第3話 令嬢と少年は出会った

 日の光が差し込む部屋で少女が目を覚ました。


 体が熱く、頭がくらくらする。喉が渇いていた。

 ふらふらと、水を求めて立ち上がろうとしたとき、違和感に気づく。どうしてこんなに柔らかく上等なベッドで寝ているのだろう。


 その違和感に導かれるままあたりを見回す。知らない部屋だった。がらんと広く、生活感に欠けていて寒々しかった。だが、床が散らかっていないことに好感を覚える。

 ベッドの隣には棚があり、鏡や小さな衣類、そしてランプ型の容器を見つけた。どうやら水が入っているらしい。ありがたい、と手を伸ばして水を飲み、容器を元の場所に戻そうとしたとき、鏡に自分の姿が映った。


「……は?」


 少女──否、トウタは、声を上げた。


 そこに映っていたのは、麗しい少女だった。ふわふわの髪の毛に、整った鼻筋。暗い部屋にあってその肌は蒼白で、なにより、吊り目気味の瞳が宝石のように美しかった。唯一、左目の下から頬にかけて鋭く裂いたような傷跡があったが、それでも、十分に美しい少女といえた。


「おれは……いや」


 お前は、誰だ?


 そう唱えた瞬間、トウタの頭を、ビアンカの記憶の欠片たちが貫いた。まるで走馬灯のように断片的に映る、少女の記憶。そのすべてで彼女は悲しみ、寂しさに震え、そして世界を呪っていた。


 ベッドの上で膝を抱え泣いている記憶とその感情を見たとき、トウタの頭には、あの日の猫の姿が浮かぶ。そう思ってはいてもたってもいられず、少女の身体を、自分の肩を抱きしめた。

 ……ぽろり、と涙が意図せずこぼれた。



 ビアンカが目を覚ましたとき、そこはふわふわとした、不思議な空間だった。自分の手足を動かす感覚もあるし、目の前に手をかざせば、そこにはちゃんと、小さな少女の手のひらがある。しかし、肌の感覚が、まるで空気にまとわりつかれているかのように曖昧だ。この空間そのものが、自分の身体とつながっているかのよう。


 ビアンカの疑問に答えるかのように、ぱっと、彼女の目の前に、四角い窓があいた。


 彼女はそこで、鏡に映った自分の姿を見た。

 そして、鏡を覗く何者かに身体を奪われたのだと直感したとき、ビアンカは叫んだ。


「返しなさいっ、この無礼者!」


 迫害され、軽蔑され、生きる意味すら見失っていたビアンカだったが、正体の知れない外敵による、身体の簒奪。たとえ見放され死ぬとしても、せめてビアンカ・フォン・デンヴォルフとして終わりを迎えたい。それすら許されないというのか?


最後の尊厳すら踏みにじられるような事態に、彼女はおおよそ人生で初めて憤慨した。 

未熟な怒りに任せ、ビアンカは地団駄を踏み、腕を振りまわし、考えうる限りの罵声を叫ぶ。


「大馬鹿、悪鬼、恥知らずっ! とうとうわたくしを最後まで踏みにじろうというの! 許さない、許してたまるものですかっ……返せ、わたくしの身体を返せえぇぇ!」

「おれは……いや、お前は、誰だ?」

「はー!? わたくしのセリフですわ! どこの誰ですのあなたが! 名を名乗れっ、綴りを教えろっ、呪ってやるっ!」


 しかし、彼女の怒りは、次の瞬間に戸惑いに変わった。

 鏡を覗くものが、その身体を、ビアンカをひしと抱きしめたのである。

 その感覚が、謎の空間の中にいるビアンカにも伝わっていた。彼女は、その何者かに抱きしめられる感覚を覚えた。


「なっ……」


 誰かに、抱きしめられるのは初めてだった。


「や……」


 やめなさい、と言おうとして、言葉にならない。敵であるはずの何者かの抱擁に、ほだされそうになる。

 そんな自分に歯噛みしたとき、ビアンカの頭を、鏡を覗く者──トウタの記憶の欠片たちが貫いた。まるで走馬灯のように断片的に映る、少年の記憶。そのすべてで彼は怒り、安心に飢え、そして自分を見放していた。

 流れ込む記憶と感情は、彼が敵ではなく、こことは違う世界で生きていた、ただの少年であることを示していた。


ビアンカは、身体を失ったこと自体への怒りはあれど、もう、トウタのことは敵視していなかった。流れ込む、彼の腕の抱擁に身を預け、そっと涙を流した。


 だってビアンカはわかってしまった。自分を抱きしめたのが彼の本心からの行動であること。トウタの心を苛んでいたぽつーんとした感情が、きっと孤独と名付けられるものであること。


 ビアンカの意識が流したその涙は、ビアンカの身体へと流れ落ち──


 それが、つながるきっかけだった。


 ぱちり、と、ビアンカの意識に電気のような衝撃が走った。


(今なら、声が届く!)


 理屈ではなく、彼女は感覚として理解した。


『聞こえますか、トータ!』


 ビアンカの声にトウタが反応した。


「……ビアンカ?」

『ええ、ええ! よかった、声が届くのですね!』

「あんた、生きているのか?」

『わかりません。一体いま、わたくしはどういう状態なのでしょう……。どうしてわたくしの身体にあなたが入っているのかしら』


 トウタが眉をひそめて頭を掻いた。ビアンカは生まれてこのかたしたことのない仕草と表情である。


「なんかマホウとかじゃないのか。あるんだろ、ここには」

『いくら何でも、世界を超えて魂を召喚するなんて、あるのかしら……』


 考えていると、ふと、気づく。そういえば自分は、命の危険を感じるほどの高熱を出して臥せっていた。今、ビアンカの意識に苦痛はない。ならば、身体は?


「そういえば、わたくしの身体って死にかけだったけれど、あなたは、今、大丈夫なのかしら」

「あ? いや、確かに熱っぽいしだるいけど、別に死ぬほどじゃねえよ。クソ野郎たちに殴られたよりよっぽどましだ」

『そのたとえはわかりません』


 記憶のすべてが共有されているわけではない。トウタが引き合いに出したものの感覚はわからなかった。

 しかし、彼の言を信じるならば、このような事態になって回復したのだろうか?


「ちょっとぶっ倒れそうなくらいだ」

『重体ですわ!』


 また、考えていることや感覚が自動的に伝わるわけではないようだった。


『わたくしの身体ですわよ! もっと丁重に扱ってくださる!?』

「チッ……わかったよ、うるせえな」

『舌打ちしない!』


 ビアンカの声は、トウタには頭の中に直接声として届いていた。だからか、大声を出されると、頭痛が酷くなるような気がする。ベッドに倒れると、途端にどっと眠気が襲ってくる。


(この身体、弱いな……)


 正しくはトウタの元の身体が強いだけである。ビアンカは劣悪な環境にあっても、いたって平均的かつ健康的な肉体を持っていた。だが、そんなものトウタにはわからない。彼はビアンカを虚弱な令嬢だと判断した


(しゃあない、休んでやるか)


 トウタは目をつぶる。


『あれ? わたくしも眠くなってきましたわ! え、そういう仕組みですの? ちょっと、待っ』

「ぐごー」


 ビアンカの身体がいびきをかき始める。

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