第6話
◇
それから私たちの共同生活は始まった。共同生活、とはいっても言葉以上のものはない。どこかの恋人のような華やかさも何もない。この失楽市街に存在する曇天の空のように、どこまでも変わらない灰色の風景。それ以上も以下もなく、進展などがあるわけがない。
毎日を過ごしていても、どれが感情を取り戻すことなのかはわからない。ただ毎日を過ごしているだけで、それ以上の変化は望めそうにもない。これでは泥黎の仕事と同じようなものでしかなく、彼の願いたる感情の到達はかなえられそうもない。
だから、私は彼に一つ提案をすることにした。
「日記、ですか」
そうです、と私は彼に頷いた。
数日分の食糧しか買っていなかった私たちは一緒に出掛けて、そうして雑貨屋の中に入った。雑貨屋の中に何か目的があったわけではないけれど、感情を取り戻す、という目的に対してきっかけになるようなものがあればいい、そんな願望を抱いて私たちは店の中に入って、そうして筆記するための用具が備えられている場所に立ち尽くした。
「人は思ったことや経験したことを、実際に紙に書いて残すことがあるらしいです。私はそれをやったことはないですが、以前泥黎の仕事をしているときにお客様からそういったことをした、という記憶があります。それらを以前燃やしたこともあります。ですから、きっと日記という風習は感情を覚えるのに必要なことかもしれません」
「なるほど」と彼は無感情に答えた。私も誰かに同じ台詞を吐かれたのならば、彼と似た反応になると思う。実際、これが感情を取り戻すことにつながるとは到底思えない。
でも、逆のことをしなければいけない。そう考えれば、日記というものにも可能性を見出したくなるというものだ。
泥黎として、人間のあらゆる感情を喰らってきた。日記を燃やしたのも泥黎の仕事の内だった。別に燃やす必要はないのだけれど、依頼人が頼むから仕方なく燃やすしかなかった。その感情の一部が書き連ねられていたらしいそれを、私はすべて葬っていった。
私が燃やした日記にはなんて書いてあるのかは知らない。大抵の人間が見せたくない代物だということは理解していて、それでいて自分で処理をすることが難しいものだという認識が私の中にある。失楽市街にまで持ち込んで、その上で他人である泥黎の私に処分することを頼んでいるのだ。見てほしい、という人間はこれまでいなかった。それほどまでに辛かった、ということが書き連ねているらしいことしか私にはわからなかった。
だからこそ、日記には感情が生まれるのかもしれない。日記を書くことによって感情は生まれるのかもしれない。文章が、文字が、筆跡が、感情を取り戻す所以になるかもしれない。
だから、私たちは互いに白紙の本を買って家に持って帰る。私も感情というものを知りたい、そういった気持ちがあったから彼に提案したことを真似するように。
それが正解なのかはわからないけれど、とりあえずそこから始めることにした。
◇
書くことが思いつかなかった。そうして私は日記を書くことにしたわけだけれど、日記というものを書いたことはなかったし、そもそも文章というものになかなかの理解や把握が済んでおらず、どれだけ適当なことを書こうとしても、一文字も紡ぐことはできそうになかった。
図書館の中にある本のように、それらを書くこともできたのかもしれない。でも、それほどに事実というものは目の前にありふれていないし、どこまでも風景でしかないことを認識することしかできない。それを考えると、頭がぐるぐるとする焦燥感を抱いてしまう。持っていた鉛筆を机に転がしたくなってしまった。それでも、向かい合わせで座っている彼は無言で、ひたすらに日記にしようとしているものに対して向き合っている。だから、彼のやっていることを否定するように、鉛筆を投げ出すようなことはしたくなかった。
でも、彼の筆だって進んでいない。ただ、白紙のページだけを見つめていて、それ以上の動きは何もない。ただただ呼吸の音が反芻する。少し寒さに絆されたせいか、たまに喉を鳴らすように彼は振舞うくらいで、そこから私たちは何もすることができないでいる。
「難しいですね」と私は彼に話を振るようにした。実際、何を書けばいいのか本当にわからない。図書館の本のように、空想の世界のことでも書けばいいのか、そういうわけではないだろう。感情を喰らってきた生活の中で、依頼人はどうやって日記というものに向き合っていたのだろう。感情を持っていた彼らはどういったように向き合うことができていたのだろう。文字を紡ぐことができていたのだろうか。
私の言葉に彼は頷いた。それ以上の反応はなかった。
私は考える、ずっと考える。
私は依頼人に対して、依頼人の目的を達成するようにしなければいけない。いくら泥黎であるからといって、感情を取り戻すという荒唐無稽な願いから目を背けることはできない。別に彼のため、というだけでもない。私は私という人間を、人間の感情を理解することができないのだから、私は私のためにそれをするだけ。彼が依頼人だから、とかそんなことは関係がないのだ。
日記を書くためには感情が必要だ。それならば、そもそも感情が希薄である私や、感情が虚無である彼が取り組むことは難しいのだろうか。わからない。泥黎とは逆のことをしようとしすぎて、道筋を見失ってしまってはいないだろうか。
考えれば考えるほどに頭がぐるぐると回る感覚。思考は虚をさまよい続けている。
過去を思い出す、依頼人の顔を思い出す。私のことを忘れてしまった彼らのことを思い出す。それを繰り返して、答えのようなものを見つけようとする。
日記、感情、書くことがないのならば、何を書けばいいのだろう。彼らはどうしてそんな感情を書き連ねていたのだろうか。悲しみや怒り、それをどうやって書いていたのだろうか。
感情を抱くとき、それはどんな場面だろうか。どんな場面で感情を抱き、それを文章にするのだろうか。
「あっ」
私は思いついたように声を上げた。
正解なのかはわからないけれど、頭の中に過った一つの事柄。
「そうだ、思い出ですよ、思い出」
「……思い出?」
はい、と私は彼の言葉に頷く。
「記憶は取り戻せなくとも、記憶を作ることは、思い出を作ることはできるでしょう? それなら、私と一緒にたくさんの思い出を作ればいいのかと、そう思ったんです」
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