第2話
◇
人にはそれぞれ感情が存在する、もしくは気持ちという言葉で表現してもいいかもしれない。
喜怒哀楽という単純なものから、それぞれに派生するベクトルのような気持ち。生きている間に感じることのできる感情が、喜びや楽しさにあふれていればいいけれど、人生はそう容易いものではない。
人に妬みを抱くこと、人に怒りを抱くこと、憂いを抱くこと、悲しみを抱くこと。人に対してでなくとも、ネガティブと言える感情はそれぞれ生まれてしまうものだ。それらはどれだけ喜びや楽しさで上書きしようとも消えることはない。だからこそ、喜怒哀楽という言葉が存在するのだろうけれど、それらの感情を生んでしまうのは人と関わる以上、そして人の性質上仕方がない。
だが、ネガティブな感情ばかりを抱えてしまえば、そのうちに感情というものは破綻をする。人間としてのタガが外れてしまうのだ。
感情には許容量がある。安定を保つことができなければ、その均衡が崩れてしまえば、人は狂ってしまい、想像もしたくない結末を迎えてしまう。
妬みを抱えに抱えた人間、悲しみを抱えに抱えた人間、怒りを抱えに抱えた人間。別にネガティブな感情だけがそうするわけではない。集団でいるときの楽しさが限界を超えれば、喜びを覚えれば、その人間は普段では考えられない行動をとる可能性が高くなる。
だから、そのためには感情を抑制することが必要になる。
だいたいの大人ということのできる人間については、成長する過程にて感情を抑制する技術を学ぶことができる。学ぶ、というよりかは経験をする。経験をして、感情を溜め込むことに対する防御機制を無意識に行えるようになる。
だが、全員がそういうわけではない。
成長する過程でそれを経験することができなかった者、家庭環境が複雑な者、社会経験が乏しい者、子供という期間を放棄して大人になるしかなかった者、これらのケース以外にも、感情を抑制することを覚えられなかった人間は存在する。
そんな人間が感情を抑制できなければどうなるか、想像することは容易いだろう。
悲しみを食らい続ける者は自死を選ぶかもしれない。もしくは他者と共同して、やはり死を選ぶかもしれない。怒りは他者の命を奪うかもしれない、妬みは、憂いは。
それらに共通して挙げられることは、人の命が失われるということであり、それらの損失を人間は肯定することができない。もしかしたら異質な人間は肯定するのかもしれないけれど、普遍的に存在する人間は、人命が損なわれることを肯定できない。
だからこそ、私たちが住む失楽市街は作られている。
ここに集まる者は感情に破綻を迎えたと分類された人間ばかり。そしてここに住んでいる者は感情に破綻を迎えた人間を修理する"泥黎"と呼ばれる者ばかり。
政府の特別指定機関として、町ぐるみで感情に破綻を迎えたものを救うために、この街は存在する。
そんな彼らのために、泥黎である私たちは存在するのだ。
◇
私のことをイアと呼ぶ彼と噴水で合流したところで、私たちは近くにある喫茶店の方に入った。喫茶店の扉を開ければ、カランコロン、と小気味いい音が鳴る。その音でマスターはこちらの方を一瞥するが、すぐに視線を逸らした。慣れたように仕事に戻るマスターの姿を私は何度も見ている。
マスターも分かっているのだ、泥黎である私が来たからには仕事が行われるということを。
私は慣れたように窓際の方にあるテーブルの方へと移動する。彼に案内とは言えない雑な店の紹介をしたところで、彼を椅子に座らせる。彼が腰掛ける姿を目にすると、私も静かに着席した。
注文は何がいい? と言葉に出した後で敬語でないことを思い出して、後付けで、です、という言葉を吐き出した。彼は一瞬訝るような視線を私にぶつけたけれど、気取られないように、私はコホンと一息吐いた。
しばらく間をおいて、彼はブラックを所望した。その注文に安心感を覚えた後はマスターをこちらに呼んで、彼に頼まれたものと私がいつも飲んでいる紅茶を注文する。マスターは、はいよ、とぶっきらぼうに言葉を返して、そそくさと仕事の方に戻る。程なくして注文したものはテーブルに届いた。
届いたものを互いに口に運んで、一息をつく。いつもであれば、ここに来るまでの道のりについてや、この失楽市街についての天気の話をして、空気感を整えるものだが、彼に対してそれをする気にはならなかった。それに所以する感情については考えないようにする。依頼人とされる彼に深くかかわってしまえば、この先の仕事に支障が出る。
だから、私は端的に言葉を吐く。
泥黎のイアとして、言葉を紡ぐ。
「それで、──どの感情を消せばいいのでしょうか」
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