第7話


 思い出作り、というものを彼に提案したけれど、その言葉の意味合いを自分自身が理解することはできていない。いや、理解というよりかは納得の方向に近いかもしれない。納得することが自分自身でできていないのだ。


 思い出が感情を作るというのならば、今までに残っている私の記憶から感情は生まれないのだろうか。今の私の希薄でしかない感情についてを思えば、思い出というものを作ったところで感情に所以するかどうかについて疑問を覚えてしまう。


 でも、唯一の突破口だとも自分自身で思う。ここまで過ごしてきた時間の中で、感情を取り戻す糸口は見つかりそうもない。日記を書くにしても、事実につながるものがなければ感情を連ねることはできないような気がする。日記を書くためには事実が必要で、そして事実につながる思い出が必要になるだろう。私はそれを彼に語った。さも経験したことのように私は語ったけれど、すべて私が泥黎の仕事の中で、今となっては他人となってしまった依頼人から聞き及んだことだ。それが正確かどうかなんて知る由もない。


 でも、もう道はここにしかないような気がする。


 その日の私たちは、結局日記を書くことについてはあきらめて、そうして食事をとって睡眠をとることにした。





「デートに行きましょう」


 私は思いついたように彼に言葉を吐いた。彼は一瞬唖然としたような沈黙を返したけれど、昨日の会話を思い出したのか、しぶしぶという具合にうなずく。


 思い出、というからには、いろいろなことに挑戦していかなければいけないだろう。どのようなことに挑戦すればいいのかはわからない。でも、記憶に残るようなことをたくさんしていけばいいような気がする。


 私とのデートが記憶に残るかは定かではない。事実として、泥黎としてかかわった様々な依頼人は私のことを忘れているし、記憶に残ることはまずないとは思う。そして、彼との生活の上で、自然的に彼の感情を奪うことを考えれば、記憶に残すということは到底不可能なのではないか、そんな考えも生まれる。


 だから、すべては意味のない行為だろう。それでも行動しなければ前を進むことはできない。停滞を選ぶことはしない。そうすることでしか私たちは前を向くことはできないのだから。


 そんな私の提案で、私と彼は出かけることになった。出かける場所はどこにしようか迷ってしまったけれど、出かけるというからには何かしら面白みがある場所でなければいけない。こんな灰色にしか包まれていない失楽市街に、そういった場所があるかと問われれば思いつくものはないけれど、それでも無理やりにでも絞り出せば一滴ほど思いつくことはある。


 そうして向かったのは図書館だった。


 雨はいつも通りに降りやむことはなく、永遠と地面に雫を垂らし続けている。朝なのか昼なのか判別がつかないほどに、外の世界は灰色の曇天しか飾っていない。やはり、そこには太陽が存在しないようにしか感じられない。それでも空が真っ黒でない限りは、一応私たちのことを照らしているのだろう。


「イアさんは……」と彼は歩いている道中で口を開いた。私はそれに返すように首をかしげると、彼は言葉を続ける。


「本を読むんですか。あまり家には本がなかったような気がするんですけれど」


「……正直、あまり読むことはないです。そもそも今のあの家は仮の宿なので、私の家ではないんです。ただ、図書館については泥黎の仕事でお客様の付き合いで行くことはあります」


 なるほど、と彼は言葉を返す。それ以上に会話は発生しなかった。


 歩き続けて十数分くらいして図書館にたどりつく。図書館の中には人がまばらにいる。いつか話したことがある泥黎の姿もちらほらと見かけるが、そのどれもが依頼人である人間に専属として同行しているようだ。当たり前だ、と思ってしまう。


「何か読みたい本とかありますか?」


 泥黎の仕事と同じように彼に質問をする。質問をしてから、そもそも彼に読みたい本があるのか、虚無である彼に興味を抱かせるというのは難しい話なのではないか、と思ってしまった。


 だが、そんな私の意に反して彼は少し目を輝かせて、絵本のある棚のほうに静かに移動をする。幼い子を対象にするようなものばかりだと思うけれど、それでも絵本に描画されている彩については、この灰色の街では目にかかれないものばかりだと思う。だから、私も視線を奪われてしまう感覚がした。


 何かを勧めることができればよかったかもしれない。泥黎として、依頼人に案内をすることは当然のことだ。でも、その当然といえる常識は私には働かない。結局彼と同じように目の前の絵本の表紙に夢中になっている。


 中身を見ればいいのに、それを見ることさえしようとしない。ひたすら表紙だけを見つめる作業の繰り返し。静かに、静かに。


 私も彼に付き合うように、彼の真似を繰り返していった。

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