第5話
◇
「まずは分担を決めましょう」
あらかたの荷物を床に置き去りにした後、会ったテーブルを彼と挟んで、私はそう切り出した。
「……分担、ですか?」
「はい」
私は彼の言葉に頷いてみる。
これから、どれくらいの期間を彼と一緒に過ごすことになるかはわからない。本来であれば依頼者であり、客である彼は特に何か家事などの働きをする必要はないけれど、私たちがこれからやろうとしていることは前人未到のものであり、未到だからこそ何から行えばいいのかはわからない。
感情を取り戻す、感情を覚える、そのためには何が必要になるか。私にその類の経験があればよかったけれど、感情を喰らうしか能がない私にはそれは難しい話だ。
だから、ここはあえていつもとは違うことをやってみる。感情を喰らうことを意識しない生活のために、あえて逆のことをやってみる。
感情を喰らう際には、私が家事に関することはだいたい行っていた。失楽市街に飼われている泥黎であれば当たり前のことではあるけれど、今回はそれを逆に彼にやってもらう。そういう魂胆を思いついた。
だが、それをする、と完全に切り替えることは私の中ではできそうもない。どうしても相手に対する配慮ばかりが脳裏をよぎってしまうし、今でさえも勝手に私は彼の飲み物を用意しようとしていた。
どこか、後ろめたい気持ちがあるのだ。これを罪悪感というのかはわからないけれど、それでも彼にすべて家事を任せるということは本能からできそうにもない。
「私たちは感情を取り戻すことを目標に、これからの生活を送っていきます。ですが、そのためにはどうすればいいのか、私には正直わかりません。だから、いろいろなことに挑戦していく、ということを思いついたのです」
「……それが家事分担ですか?」
はい、と私は彼の言葉に頷いた。
正直、それ以外にもいろいろと思いついていることはある。
泥黎としての仕事を行う際には、この家から離れることはあまりない。強いて言うならば、食糧を調達しに出かけるか、依頼者が気晴らしに散歩に行くくらいでしかない。基本は家の中で過ごすことを余儀なくされる失楽市街で、あえていろいろな場所に出かける、というのも悪くはないだろう。
失楽市街には何もないけれど、それでも何もないなりの冒険というのも何かしらの感情を抱くかもしれない。灰色の空を見て、どこか不思議な感受性を覚えるかもしれない。私にとっては馴染みでしかない、呪いのような風景でも、彼の中に何か感情が灯る可能性は否定しきれない。
だからこそ、少しでも変化を覚えなければ、きっと感情を灯すことは難しいと考えてしまう。毎日、同じような生活を送っていても、それで得をするのは感情を喰らってほしい人間だけだ。そして得をしても、感情を喰われたあとには忘れてしまうのだから、実質的に得をする人間などいない。
だから、私と彼との生活では変化を抱いていかなければいけない。それがどのような些細なものだったとしても、私たちは大切にしなければいけないのだ。
「それじゃあ、とりあえず──」
私は言葉を吐いた。テーブルの上には彼の飲み物と、私の紅茶。そしてなんとなく彼と買ってきた白くて大きな画用紙と、白に彩を持たせる様々な色のペン。
「──ジャンケン、しましょうか」
◇
「なんというか……」
「……」
私がぼんやりと言葉をあげると、彼は気まずそうな雰囲気を漂わせる。言葉はないからわからないけれど、私が勝手にそういった雰囲気を解釈することができてしまうほどに、どこか重い空気が目の前にあるような気がする。
『掃除』『洗濯』『ゴミ出し』『調理』と書いた紙には、それぞれ私の名前のイアと彼の名前であるクロが半分ずつ書かれている。
こういうときには、一方が少し損をするくらいがちょうどいいような気がするのに、ジャンケンという公平性に委ねたら、委ねきったままに公平な結果で終わることになってしまった。
だから、なんとも言葉を尽くしがたい。正直、微妙、という二文字が脳裏の中に過るような気がする。
「まあ、こういうこともありますよね」
「はあ……」
彼は興味がなさそうに言葉を吐いた。実際に興味がないのだろうと思う。声音に色や感情を感じないから、そういった風にしかとらえることはできない。
ちなみに、私の担当するものはゴミ出しと調理、それ以外のものがクロの担当だ。
「というわけで、早速調理していこうと思うのですけれど、苦手なものとかってあります?」
「……覚えていないので、わかりません」
あっ、と声を出してしまう。泥黎のいつもの仕事としてテンプレートをなぞってしまったことについて、頭の中で失態という言葉が反芻してしまう。
これから先にやるべきことは何か、自分で分かっていたはずだ。泥黎の仕事を思い出すのも悪くはないだろうけれど、今の私に、そして彼に必要なものは変化だということを、何度も自分自身で考えていたはずなのに。
少しばかりの後悔、そして、彼の地雷を踏んでしまったのではないか、という不安。
彼の顔を覗けば、そこには変わらない真顔が存在している。昼間の彼の言葉を信じるのならば、彼の中には虚無しか存在しないのだから、地雷というものも存在するかどうかは怪しいような気もする。だが、それはそれとして彼に対して失礼な言葉を投げてしまったと思う。
「すいませんでした」
「……別に」
気まずい空気。変化を求めるからこそ、いつもとは違う行動をとろうとするからこそ、異常なことに対応することができないでいる。
こんな調子でいいのだろうか。わからない。それでも私は行動をするしかないのだけれど。
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