない。脳が理解を拒んでいた。理解したことといえば、眼の前の化け物に対する遠慮はもはや無用であるということ。
懐から短剣を取り出す。いつもの短剣だと刃が折れてしまいそうだったので、丈夫ながらも切れ味を重視した普通の短剣だ。逆手で握り込む。そのまま重力の力を借りて喉元へと突き立てようとするも――
「それは、まだ早い」
軽々と受け止められて取り上げられてしまった。
まだ早いとは? もう何もかも分からない。こいつなんで金級なんだよ。ギルドは魔物よりもコイツを早く滅ぼせ。
「そう焦るンじゃあない……夜はァ……まだ長いぞォ……!」
不快な鼻息を鳴らしたアウグストが俺の腰に回した腕の拘束を強め、そして空いているもう片方の手を俺のケツへと添えた。
瞬間、俺の頭の中に過去の記憶が駆け巡る。
それは冒険者ギルドに登録して間もない頃、石級として集団講習を受けていた時の記憶。あれはたしかパーティーを組む際の注意とかだった気がする。
『男っつうのはふとした瞬間に馬鹿になっからなー。安全だと思ってたら寝込みを襲われるなんてことも珍しくねー。ここにいる女はそれを念頭に置いておけよー。襲われたら声出せ、声。大声でな。とにかく声出しゃいいんだよ。そうすりゃ、まー運が良ければ助かる』
俺は大声で助けを求めようとして、喉が張り付いたように動かないことに今更気づいた。本能的な恐怖が発声器官に深刻な不具合をきたしている。襲われた女が声を上げられなくなるという理由を、俺は心底不愉快な経験とともに理解した。
「フムぅん……なかなか、鍛えているな……? いいぞ、今日は……随分と楽しめそうだ……! 今宵、俺様の『柱石』が天を差すッッ!」
ゴツい岩のような手が装束の上を這い回る。打つ手立てが無くなった。どんなに力を入れても逃げられない。
や、やめろ……。誰か助けてくれ……。言葉が喉を滑り落ちて声を成さない。恐怖という感情がここまで肉体を縛るなんて思ってもみなかった。け、ケツが……俺のケツが人生最大の危機を迎えている……。
俺は――ここで終わるのか?
勇者は死んでも生き返る。そういうふうに出来ている。だが、『勇者ガルド』が死ぬとしたら、それは今この瞬間なのかもしれない。
そんな……
そんなことがあってたまるか……ッ!
極限まで集中力を研ぎ澄ます。過去に類を見ないほどの危機を前に全生命力が沸騰するのを感じた。頭蓋の奥にある異物感が邪魔だ。これは……。
「洗、脳……かッ!」
堰き止めるような、締め付けるような戒めを無理やり引き千切る。鬱陶しい枷が弾けて消えた。魔力が視える。触れる。
降りてきた。いや……違う。思い出したという表現がしっくり来る。鍵の掛かっていた引き出しを力尽くで抉じ開けたような感覚。俺はこの魔法を……知っていた。
一つの補助を束ね、重ね、三重に巡らせることで効果を数倍に跳ね上げる秘奥。強靭な魔物だろうと、勇者だろうと抗し得ない補助魔法の真髄。唱える。
「【
それは人が許容し得る補助の枠の全てを費やして作用する。人の域を――勇者の域をさえ外れんとして生み出された狂気の結晶。
祝福として与えれば存在の格を遥か高みへ押し上げ――
「ヌゥ、う? これァ……?」
呪詛として与えれば金級を凡愚へと貶めることすら能う。
「らぁッ!」
鳩尾に掌底を落とす。鋼線の如く撚られた筋肉が、岩肌のように変容した表皮が嘘のように柔い。肉の鎧を突破した手応えが、確かにあった。
「かッ……ふっ!」
拘束が緩む。光明が差した。ここしかない。俺は体を捻って石塊のような双腕から抜け出し、俺を捕まえようと伸ばされた五指から逃れ、この野郎が万が一にも追って来ることが無いように――
「!?」
アウグストの玉を蹴り上げた。
「ンンぉぉぉおおおおオオオほッ!! ンンォオオアアアアァァァッッッッ!!!」
この世の終わりを嘆く慟哭にも似た咆哮を上げるアウグストを無視して俺は駆けた。四肢を振り乱し、息も絶え絶えになりながら。
俺を呼び止める女将を振り払い。娼館の出口に居た客を突き飛ばし。通行人に奇異の視線を向けられようとも構わず、一心不乱に駆けた。
人の影が無い定宿に駆け込み、階段を駆け上がって自室へと飛び込み、真っ暗な部屋の隅で膝を抱えていたら、トクンと脈打つ心音が生の実感を俺に与えてくれた。
この世には、首を落とされて死ぬよりも、腹を掻っ捌かれて死ぬよりも、遥かに怖いことがある。
我が身の無事を改めて認識した途端、言いようのない安堵感が押し寄せてきて、俺は部屋の隅で膝を抱えながらほろりと泣いた。
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