第11話 二人で一人のご令嬢
村を出てしばらくたっても、ビアンカは石のように何も声を発しなかった。どんよりと、雲はどんどん暗くなっていた。館にたどり着き、腰を下ろしてから、トウタがため息まじりにつぶやく。
「殴ってはいないぞ」
言い訳じみた物言いだった。
『ええ、わかっています。怒ってなんていませんわ』
「なんだ。喋らないからてっきり怒ったのかと」
『まさか、その逆ですわ』
ぱちり、と、トウタの意識が微弱な電流のようなものを捉えたとき、ふいに脳裏に浮かんだのは、ビアンカの穏やかな笑顔だった。
『トータ、ありがとう。あなたが自分のことのように怒ってくれた、そのことがたまらなく嬉しいのです。守ってくれて、ありがとう』
誰もいない館、ビアンカの声が、トウタの中に静かに響いた。
窓の外では細い雨が降り出した。雨は庭の草木を濡らし、館をやさしく覆っていく。
『あなたが来てから、わたくしは人生が寂しくない。どうか、これからも、一緒にいてください』
「…………」
猫を想った。
雨は湿った土の香りを立ち昇らせる。酒の臭いも、ゴミの臭いも、ここには存在しなかった。
怒りが、誰かの嬉しさになるなんて思ってもいなかったのだ。
ずっと、ずっと、腹の中にはぽつんと穴が開いたような感覚と、それが埋まらない怒りがあった。それを説明できない自分にも、母親にも、育ての父親にも、学校にも、育った町にも、すべてに対する怒りがあった。
怒りは、トウタをより孤独にしていった。すべてを淘汰するようにと馬鹿な望みをつけられた。その言葉通り、トウタの周りはどんどんそぎ落とされていった。
だから、猫をあんなにも愛おしく想った。
これからの未来も、一緒にいてくれると思えたから。
「俺の、トウタって名前はさ、要らないものを捨てるって意味なんだ。俺はこの名前が嫌いでしかたなかった」
気づけばトウタはこみ上げるように、ビアンカに打ち明けていた。
「だって、俺は頭も悪いし、育ちも悪いから、何が要るのか、要らないのかもわからない。ムカつく奴らにキレて喧嘩をして過ごしてきたけど、その中で、本当に必要なものを捨ててしまったんじゃないかと思うことがある」
ビアンカは、うん、と軽く相槌を打つ以外は、静かに耳を傾けていた。
「何より怖いのは、自分が必要なものを捨てたとして、それに一生気づけないんじゃないかってこと。自分の将来はヤバいってことだけはわかるけど、どうしてそうなるのか……どうすればよかったのか、わからない。わかろうとすると、イライラして、もう、考えられなくなる。そのうち……また、大事な何かを捨ててしまうんじゃないかって、怖くなる」
ビアンカは、これからも一緒にいてほしいとはっきりと言ってくれた。それはたまらなく嬉しい。しかし、それをこの先、自分がまた駄目にしてしまうのではないかという恐れが、氾濫する川のようにトウタの心を黒く覆う。
幸福の予感は、同時にその喪失すらも予感させる。雨に閉ざされた館の中で、トウタは初めて、誰かに本心を語った。
『約束をしましょう』
ビアンカの、芯のある声が響く。
『わたくしが、トータと一緒に考えます。あなたが、自分にとって何が要るのかを考えられるように、一緒に勉強もします。あなたが、わたくしへの罵倒を自分のことのように怒ってくれたこと。この瞳を美しいと言ってくれたこと。それとおんなじだけのことを、わたくしはあなたに返したい』
「でも、俺は……」
『わたくしも、かつてこの翡翠色の目は綺麗だって、そう思っていました』
トウタが何か言おうとしたのをビアンカは遮る。
『けれども、親も、使用人も、出会う人はみな、この瞳を忌むべきものだと言いましたわ。最初は悲しかったけれど、いつの間にかわたくしはひどく鈍感になっていて、わたくし自身も、この目は蔑まれるべき、醜いものだと思うようになっていました。けれど、あなたは怒ってくれました。そして、わたくしの瞳を綺麗だと言ってくれた。嬉しかった……。わたくしは、生まれてきてからずっと、そう言ってくれるもう一人を探していたんだと思います。
だから、トータ。わたくしがあなたのために考えることは、わたくしがしたくてする、当然のことなのですわ。それに……トータっていう名前、わたくしは結構好きでしてよ』
「なんで……どこが?」
『トータの世界では、要らないものを捨てるって意味だったかもしれないけれど……こちらの世界のある言語で、トータとは、令嬢を意味するのです』
令嬢。
たとえば、ビアンカ・フォン・デンヴォルフのような。
『ねえ、わたくしとおんなじでしょう? トータも令嬢なのです。二人で一人のご令嬢。とっても、ぴったりな名前だとは思いませんか?』
ああ。
こんなにも、遠くで。
まず、トウタはそんな風に思った。
十四年間、そして、あのゴミ捨て場で死ななければ、その先もずっと付きまとったであろう、名前という呪い。それが、世界を超え、身体が変わり、こんなにも遠く離れた場所で解かれ、新しい意味へと編みなおされていく。
なんて、不思議なのだろうか。
「俺が、令嬢かよ……」
笑ってしまう。つい最近まで、乱雑な灰色の町で生きていたというのに。
まったく、本当に遠くまで来たものだ!
雨音が強くなった。トウタは立ち上がり、窓に近づく。薄暗くなった外の景色に、令嬢の顔が映っている。世間から忌避される緑の目を持ち、化粧の奥には傷を隠している顔。
それが、ビアンカ・フォン・デンヴォルフと牧場トウタの愛する者の顔だ。
「綺麗だ」
『ふふ、知ってますわ』
窓の奥でビアンカが笑った。トウタも笑っていた。館は祈りをささげているかのように静かだった。二人をかくまうように、雨は降り続く。細く、そしてやわらかな雨は、やがて冷ややかな夜を連れてくる。
夜明けを待つ蕾たちが、美しく花開くための、優しい夜を。
そして、二人で一人のご令嬢が迎える、新しい明日を。
《了》
二人で一人のご令嬢 羊坂冨 @yosktm
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