第8話


 絵本の彩を見ていると私は感慨に浸りそうになる。いや、浸りそう、なんていう言葉は正しくない。浸ってしまう、といったほうが正しいはずだ。


 私の中に残っている彩の記憶。最初の記憶というわけではないけれど、それでも心の中に残り続けているのは、きれいな青空と、色合いにあふれている華やかな遊園地、花畑での記憶。私は両親と呼ばれる大人に手を引かれていて、彼らに導かれるままにその光景を楽しんでいた。両親の顔を見つめようと見上げれば、そこには青い空が存在した。青い空だけに限らず、遠くにある花畑、観覧車の彩、ジェットコースターなど、様々なものがあった。


 私の中に残っているのはそんな記憶、それだけの記憶。遊園地の何かしらで遊んでいるという記憶は残っていない。遊んでいないというわけではない。ただ、この失楽市街で過ごして見てきた灰色の空のせいで、外の世界の彩を強烈に印象に残しているだけだ。


 メリーゴーランドと呼ばれる木馬の回転装置、装飾には彩があった。幼心でもそれだけの装置であることは理解していたはずなのに、それでも乗ってしまう魅力があれにはあった。私はジェットコースターに乗ることはできなかった。身長が確か足りなかったからだ。私が泣きそうな気持ちに浸っていると、父が私の手を引いてコーヒーカップの乗り物に乗せてくれた。乗り方は最初わからなかったけれど、中心にあるテーブルを回せば回すほどにそれは回転した。最初こそは勢いがついてしまうことに恐怖を覚えたけれど、慣れてからは何度も父にせがんでコーヒーカップの中を回った。そのあとは鏡だけしか存在しないような家の中に入った。歩けば歩くほどに鏡となった壁にぶつかって、何度か鼻に対して痛みを覚えた。母はそんな私の姿を見て笑いながら歩いていた。彼女も鏡にぶつかっていた。


 どれもが楽しい記憶。そんな楽しい時間を食い尽くすたびに、青空は夕焼けに染まって、そうして月が夜を支配する。夜になれば観覧車は魔法のような光に彩られて、最後に私たちはそれに乗って、高いところから世界を見渡した。


 最初で最後の、楽しい記憶。こんな日が続けばよかった。私は現状を振り返ってそう思ってしまう。


 ──私には泥黎の素質があった。いや、素質なんていう優しいものではない。無意識に感情を喰らいつくしてしまうそれは、本能のような病気でしかない。無自覚に、無意識に、一緒に過ごしていく人間の感情を喰らっていく。楽しさも、悲しさも、怒りも、喜びも、思い出も、すべてを私は無意識に喰らいつくしてしまう。そして無自覚故に感情というものを咀嚼しても理解することはできない。きっと、相応に多幸感のあるものだったのかもしれない。それこそ遊園地に行ってから、しばらくその思い出に浸るような、それくらいの感覚。


 だからこそ、私は両親の感情を喰らっていたことに気が付くことができなかった。


 子供だから、という言い訳は成り立たないと思う。大人であっても気づけたかどうかは微妙な話だ。だから、子供とか大人とか何一つ関係はない。単純に泥黎でしかなかった私は、そんな彼らの感情を食い尽くしてしまったのだ。


 違和感はどこからだったのだろう。遊園地に出かけた日からしばらく経った頃合いだったように思う。毎日楽しさを飾り立てていた生活にひびが入るように、両親は喧嘩が多くなっていった。どのような内容で喧嘩をしていたのかはわからない。だが、母に関しては顕著ともいえた。ずっと一緒にいたからだろう、私は母と時間を過ごすたびに彼女の感情を喰らっていた。喰らっていたから、母の態度は不安定なものになっていた。父については最初こそは母をなだめるようにしていたけれど、夜は家族で寝ていたからこそ感情を喰らうことになってしまった。そうして雰囲気は最悪になって、喧嘩をして、いたたまれない空気に家は包まれた。


 それで終われば、きっとまだマシだったのかもしれない。





「帰りましょうか」


 私は頭の中によぎる事柄を整理したくなくて、目をそらすようにクロに話しかけた。


 結局クロは一時間ほど図書館に入り浸ったけれど、絵本のコーナーから離れることはせず、そうして何かを借りて読むようなこともせず、呆然と表紙を見つめるだけで過ごしていた。その感覚が少しわかってしまう自分がいた。だから邪魔したくない気持ちはあったけれど、これ以上いやな記憶は思い出したくはなかった。


 感情が希薄であることについて悩んではいるけれど、こういったネガティブな感情を重厚にしたいわけではない。私が理解したいのは、失楽市街には存在しない楽しさや喜びという感情であり、泥黎では絶対に摂取することができない感情。だから、ここに入り浸っていやな記憶を思い出すのはやめにしたかった。


 彼はぼんやりと絵本の表紙を眺めながら、わかりました、と答えて、視線を機械的に外のほうへと向けた。


 図書館の中にある時計は見ていないけれど、まだ空は灰色のままだ。朝か昼かの判断はつかないけれど、結局日中であるということは変わらないだろう。


 私は入り口の付近まで歩いて行って、彼と私の分の傘を用意する。傘に付着していた雨粒は地面に跳ね除けられていて、相応の時間を過ごしたことを認識する。だからどうだ、という話でもない。ただ、これが本当に思い出作りにつながるかどうかについて不安を抱いてしまう。


「あの」


 そんな不安を抱いていると、彼から小さく声が飛んでくる。


 入口の付近、特に誰かが入場してくる気配もなく、私たち以外の退出者はいない。司書もそんな私たちに興味を示すようなことはなく、静かに、ただ静かに空気が緩和しているような感覚。


 なんでしょう、と私が彼の言葉に返すと、彼は躊躇うように呼吸を繰り返した後に言葉を吐く。


「僕、イアさんのお家にいってみたいです」


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