嫌な予感ほどよく当たる

 嵐鬼あらしおに。その猛威の前兆を悟らせない静けさと、ひとたび暴れだしたら甚大な被害をもたらす様から付けられた名だ。


 異常発達した四肢。生半な攻撃を弾く筋肉の鎧。一般的な成人よりも頭五つ分は高い恵体。

 生物としての格が違う。どんな筋肉自慢でも、あれと比べたら小枝のようなものだ。素手で木を薙ぎ倒すことが出来ない人間の肉体の、なんと頼りないことか。


 文字通り嵐のような腕の振り払いを後方へと跳んで躱す。ごうという風切り音と発生した風圧に押され反撃が叶わない。既に間合いの外へと退避した嵐鬼は、無機質ながらも殺意に満ちた目でこちらを見据えている。俺は舌打ちした。


 こいつ……学んでやがる。踏み込む間合いがより深くなってきている。横っ飛びと、屈んで躱すという択を潰す動き。残された択は後方への跳躍か、もしくは跳び上がっての反撃だ。


 後者はあり得ない。自殺行為でしかない。一撃で命を獲れなかったら、待っているのは羽虫のように引っ叩かれて地面のシミになる未来だ。無様にも程がある。


 残された択は後退のみだが、それを選ぶと攻撃の機会は一向に訪れない。ジリ貧だ。しかも嵐鬼はこちらの動きを見て学習している。いずれ対策されて逃げ道を塞がれるだろう。八方塞がりだな。攻撃を加える隙など微塵もない。そもそもタイマンを張るような敵じゃねぇよ。


 だが今はむしろそれでいい。下手に攻撃を加えた結果、大した痛手にならないことを察した嵐鬼が捨て身の特攻を繰り出してきたら俺は死ぬ。わりとあっさり死ぬ。


 相手がこちらを必要以上に警戒してくれているからこの均衡は成り立っているのだ。もう少し鬼ごっこに付き合ってもらう。

 徐々に間合いを詰めてくる嵐鬼。それ以上詰められると回避が難しくなりそうなので小刻みに跳んで間合いを離す。


 嵐鬼が消えた。そう錯覚するほどの初速。後方へ退避――いや、そろそろ読まれる。


 直感に従って俺は上空へ身を踊らせた。脚の擦れ擦れを剛腕が通り抜ける。冷や汗が吹き出す。やはり対策してきやがった。懐深くまで踏み込んでの攻撃……後方への跳躍では致死圏内だった。いくらなんでも学ぶのが早すぎるだろ。


 くわと目を見開いた鬼が膝を曲げた。来る。殺しに来る。このままでは嵐鬼に空中で追突されて空の旅だろう。翼を持たない人間は空中だと悲しいほどに無防備だ。


 だからこうする。非力な人間の細腕だから打てる手というものがある。


 手頃な枝を引っ掴み、軽業師のように身体を振り回して方向転換。枝から枝へと飛び移り、追撃のために跳んだ嵐鬼の手の届く範囲から迅速に逃れる。


 ドンと音がするほどの勢いで跳躍した嵐鬼の進路上からは俺は既に消えている。咄嗟に俺と同じことをしようとした嵐鬼が、その太腕で細枝をへし折りながら空へと消えていく。

 よほど俺を殺したかったのか、相当な力を入れて跳んだようだ。鬱蒼と生い茂る木の枝をぶち割る音が響く。自分の身長の何倍の高さを跳んでるんだよ。化け物が。


 ほとほと呆れ果てていると、上空から憎々しげな咆哮が響いた。おーおー、やっこさん相当頭にきちまってるみたいだな。ちっぽけな人間にコケにされたのが我慢ならなかったらしい。悪かったな。もう少し付き合ってもらうぞ。


 バキバキと枝がへし折れる音が響いた方向へと駆ける。嵐鬼は自身の発する音は消せても周囲で発生する音までは消せないらしい。おおよその着地地点を割り出し、近づきすぎないように警戒していたら巨大な手が視界に入ってきて――【耐久透徹バイタルクリア】。


 咄嗟に掲げた左腕が持っていかれる。補助を上書きしていなかったら左腕は根本から引き千切れていただろう。受けた衝撃を利用して跳び距離を取る。馬鹿げた力だ。今さっきそれで失敗して空を飛んだんだからちっとは加減しろっての。


「ってぇな……クソが」


 女神様ってのはまこと気が利かない。何度も死ねる肉体を授けたくせに、痛覚はちゃんとそのまま残してやがる。こんなの一歩間違えたらただの拷問だぞ。

 痛覚カットの補助を掛けたくなるが、それをすると太刀打ち出来なくなるので【敏捷透徹アジルクリア】で上書きする。この補助は俺の生命線だ。動きについていけないと、それだけで勝負の土俵にすら上がれない。


 じわりと嫌な汗が吹き出す。左腕で汗を拭おうとして、全く動かないことに遅れて気付く。こりゃ詰みだな。五体のうち一つでも機能不全に陥ったら、さっきまでのギリギリで躱す動きはもはや不可能になる。


 あとどれだけ時間を稼げるか。……一分か二分が精々だな。ま、よくやったほうだろう。ここから嵐鬼が三人に追いつくのは厳しい。俺は一足早くエンデに戻り、【隠匿インビジブル】を使ってちょうどいい頃合いまで身を潜めてるとするかね。


 ……その前に。俺はこちらを観察するような視線を崩さない嵐鬼を睨みつけた。


「やってくれやがったなデカブツ。温厚な俺だが……ちっとばかり腹立ったぞ」


 インベントリから革袋を取り出して右手で握る。嵐鬼が警戒して視線を向けるが、所詮は魔物畜生。武器のように本能で危険と分かるような物体ではないため、脅威に値しないと踏んで視線をそらした。


 嵐鬼が消える。俺は呼吸を止めて目を閉じ、革袋の中身を散布してから本能の赴くままにがむしゃらに跳んだ。とにかく躱せればいい。そう思っての行動だったが、どうやら運が味方したらしく凶手にかかるのを免れたようだ。


 地を転がりながら嵐鬼の苦しそうな悲鳴を聞く。悲鳴の発生源から場所を割り出し、十分な距離を取ってから目を開く。そこにあったのは、目を抑えて咆哮する哀れな嵐鬼の姿。魔物に効くかは賭けだったが、どうやらクスリも有効打足りうるようだ。


「イカれ錬金術師お手性の粉末だ。禁制品をふんだんに盛り込んだ神経毒のお味はどうだ?」


 まともに吸い込めば死にますからねと念を押された一品だ。俺の自殺用に作らせた品だったが、あまりに苦しいので二度と使うまいと深く心に決めていた毒。


 いや、簡単に死ねるような毒を作れと注文したのは俺なんだけどさ……なんでそんな苦しむような効能をつけたんだよ。勇者であることはバレたくなかったので俺の自殺用とは明かさなかったけどさ、それでもおかしいだろ。


 眠るように死ぬだけなんて面白くないと思いません? じゃねぇよ狂人が。愛と平和どこ行ったよ。


 改めてアーチェのイカれ具合を確かめたところで仕掛ける。暴れる嵐鬼の懐。首筋を見上げる位置まで踏み込んでからダメ元で【耐久曇化バイタルジャム】を掛ける。ダメだった。相手の能力を下げる補助魔法は効きが悪いのが欠点だ。やむなし。


 切り替えて【膂力透徹パワークリア】を発動。ギリギリと両の脚に力を込める。それは俺が喧嘩の際によく使う戦法だ。俺が屈強な肉体を持つ冒険者を転がすにはこれくらいの下準備をしなければならない。


 何十回と繰り返した動きだ。淀みなく準備を終える。今までと一点だけ違うところを挙げるとすれば、今回は本気で殺すつもりでやるということだ。

 ショートソードを大きく引いて構える。狙いは首。人体を模した魔物は、その弱点も律儀に再現してくれている。イメージするのは喉笛を食い千切る獣。素っ首叩き落として開きにしてやるよ。


 溜めた力を解放する。臓腑が持ち上がるような浮遊感。周囲の景色が線になって一瞬で流れていくなか、嵐鬼の首筋だけは確りと像を結んでいる。難しいことは考えなくていい。あれを落とせばいい。理性を希釈し、本能を沸騰させる。


 殺す。死ね。死ね!


「死ねッ!!」


 すれ違いざまに右腕を振るう。その後の反動の一切を考慮しないでたらめな一撃。タイミングは我ながら完璧だった。惜しむらくは、得物が一山いくらの安物であったことか。


 ギン、と、およそ皮膚を斬りつけたとは思えない音。認識できたのはそこまでだ。あとはもう自由が利かなくなった肉体が嵐に巻き込まれたかのように暴れ回ったということくらいしか分からない。


 もとより身を捨てた一撃。まだこうして息があるのが幸運なくらいだ。とっくに死に慣れ親しんでるってのに、危機を感じて無意識に【耐久透徹バイタルクリア】を発動したのは本能の為せる業なのかね。


 身体がバラバラになりそうな衝撃を最後に浮遊感が消えた。咳と一緒に血を吐きながら目を開ける。俺は太い木の幹に背を預けていた。片目の視界が赤い。頭部のどこかを切ったか。


 遠くに半ばから先を失ったショートソードが転がっている。どうやら衝撃に耐えられなかったらしい。安物ってのはこれだからあてにならない。いや、俺の腕が悪かったせいか。どっちもか。


 右腕は肩より上に挙がらない。ジクジクとした鈍い痛みが体を蝕むように広がっていく。

痛覚曇化ペインジャム】。痛みを痛みと認識できなくなる魔法。感覚がおかしくなるので多用したくない魔法の一つ。これを使う時は、もう助からないって状況の時だけだ。あとはイカれエルフに腹を捌かれる時くらいか。


 ザッと地を蹴る音が聞こえた。顔を上げる。見れば、首元を左手で抑え、片目をつむって牙を剥き出しにした嵐鬼がそこにいた。


 おいおい、発する音を消せるんじゃないのか? それはなんのアピールだよ。死ぬ寸前の相手を甚振って怖がらせる嗜虐趣味でもあんのかね。


 だが残念だったな。俺はニッと歯茎を見せて笑った。

 お前が相手をしてるのは、命惜しさに震え上がったり泣きじゃくるような一般人じゃねぇ。命の価値が誰よりも軽い勇者なんだよ。

 鬼ごっこに付き合ってくれた礼だ。銅貨一枚の価値があるかも分からんが、そんなに俺の命が欲しいならくれてやるよ。


 望んだ反応が得られなくて悔しかったのか、嵐鬼がますます牙を剥いた。鬼の形相ってのはよく言ったもんだ。こんなのを見たらクソ生意気なスラムのガキでも縮み上がるだろうな。


 嵐鬼が吼える。それは勝利の誇示か、苛立ちの発散か。

 あいにくと魔物畜生の考えは読めない。だが、首に刻まれた傷をしきりに気にしている様子なので後者が正解なんじゃないかと思える。


 一筋の傷。力を全うして成し遂げた結果が、たったそれだけ。嫌になるね、まったく。


『凄かったんですよ! 剣を振るったたけで魔物が細切れになったんです!』


 情けねぇな。同じ勇者でも出来が違う。

 あらゆる攻撃魔法と回復魔法を極めた長姉と、あらゆる武芸を極めた次姉。そのあとの余った要素で作ったみたいなのが、あらゆる補助魔法を使えるだけの俺。搾りカスかよ。笑えねぇ。


 だけどまぁ、十分だろ。普通の鉄級なら一分も持たなかっただろう相手にこれだけやれたんだ。俺の残りの仕事は、どうやって逃げ切ったのかという言い訳を考えることくらいか。


 嵐鬼が迫る。のし、のし、と焦らすような足音が変化する。俺が虫の息で警戒に値しないことを悟ったのだろう、大胆に距離を詰めるズシズシとした足取りはやがてドシドシと踏み鳴らすような音へ変わる。

 ドンという音。それがまるでギロチンを落とす仕掛けを作動させた音のように聞こえた。


 目を閉じる。あと数秒もすればエンデの教会から生えることになるだろう。そしたらバレないように【偽面フェイクライフ】で適当な顔を作って成り行きを見守ろう。


 ギルドに情報が伝われば即座に討伐隊が結成されるだろう。そうなればいくら嵐鬼といえどもおしまいよ。一日と立たずに事態は収束へと向かうだろう。


 頃合いを見計らってしれっと戻ってくれば万事解決。黒ローブとルーキー二人には美味いメシを奢ってもらおう。やっぱ串焼きじゃ足りねぇな。それなりの店に連れて行ってもらうとするかね。


 絶体絶命の窮地から逃げ帰ってきたとなればルーブスの野郎に目を付けられそうだが……適当に誤魔化せばいいだろう。後は野となれ山となれだ。


 完璧な流れなんじゃないか。ありとあらゆる選択肢の中から限りなく正解に近いものを引き、理想的な結末に辿り着いたと言っても過言じゃない。

 被害を最小限に抑え、俺はタダ飯にありつける。しいて欠点を挙げるとすれば、この活躍が査定に響いて銅級に近付いてしまうかもしれないことだ。しばらくは最低ノルマをこなすだけの活動に抑えて評価を下げることに徹しよう。


 ああ。嫌な予感がする。このままで終わるわけ無いだろ? と、ひねくれ者の勘がささやいている。いつだってそうだ。上手く行ったと思ったら必ず最後にケチがつく。


 馬鹿が。俺のことは見捨てろって言っただろうが。計画が丸潰れじゃねぇかクソがッ!


「ッああああぁぁぁぁぁァァッッ!!」


 俺のことを挽き肉にせんと振るわれた腕は、割って入ったルークの剣に斬り飛ばされて宙を舞った。

 英雄が持つに相応しい剣が薄暗い空間を裂いて光る。阻むものを一振りで斬り捨て、覇道すらも切り拓く剣。


 そんな宝剣を握るルークは、お世辞にもその器には見えなかった。大口を開いた荒い呼吸。ガクガクと震える脚。ブレた瞳は前が見えているのかも怪しい。夥しい量の汗で髪は濡れそぼり、纏った熱で蒸気が発生していた。


 明らかに体力の限界だ。さっきの一撃で力の全てを使い果たしたに違いない。

 断言していい。このままでは、ルークは、ここで死ぬ。

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