第8話 夜明けを待つ花の名は
ビアンカが鍛錬を終えて庭で休憩しているとき、トウタは柵に絡みつく蔓と、そこにぽつんとひとりで咲くトランペット型の花を見つけ、興味をひかれたようだった。
『なあ、それって朝顔か』
「アサガオ……。こちらの花は、わたくしたちの世界ではヴィンデと言いますわ。トータの世界にもあったんですの?」
『……ん、ああ』
急にトウタの歯切れが悪くなる。
同じ身体を共有していても、トウタが今思っていること、思い出していることを、ビアンカは知ることはできない。
後にビアンカが聞くところには、このとき、トウタには苦い記憶がアサガオという名と共によみがえっていた。
トウタが小学生低学年の頃、夏休みの宿題で、アサガオの観察日記が課されたことがあった。学校も宿題も大嫌いだったが、それだけはなぜか楽しみだった。もらった種と鉢を持ち帰ると、ベランダに置いてさっそく種をまき、そして毎日水をやった。
母は、「そんなことしても社会じゃ何の役にも立たないわよ」と言って馬鹿にした。トウタにも、これが一体何の役に立つのかはさっぱりわからなかったが、同じ鉢なのにバラバラのタイミングで芽が出てきたことや、葉に白い毛のようなものが生えていること、蔓の巻き付く向きがすべて同じであること。そういうことに気づき、それを書き記すだけで、明日はどうなっているのか楽しみに思えた。そういえばどうして朝にだけ咲くのだろう、と考えるだけで、つらいことも気にならなくなった。
だが、結局観察日記は完成しなかった。
紫色の蕾が育ってきたころ、母の男が酒に酔って暴れ、蕾はすべて、男の素足で踏みにじられた。
登校日、日記が完成しなかった理由を知られることが無性に恥ずかしく、観察日記をつけなかったと嘘をついた。教師はやっぱり、というような目を向け、叱られもしなかった。
そういうことを、トウタは思い出していた。
そんなことを知る由もないビアンカは、好奇心に任せて畳みかける。
「アサガオ、どんな花なのかしら。ねえ、記憶を見ることってできるんですの? 試しにイメージしてみて?」
『うるさい』
「ま。なんて口を!」
トウタの不貞腐れた口調に、ビアンカはむっとした。
アサガオなる花について、トウタから聞き出すことは難しいことはわかった。しかし、もし似たような花があるのだとしたら、ふたつの世界にまったく同じで違う名前の花があるのか、それともどこか異なる点があるのか、気になるのだ。
すたすたと足早に書斎に向かい、一冊の本を探し出し、また庭に戻ってくる。
『おい、なんだよそれ』
「うるさい、ですわ~」
トウタの言葉を真似て、ビアンカはトウタの質問を無視し、花の前にそっと座る。そして、本をぱらぱらと開く。
『これは……』
「植物図鑑ですわ。すこし古いけれど……ほら、ありましたわ、ヴィンデ」
トウタは何も言わなかった。気にせず言葉を継ぐ。
「アサガオについてよく知らないというなら、わたくしが今からこれを読んでさしあげます。トータは、それを聞いて、違うと思ったら教えてくださいな」
いや、と抵抗するようなことを言いかけたトウタを無視し、植物図鑑の記述を音読する。
トウタはあきらめたのか黙って聞いていたが、ヴィンデの花の、決まって朝に咲くという特徴とその理由の項目を読んだとき、トウタはうめくような声をだし、音読を妨げる。相違点があったのかと尋ねると、もう一度読んでくれ、と言った。文字が読めないから、と。
首肯し、再度その項目を読み始める
「……『ヴィンデの花は朝咲くと言われている。しかし、これは正確ではない。ヴィンデの花は季節を問わず夜明け前に咲く。朝咲く花ではなく、朝の訪れを告げるように咲く花なのである』……」
『なんで夜明け前に咲くのか、書いてあるか』
ええ、とうなずき、理由の描いてある部分をゆっくりと声に出す。
「……『ヴィンデの花がこのような性質を持つ理由には諸説あるが、早朝に活動する、花粉を運んでくれる昆虫たちに出会うためと考えられている』……」
『へえー』
トウタの声はかすかに弾んでいた。さらに興味深い記述を見つけ、ビアンカは得意げに先を読む。
「わ、これ面白いですわ。『実験的に暗くすることなく光に当て続けると、ヴィンデの蕾は開花することなくしおれてしまう』、ですって。花を咲かせ、手伝ってくれる虫と出会うためには、夜が必要なのね……」
生態を知ると、それまで存在にも気づかなかった花が急に愛おしくなる。ヴィンデは、夜が一定時間より長くなると咲く短日植物。長い夜を迎え、夜明けを待ちわびたように咲いたこの花は、花粉を託す昆虫に巡り会えただろうか。
「逆だ」
感傷に浸っていると、トウタが声をあげた。
「逆だ、蔓が巻き付く向きが」
トウタが言うことには、アサガオは時計回りに蔓を伸ばしていたという。ヴィンデの蔓は反時計回りに伸びている。
「ということは、トウタの世界のアサガオと、わたくしの世界のヴィンデは、とてもよく似ているけれど違うってことですわね」
『へぇー。なんで向きが逆なんだ?』
トウタはすっかり機嫌がよくなっている。自分が不機嫌だったことすら忘れていそうで、ビアンカはほほえましくなる。弟ができた気分だ。
「図鑑によると、蔓の向きは遺伝によるらしいですけど……これ以上は書いていませんわね。でも、よく気づきましたわね。蔓の向きなんて。植物好きなんですの? よかったら、もっと読んであげてもいいですわよ?』
『……なんかガキがおもりされてるみたいだから、やだ』
「ま、素直じゃない。……でも、文字が読めないままだと困るでしょう。もしよかったら、一緒にお勉強しません?」
『勉強?』
「ええ。幸いここには古い本がいっぱいあるから、それを使えば、文字だって身につくかと」
ビアンカが一瞬の間に見た断片的なトウタの記憶では、友人と思しき少年が研究機関に勤める親族の女性を馬鹿にする光景があった。ただ、それを見ていたトウタの感情の動きも、同時にビアンカは見ていた。
『……いいのか。あれ、全部読んで』
「ぜ……も、もちろんですわ! わたくしもちょうどそのつもりでしたの!」
『ふーん』
トウタの声が、小さく、しかしはっきりと言った
『んじゃ、まあ、付き合ってやるよ』
「ええ、楽しみにしていてくださいなっ!」
ビアンカは内心焦りながら答えた。書斎にあった本の中には、専門的で、ビアンカが数ページ眺めただけで眠くなるほど難しいものもあったはずだ。さりとて、あんなに偉そうにしたのだから、「わたくしにもわかりません……」など言えるはずもない。
ちょうどそのつもりでしたの、なんて。
(そんなわけありませんわっ)
しかし、もう言ってしまった以上、仕方ない。それに、楽しみでないわけではないのだ。
視界の端で、アサガオに似たヴィンデの花が、風に吹かれ静かに揺れる。
誰かと一緒に、研鑽を積むこと。この頬に残る傷の原因となった魔法の修行においても、ビアンカは常に一人だった。
しかし、今は二人だ。そう思えば、なんだか、無根拠な自信と期待がむくむくとわいてくる。
「やっぱり、さっそく行ってみますかっ? 簡単なものから始めましょう。ああ、まずはそれに合うような本を探さないといけませんわね……!」
『はりきりすぎだろ』
「だって、楽しそうだと思いませんの?」
ビアンカの問いかけにトウタはなにもいわなかったが、きっと照れながらも頷いているのだろう、と、なぜかビアンカはそんな気がしてならなかった。
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