スピカ。或いは光り輝く路傍の石

「スピカ。貴女は少々疲れているようだ。まずは軽く酒精を入れて気分を晴らすと良い」


 俺はそう言ってグラスに酒を注ぎ、テーブルの向かいへとグラスを滑らせた。

 対面に座るスピカは軽く俯き、膝の辺りで拳を強く握りしめている。手の震えは寒さや空腹からくるものではないだろう。緊張か、はたまた不安か。


 どうでもいい。俺が今すべきことはこの小娘に翻意を促すことだ。

 歌姫を辞めたい。なぜだ。なぜ歌うだけで湧き水のように金が溢れてくる美味しい立場を自ら放棄しようとしてやがる。理由を突き止めなくてはならない。口を軽くするには酒の力を借りるのが一番だ。


「いえ、大丈夫です」


 しかしスピカは酒を口にしない。気を落ち着かせるように深い呼吸を繰り返し、その度に起伏の少ない胸部が上下していた。着ている服は初めて会った時に着ていた生成りのローブ。こちらが用意した寝間着やドレスは綺麗に折りたたまれてベッドに置かれていた。


 それは訣別のつもりか。スピカ。


「環境の急激な変化で気を揉むことがあったのでしょう。こちらの配慮が足りていませんでした。少し休養の時間を設けましょうか」


「いえ、あの」

「なんなら少しこの地を離れてみるのもいい。王都の劇団を観覧したら程よい刺激を得られるでしょう」


 なぜ辞めたいのか、とは聞かなかった。人ってのは思いを口にすることで覚悟を決めることがままある。多少のわざとらしさがあるのは承知の上だが、それでもしらを切る必要があった。


 あまり喋らせたくない。そう判断して言葉を続けようとしたところ


「それは嫌です」


 存外強い口調のスピカの一言に遮られた。

 ……どこで忌諱ききに触れたんだ? 何がそんなに気に入らなかった。王都か、それとも他の街か。


 失態だな。人となりの把握を怠るべきではなかったか。スラム上がりの貧乏少女など銀貨の数枚を握らせて、美味い飯と暖かな寝床を用意すればころっと転んでくれるだろうと甘く見ていた。そのツケが回ってきている。


「オーケー、スピカ。私は貴女の敵ではない。貴女が嫌がることはしないと誓いましょう。肩の力を抜いて下さい」


「……はい。すみません、私はどうしてもこの街は離れたくないんです」


 よしよし。まずは断片的な情報を得ることから始めよう。そうすりゃ妥協点が見えてくる。なぜ辞めるなどと言い出したのかは知らんが……その条件なら続けてもいい、というところまで落とし込む。まずはそれからだ。


「オーケーオーケー。少し話を急ぎすぎましたね。スピカ、貴女がこの街に残り続けることを望むならばその意思を尊重しましょう」


 元よりスピカの歌が王都で通じるなどと思っていない。全国的な歌姫になるなんてのはただのリップサービスだ。この街に残りたいなら結構。エンデだけでもしばらくは十分過ぎる儲けを得られるだろう。この街の住人は熱し易く、しかし冷め易い。それまでは絞れるだけ絞っておかねばな。


「セイン、さん」


 座長と呼ばない。

 壁を作られた。或いは本人の中ではもうそのつもりなのか。


「とても得難い体験をさせてもらったと思ってます。美味しいご飯の味とか、ふかふかのベッドの寝心地とか、普通に生きてたら知ることすらできなかった。……セインさんの言うことに従えば、きっとこの先も何不自由することなく生きていける」


 でも。

 そう前置きしてスピカは頭を下げた。


「歌姫を、辞めさせてください」


 ……こりゃ、今のやり方じゃ駄目だな。方針を転換しよう。

 ちまちま探るのはもうやめだ。辞めたい理由を一から十まで聞き出して、その全ての理由に完璧な解決策を提示して、その上でぐぅの音も出ないほどの好待遇を整えてやる。それで十分だろう。


「わけを聞いても?」


「私は……歌を歌いたかったわけじゃないんです。ただ、感謝を伝える方法をそれしか思いつかなかった。だから歌っていたんです」


「手段であって目的ではなかった」


「はい」


 内心で舌打ちする。前提が覆りやがったぞ、おい。どうしろってんだよ。


「でも案外悪くないんじゃないかなって、途中からは思いました。……歌姫の座を降りても、私は多分この街で歌い続けます」


「……難題に過ぎる。それは歌姫として歌うのと何が違うのですか?」


「感謝の気持ちが薄れていく……って言っても分からないですよね? なんて言えばいいのかな……私は、多分、裕福になっちゃいけないんだと思います」


 いよいよもってわけが分からねぇ。何を突然修行僧みたいなことを言い出しやがったんだコイツ。


「私には……何もなかった。力は弱くて、魔法も使えなくて。つい最近までスラムのみんなに頼り切りだった。でも……この歳になったら誰かに甘えるなんて許されない」


「十五、六になったらスラムのグループから追い出される」


「はい。でも、私は何もできなかった。せめて自分で食べるものを調達しないとって思って森に通ってたんですけど……ある時魔物に襲われたんです」


 珍しい話じゃない。

 冒険者になれなかったスラム上がりの未来は主に三つだ。何処かの下働きになるか、盗人に身をやつすか、誰も知らないところでひっそりと野垂れ死ぬか。


「あぁ、死ぬんだって。ついにかーって感じでした。そう理解した時に、急に怖くなって叫んじゃったんです。きゃあって、みっともなく」


「……貴女の歌は、まさか」


「ええ。私の実体験です。私は通りすがりの冒険者の方に命を救われた」


 スピカの語りを聞きつつ考えを巡らせる。どういう言葉を掛けるのが効果的か。


「私を助ける理由なんて、その人にはなかった。だから私は、どうして、って聞いたんです。そうしたらその人は、なんてことないように笑って言ったんです。『綺麗な声を聞かせてもらったからそのお礼だ』って」


 使えるストーリーだ。歌姫スピカというハリボテに骨と肉が足されていく。使えるぞ。俺はにこやかに笑みを浮かべて軽く拍手した。


「美しい話だ。なるほど、それで貴女は感謝を歌った、と」


「はい。助けられた後に呆然としたまま街に帰って、路地裏で蹲ったときに自分の心音を聞いて、生きてるんだって実感して、そこで初めて気付いたんです。私はまだ、ありがとうすら言えていない」


 切り込むべき箇所が見えてきた。ここだなと、そう思った。故に踏み込む。


「素晴らしい心意気です。感謝の念は儚く、そして消えやすい。それを抱き続けられる者がこの世界にどれほどいることか! スピカ、我々は貴女の力になれる。尊きその想いは、このセインが全霊を賭してその冒険者の方に届けてみせましょう」


「死にました」


 そうして、切ってはならない糸を切り落とした。そんな感触がした。


「私を助けてくれた冒険者の人は……次の日に、あっさり死んじゃいました。ギルドの人から聞いたから間違いありません」


 この流れは良くない。

 咄嗟の判断で口からまろびでた言葉は驚くほどに薄っぺらい言葉で


「……でしたら、女神様の許へと向かった御霊へと歌声を届けましょう」


「あはは……セインさん。女神様なんているわけないじゃないですか」


 故に昏く純粋な情念に喝破された。


「女神様なんていたら、私を救っておいて、あの優しい人を殺すわけがない。セインさん。神なんて、いませんよ。もしもいるとしたら、それは性格の悪い悪魔かなにかです」


 全くの同意見だった。反論の余地がない。俺はスラム上がりの小娘に気圧されていた。自分でも驚くほどに。


「なんのために生まれたか、なんてことは分かりません。でもあの人に生かされて、これから何をしようかって考えたんです。あれこれ考えるうちに、私は多くの人たちに生かされていたことに気付いた。スラムのみんな。冒険者の人たち。食べ物を恵んでくれた店主さん」


 俺の沈黙をよそにスピカが語る。


「感謝だけが残ったんです。でも一人ひとりに顔を見せてありがとうなんて言えないから……歌を歌ったんです。綺麗な声、なんてお世辞を言われて浮かれてたのかもしれませんね」


 清々しく自嘲するスピカの顔をなんとなく直視できず目を逸らす。腹の中に釈然としない感情がわだかまっていた。セインという仮面に亀裂が生じているのを理解しつつも言葉は止まらなかった。


「ならその感謝を胸に歌姫として歌えばいいでしょう。わざわざ見窄らしい姿に戻ることになんの意味がある」


 セインはこんなセリフを吐かない。これは勇者ガルドの影だ。


「セインさん、さっき言ってたじゃないですか。人は感謝を忘れてしまうって。……私もその一人です。銀貨の山を見たときに、ご馳走をお腹いっぱいに食べたときに、満たされた分だけ、もういいかなって思っちゃったんです。私は……それが嫌だった」


「だから裕福になったらいけないってか? 順序が逆だろうが。死人に口は開けないんだぞ? だったら才能を活かせるこの状況を利用して金を稼いでやろうって気持ちを持てよ」


 飾ることをやめ、半ば恫喝のようになった俺の言葉を聞いてもスピカは動じなかった。ゆるゆると首を振って言う。


「私を見くびらないでください。私が一番私の不出来さを知ってるんです。私の歌、下手くそでしょ? 才能なんてあるわけない。分かってるんです。なんでも出来るセインさんが、何か凄いことをしたんだなって。でも……もう大丈夫です」


 ああ、クソ、イライラする。なんだその顔は。不出来を悟って諦めたような顔すんじゃねぇ。ちっとくらいは生き足掻けよ。


「そこまで分かってんなら、なんで俺の手を払った。このままだとお前は野垂れ死ぬだけだろ」


「私は……命を救われた身です。死んでも構いません」


 死んでも、構わないだと?


 ふざけるな。ふざけんなよこのクソがッ!!


「なんだそりゃあ……テメェ、自分が何を口走ってんのか自覚してんのか……? 理解できねぇ! 理解できねぇぞッ!!」


 ニンゲンが、冗談でもその言葉を口走るんじゃねぇ。


「命を救われたから死んでもいい、なんてクソみたいな理屈が通ってたまるかッ! それが、そんなふざけた考えが通っちまったらこの世界のやつらは一匹残らず死人と変わらねぇ!! 生き足掻くのがてめぇらの、せめてもの役割だろうがッ! それすら放棄するようなやつがいたら、だったら勇者はなんのために……っ!」


 世界を救ってやがる


「セインさん、逆ですよ」


「あぁ!?」


「私は命を救われたその時に……初めて自分を見つけたんです。生きるためだけに生きていた以前とは違う。私はどうせ失くしていた命なんだから今さら、なんてこれっぽっちも思ってません。救われた命に恥じない生き方をしたい。その末の終着点が死だったなら本望だと、そう言いたいんです」


「…………それは、たった一つの命よりも大事なことなのかよ」


「はい」


 駄目だ。これはもう動かせない。

 死地を定めた兵士のような目をしたスピカを見て、俺は脱力して椅子へと崩れ落ち、そこで初めて自分が苛立ちのままに立ち上がっていたことに気付いた。

 シルクハットが落ちる。なんとなく顔を見られたくなくて、俺は片手で目と額を覆った。


「馬鹿な判断だってみんなに笑われるかもしれません」


 だろうな。


「それでも私は……この街を守ってくれている勇者のために、感謝を込めて歌いたい」


「……………………そうかよ」


 ならもう何も言えねぇよ。元より、言う権利がねぇ。この街を救ってんのは姉上たちじゃねえしな。


「あっ、でも……」


 スピカは先程まで勢いよく啖呵を切っていた人物とは思えないほどの弱気な声を出した。


「あの……セインさん、既にいろんな商品を頼んじゃったって聞いたので、それが全部売れたら辞める、っていう方向性でお願いできますか……? 私、借金とかできる伝手がないので……その、今回の件ははっきりと物を言わなかった私にも非があるので、そこは責任を果たさなければと思う所存でして……」


 んだよ。そんなことか。

 なに急に背を丸めて顔を伺ってやがる。んな気遣いいるかっての。


「あまり私を見くびらないことですね。あいにく私は、スピカ、貴女と違って何でもできるんですよ」


 足元に落ちたシルクハットを拾って被り直す。燕尾のコートのシワを伸ばし、不敵に笑えば座長セインの完成だ。


「全ての契約を反故にしたところで赤字になんてなりません。閑古鳥を鳴かせないのが私のモットーでね。演者が一人抜けたくらいで揺らぐなどと思われるのは業腹だ。スピカ、貴女の負うべき責など何も無い」


「でも」

「それに」


 言葉を被せて席を立つ。背を向け、返事はいらぬと態度で示してから言葉を紡ぐ。


「鳴くを望まぬ鳥を舞台に立たせるのは……私の流儀に反する」


 お払い箱だ。バカ野郎め。


 ▷


 仕入れたドレスやガラクタを売りに出し、関係各所に依頼した様々な予約を取り消し、商会を回って契約解除の違約金を払い……と、八方へと手を回した結果、俺の手に残ったのはたったの金貨一枚であった。


 労力に見合ってねぇな。約十日の間働き詰めでこれだぜ。日数換算で銀貨十枚。シケた商売だったぜ。


「血に塗れ 風雨にうたれ 傷の絶えない険しき道を あなたは今も旅しているのか」


 広場で歌うスピカの顔はどこか吹っ切れた様子だった。

 しかし相変わらず歌は下手くそである。俺の補助が効いていないせいで観客からの受けも悪い。ついこの間まで野太い声援を送っていたやつらは揃って首を傾げている。俺はどうしてあんな歌声に夢中になっていたのか。耳をすませばそんな声すら聴こえてくる始末だ。


 おひねり入れを見る。銅貨四枚。やっすいやっすい串焼きが一本買えるかどうかという値段である。スピカ、それがお前の今の価値だ。


 一曲歌い終えたスピカがペコリと頭を下げる。疎らな拍手がポツポツと聞こえてくるが、ついぞ硬貨が奏でる音は聞こえてこなかった。


 一回り大きいローブを纏った俺はフードを改めて深く被り直した。金貨を指で弾いてから身を翻す。おおっという声と息を飲むような声が響くのを無視して歩みを進める。


「っ……! あのっ! ……ありがとう、ございましたっ!」


 勘違いすんじゃねぇよ。それは餞別でもなんでもない。この俺の考えを正面切って否定したお前を、俺が簡単に見殺しにすると思うなよ。

 生き足掻け。もがいて、もがいて、そしてどうしようもなくなったときに打ちひしがれろ。お前が手ひどく後悔するまでの時間を俺が買ってやる。それだけだ。


 ざわつく広場を後にして路地裏へと向かう。光の当たる場所から、暗く湿った日陰へ。あぁ、俺にはこの涼しさがちょうどいい。鬱陶しいフードをめくる。路地裏から見上げた空は心なしかいつもより小さく見えた。


「……宜しいので?」


 給金が増えたらしく、スピカ応援セットを贅沢にフル装備したミラさんが問い掛けてくる。

 宜しいのか、ね。


「元より彼女とはそういう契約です。狭い籠の中で鳴くのが好きな鳥がいてもいい。彼女の運命は、彼女のものだ」


「……そうですか」


 今は手を引くさ。今は、な。

 その囀りが涙混じりの泣き声に変わり、みっともない泣き言へと変わった瞬間にそっと肩を叩いてやる。その時、同じように俺の手を払えるか。試してやるよ。

 だから、その時まで、精々生き続けるといいさ。

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