第9話


 彼の言葉はあまりにも唐突だった。そう感じ取ることしかできない。それに驚く自分がいてもしようがないという気持ちさえ生まれてくる。なにせ想定していないことを彼がいきなり提案してきたのだから。


 彼がなぜそんなことを提案してきたのかは想像がつかなかった。どういう意図が含まれているのかを彼に聞こうと思ったが、結局そうすることはしなかった。別に彼の提案は悪いものではなかっただろうけれど、唖然としてしまう自分がいて、どうにも言葉を返すことができなかった、というのが本音である。


 質問をしたい、そんな気持ちはある。問うてしまいたい気持ちがある。だが、それをできないのは唖然としていることだけが理由ではない。


 感情が虚無でしかない彼が初めて提案してきたのだ。今までの暮らしの中で、私の言葉を飲み込むか、返すかしかなかった彼が、初めて自分から言葉を生み出して、そうして私に向き合っているのだ。そんな彼の提案の所以を聞いたら、虚無である彼は苦しくならないだろうか。そんな心配の気持ちが私の中に存在した。


 だから、言葉を出すのに時間がかかってしまう。単に肯定、もしくは受容することを選択すればいいだけなのに、それでも彼の気持ちの所以を知りたくてしようがない。


 そんな私の中にある裏腹を無視して、泥黎として儀礼的な言葉を頭の中で探す。


「……いいですよ」


 含んだ沈黙は肺を真空にする。呼吸が一瞬おぼつかなくなって、頭の位置が上下でわからなくなるような感覚がした。


 でも、そう答えるしかない。


 私の家に行ってみたい、彼の提案を受け入れることしか私にはできない。いろいろな心配事が途端に私の中に生まれてくる。私の家、といっても大層なものがおいてあるわけではない。片付けをする必要が存在しないほどに何もないだけの部屋、唯一あるものは寝るためだけの寝具のみであり、人として生活できるだけの最低限の空間。そんな空間に彼が来たところで、彼は何か得をするのだろうか。退屈してしまわないだろうか。感情を取り戻す、ということを目的にしている彼に私は何かできるだろうか。でも、依頼人の彼がお願いをしているのだ。それなら無下にすることはしたくない。


 私たちは傘を互いに差して、そうして図書館から出ていく。温もりにほだされた空間から出たときの最初の外の気温はどうにも寂しさを覚えてしまうほどに冷たい。


 ……寂しさ? そんな気持ちを抱いたことに笑ってしまいそうになる。


 寂しさなんてとっくに忘れてしまったはずだろうに。





 私がこの失楽市街に来たのは齢が十の時ほどだった。正確な年齢については覚えていない。思い出すこともしない。さりとて重要なものではないからだ。


 そのころには家族というものを私はすべて失っていた。そして、失った原因はすべて私のせいでしかなかった。廃人同然となってしまった彼らは意志を持つことができず、社会という中で生きることが困難になってしまった。今、隣で傘を差して歩く虚無の彼と同じように、私の家族は気持ちを抱くことはなかった。


 私の両親は結局精神病棟に入院することになった。私を保護する人間は誰もおらず、家族を廃人にしたという結果だけが国に知られてしまった。そこで私は泥黎という人の感情を喰らう化け物である、ということを知ることになってしまった。


 昔であれば迫害を受けていたはずの泥黎ではあるが、現代社会において感情に破綻を迎えるものは少なくない。そんな社会問題から、泥黎を特別に教育する機関、もしくは泥黎を利用するものとしてこの失楽市街は始まった。なぜ、泥黎という名前なのかを調べれば、人の感情を喰らう人間は奈落という地獄に他ならない、ということらしかった。


 私はそんな存在なのだ。そんな存在が人間らしい生活を送る資格はない。私はあらゆる人間の感情を喰らうだけの化け物。そんな人間が生きることを許されているだけでも、喜びを享受しなければいけないというものだ。


 それでも、感情にそれらしいものが浮かぶことはない。感情はいつまでも彩にあふれることはない。昔見た青空ばかりにとらわれていて、この失楽市街の灰色の空だけが心を占有してくる。対比のように存在するモノクロとグラデーションはどうしようもなく対極にあるもので、それに対してはっきりと愁いを抱くことしかできない。


 すべてが背徳的だ。この街も、私も、そしてそんな私に感情を取り戻せるように依頼をしてくるクロの存在も。


 そうして見つめる彼の姿は、やはり虚無しか存在しない。何か表情に出るということもなく、風景を俯瞰で見つめるような、そんな視線しかとらえることはできない。


 そうだ、この世界はどこまでも風景でしかない。


 登場人物なんて存在しない、彩なんて存在しない。すべてがそこにあるだけで、祖霊以上も以下もない。感情なんて覗くはずもない。


 どこまでも希薄だ、どこまでもモノクロだ。そんな世界に生きることに喜びなんて覚えるはずがない。


 そんな希薄ではあるものの、世界に対してはっきりとした敵対心を覚えて、私はまっすぐと道を見つめる。


 いまだにこの失楽市街の雨が止むことはない。私の心と同じように。



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