第3話


 失楽市街と呼ばれるこの街の由来は、喜びや悲しみを抱えることができなくなった人間が集まることからだ。そうした人間が集められるのは、怒りや悲しみ、様々なネガティブな感情によって破綻を迎えてしまい、日常生活を送ることができないとされた人間を修復する、という政府の目的によってつくられた都市であるためだ。


 大抵の国であれば、感情が破綻した者に対しての治療法として、投薬や、その者が遭遇した事態の改善を図るが、この失楽市街は違う。


 この失楽市街では、泥黎と呼ばれる感情を喰らう人間が存在するからだ。


 世間では超能力者、という呼ばれ方をするものの、実際そこまでの能力があるわけではない。あらゆる人間の感情を無意識に解釈・共有し、それらの感情を勝手に咀嚼するだけの存在。先天的なものであり、個人で制御はすることができない人間のバグのようなもの、それらをこの世界では泥黎と呼ばれている。


 勝手に感情を喰らう私たち泥黎は、以前までは迫害を受け、孤独に生活をすることを余儀なくされていた。だが、感情に破綻を迎えることが多くなった現代の社会においては必要不可欠な存在として、この失楽市街で泥黎は飼われることになった。ただ、迫害されていた時期と異なり、世界に存在を必要とされている分まだマシなのかもしれない。


「それで、どの感情を消せばいいのでしょうか」


 私は彼にそう聞くと、彼は困ったような表情をして、視線を俯かせる。彼の手元にあるコーヒーは少ししか減っていない。気まずそうな彼を余所に、私は届いた紅茶に複数回手を付ける。舌で風味を転がすようにして、喉に少しずつ流していく。舌の根元に流し込んだ時の苦味で目が覚めるような感覚がした。


 目の前の彼のような人間はいくつも見てきていた。だから、特に困るようなことはない。いつものことでしかないのだ。


 その者にとって大事な人間が死んでしまった、とか、仕事をしていて心を病んでしまった、とか、もしくは失恋をしてしまった、とか。


 そんな悲しみを消すために泥黎である私は存在する。だから、その所以を彼に聞こうとしたのだが……。


「違うんです」


 彼は私の考えていたこととは異なる言葉を発した。





 彼の話を要約すると、彼にはもう感情が存在しない、ということだった。


 彼には感情が、そして記憶も存在しない。なぜ記憶が存在しないかと聞いてみると、あらゆる感情を咀嚼されてしまったが故に、所以となる感情がもう彼の中には存在していないということだった。


 彼の中には虚無しか残っていない。破綻した人間を修復するためにこの失楽市街は存在するのに、この失楽市街に通ってしまったがために、彼は虚無に洗われて喰われつくしてしまった人間、ということらしかった。


「……それならなんでこの街に?」


 当然の疑問だ。ここは感情を喰らう目的でしか存在しない街なのに、感情の存在しない人間がいる意味もない。虚無という感情を食うこともできるだろうが、それをしてしまえば、彼の心はどうなってしまうだろうか。


 ……想像もしたくない。生きたゾンビのようになることは明白だ。それを自らがしてしまうのは、どうしようもなく嫌な感じがする。


 ──私にとっての私の感情は希薄なものでしかない。だからこそ、あらゆる感情を咀嚼できるのだが、他の泥黎と比べても、私は感情を無尽蔵に喰らうことのできる特別な泥黎故に、感情を喰らいつくすことには少なからず抵抗がある。


 感情を喰らうことに対して感情を覚えるのは初めてのことだった。


 私には人間の感情を理解することは難しい。他の泥黎であれば感情を咀嚼してしまったことから、当人自身が破綻を迎えてしまうことがある。悲しみというものはそれほどまでに人間にとって苦しいものであるのだが、私はどれだけ感情を喰らおうとも、それらの悲しみを享受することができない。


 他人のことは他人でしかない。他人のものが私の中に含まれようとも、それは一部の風景としか私は見ることができないのだ。


 だからこそ、彼の言葉には疑問が生まれてしまう。


 感情を喰らうことしかできない私に対して、感情のない人間が目の前にいる。喰う対象が存在しない彼を目の前にして、私はどうすればいいだろうか。


 彼を目の前にすると、私の中には存在していなかったはずの感情が沸き上がる。あまり考えたくないような事柄。それを整理することも億劫になるほどに、彼という存在は私に対してイレギュラーでしかない。


 そんな彼は、静かに言葉を吐いた。


「僕は、この街で感情を取り戻したいんです」


 彼は少しばかり躊躇うように言葉を吐いた。だが、そこに感情を介在させる声音はなく、どこか棒読みのようにも感じられた。


「僕はこの街であらゆる感情を失いました。そして、帰るべき場所さえも僕はわからなくなってしまいました。僕という人間を僕自身も理解ができなくなってしまいました。もう行くべき場所も見つかりません。だから、僕はこの街で感情を取り戻したいんです」


「……感情を取り戻しても、記憶が戻るということはないと思います。感情を喰らわれるということは、それに所以する記憶も喰われるということに他なりません。そして、この失楽市街では喰われた感情を取り戻すことは存在しません」


 私の言葉を聞いて、彼はうなだれるが、それでも、という言葉を発して言葉を続ける。


「もう僕にはここしかないんです。ここでしか生きていけないんです。そのためには感情が必要なんです。お願いします、お願いします。感情を僕に取り戻させてはくれないでしょうか」


 感情のない声に、私は心が揺らぎそうになる。希薄でしかない私の心に波が立つ。


 感情が存在しない彼に感情を取り戻すことなんて不可能だ。そもそも失楽市街にそんな技術は存在しない。


 でも、きっとそういうことではないのだ。彼が言いたいのはそういうことではないのだ。


「……わかりました」


 感情を取り戻せるかはわからない。でも頭の中で思いついた事柄はある。


 私は彼の言葉を受容した。



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