第4話
◇
感情を喰らい続けてきた泥黎である私にとって、彼の依頼内容は到底私には叶えられないものであるはずだった。荒唐無稽ともいえるかもしれない。それは私自身でよくわかっているはずなのだけれど、それでも彼の依頼を受容してしまったのは、仄かに私にも彼と同じような虚無感が心の中を占有していたからかもしれない。もしくは人間の感情を取り戻したいという彼の気持ちと、人間の感情を理解したいという私の気持ちがあったからだと思う。
私の感情はどこまでも希薄だ。どこまでも彩に満ちることはない。この雨が降り続く街の灰色の空のように、私の目に映るものはすべてがすべて風景のままで終わりを告げていく。
季節が過ぎることはなく、そうして奇跡が目の前に現れるわけもない。
泥黎として変わらない現実。そんな世界に感慨を抱くことも、感受性を覚えることもない。それが彼の虚無と同じように重なっているような気がする。
だからこそ、私は彼の依頼を受け入れたのだ。
喫茶店を後にして、私たちは移動をする。移動する場所は、依頼人と泥黎である私たちがしばらく暮らしをする仮の宿のような場所。だが、寝具などに関連する設備は十分ではあるものの、それ以外の生活面に関連する設計に関して、その宿はずさんだ。だから、移動がてら様々な買い出しを行うことにした。
そんな移動の間でも考えてしまうのは、感情を取り戻すという依頼について。
荒唐無稽だ、どうしようもない。失楽市街でそんなものを求めている人間なんて誰もいない。だからこそ、どうすればいいのだろうか、ということを考えずにはいられない。
感情を取り戻す、というのは容易なことではない。
感情とは記憶から所以しているものだ、経験から所以するといってもいい。だが、喰われつくした彼の中には記憶も経験と言えるものも残っていない。彼自身が語っていたし、彼の振る舞いは確かにそう感じさせるほどに、どこまでも無というものしか感じない。
どこまでも、彼には人間性というものを感じないのだ。コーヒーを飲む所作でさえ、会話をするときでさえ、どこか機械のように『そうしなければいけないからそうする』と仕組みを刻まれたように彼は振舞っている。
そんな彼に感情を取り戻すことはできるのだろうか。
失くした記憶はもう戻らない。物理的に存在するものであれば、捨てたものを拾いに行くくらいの感覚で済むのだろうけれど、記憶に関してはそんなことができるはずもない。そこまで話は容易ではないのだ。
でも、彼の依頼の本質がそうではない、ということを私は知っている。
別に、彼は記憶を取り戻したいと言っているわけではない。感情を取り戻したい、とそう言葉を吐いているのだ。それはもともと彼の中にあった記憶から感情を思い出したいということではなく、普遍的に虚無以外にも感情というものが存在するということを知りたい、という願望に近いものであるような気がする。
まるで、子供が知識を縋ってくるような、そんな感覚に似ていると思った。なんでそう感じたのかはわからない。彼の言葉には感情を感じなかったのに、どこかそういったねだるような姿を私は重ねてしまった。
それならば、私はそんな彼に対して応えたいと思う。感情を取り戻すということに答えは見つからないけれど、彼と一緒に探していくことで、彼にも、私にも感情を灯すことができたのなら、それがいい。
◇
もともと暗かった失楽市街の空は、隠されていた太陽を更に彼方の方へと隠した。太陽の存在だけを秘匿するのかと思いきや、月という存在さえも覆い隠して、夜というものでさえもピントを合わせないように、この失楽市街は静かに暗闇に染まっていく。
雨音が地面に弾ける中、私と彼は重たい荷物をもっての移動で、ようやく仮宿につくことができた。実際は列車から降りて数分の距離に宿はあった。だが、道中で何が必要なるかを二人で考えていると、どこまでも結論にたどり着くことはできず時間を浪費してしまう。結局、相談した結果は思いついたものを片っ端から買うというものに落ち着いてしまった。
仮宿、といっても、それぞれ一軒の家と同じようなコンクリート造りのものが大量に横並びに配置されている。以前までは集合住宅という最低限の、本当に仮宿という場所であったが、今では適切な寝る場所として、泥黎のそれぞれに一軒の家があてがわれている。まあ、これは泥黎が依頼者に対して処置を行う際に、少しでも依頼者に対してストレスをかけないためなので、泥黎のためではないのだが。
泥黎が仕事として感情を喰らう際には、人によって期間が異なる。だからこそ、長期的に過ごすかもしれない依頼者のことを考えてのそれぞれの家だ。
感情を喰らうことは泥黎にとっては自然的な現象であるため、いつそのタイミングが起こるかわからない。もしかしたらこの場所で半年以上の時間を過ごすこともあるかもしれないし、三日で済む場合もある。
だが、今回の彼の場合はどうなのだろう。
……それを考えることはもうやめにしよう。いつまでたっても結論にはたどり着けるような気がしないから、私は目の前の仮宿を見つめる。
手に持っていた荷物を彼に渡す。依頼者ということは客であるはずの彼に負担をかけるのは間違っているとは思うけれど、両手が塞がっている状態では鍵を開けることはできない。政府の人間がこの姿を見れば注意という名の指導が入ることは容易に想像することはできるけれど、持っていたものを地面に置いて雨に濡らすことはあまり考えたくない。
私はポケットから鍵を取り出して、そうして無機質な扉を開ける。
……この街に彩なんてないのだから、あらゆるものが無機質なはずだ。それなのにそんなことを考えてしまう自分が少し馬鹿らしい。
鍵を開けてからは、彼に渡していた荷物を取り返すようにして、一緒に家の方に入っていく。木造りの家であったのならば、そこに温もりも存在したのだろうけれど、雨が降り続けるこの街でそんなものが存在していれば腐って潰れてしまうから仕方ない。温もりのない家に、私は彼と一緒にあがり込んだ。
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