第7話 穢された聖女
ますます名声を高めた聖女ミーナの癒しを求め、連日、病める者、傷ついた者たちが聖女宮へ殺到していた。
だが、この日。定刻になっても、いっこうに聖女が姿を現さない。
聖女ミーナが遅刻するなど、未だかつてなかったことだ。
集まった者たちは、痺れを切らせ、険悪な空気が漂い始める。
そこへ姿を現したのは、トーベン皇太子とフリーダ侯爵令嬢だった。
トーベンは声を張り上げ、神官たちへ抗議する。
「神聖なる務めを放棄するとは、いかなる了見か! 聖女は果たすべき使命を放棄することなど許されない! 直ちに聖女を連れて参れ!」
教会は、王家に対して一定の独立性を持っている。とはいえ、次代の王たる皇太子の抗議を神官たちは軽視できない。やむなく、彼らは聖女宮の中へ姿を消した。
さらに時間が過ぎ、集まった者たちは、口々に騒ぎ始める。
「苦労して遠くから来たんだ。どうしてくれるんだ!」
「聖女は、俺たちを見捨てるのか!」
「早くしやがれ! 俺らは、もう限界だ!」
ようやく聖女ミーナが姿を現した。
しかし、顔は青白く、精気がまったく感じられない。足取りも危なっかしく、侍女に支えられている始末だ。
「ようやく来たか。さっさと務めを果たすがいい。皆がおまえの癒しを求めて
冷静な者なら、皇太子の根拠に薄い威圧的な言葉へ違和感を感じただろう。しかし、群衆と化して興奮の境地にある病人たちは、皆が皆これに賛同した。
「そうだ! 早くしろ!」
聖女ミーナは、手を組むと、
本来なら、聖女ミーナが祈りを捧げれば、病人・ケガ人たちは眩い光に包まれるはずだった。しかし、今日に限っては、何も起きない。
「どうなってんだよ! まじめにやれ!」
「俺たちをバカにしてんのか!」
もはや、集まった者たちは、暴徒と化す寸前だ。
「やはりそうだったか!」
トーベン皇太子は、意味ありげな声をあげた。
「皆の者、聞け! この女狐は、こともあろうに聖女宮へ姦夫を連れ込み、姦通行為を働いた! 聖女に不可欠な貞潔を捨てたのだ! そして癒しの能力を失った。このような大罪は許されない! 教会、ひいては王国に対する重大な裏切り行為だ!」
声を張り上げ、群衆を
ミーナは、怯えるあまり、一言も言葉を発することができない。
「俺たちを騙しやがったな! この淫売のあばずれめ!」
群衆は、口々に
トーベン皇太子は、ニヤリと
「これではっきりしたな。きさまとの婚約は、今、このときをもって破棄する! さらに王国は、この女狐に対し断固たる処分をくだすよう、教会に要求する!」
ミーナは、神官たちに
◆
その前日の夕べの祈りのとき。
ミーナは聖堂で祈りを捧げていた。ミーナの集中力を妨げないため、他の者の出入りは禁じられる。施錠され。外には護衛が控えているはずだった。
ところが、その日に限って、ある扉の鍵が開いている。そこから2名の暴徒が侵入し、ミーナへ乱暴を働いた。男2人相手では、抵抗もむなしく、彼女は穢されてしまった。
帰りが遅いことを不審に思ったミーナの侍女が聖堂を訪れたとき、護衛の姿はなかった。鍵が開いていることを不審に思い、聖堂の中の様子を窺ったとき、着衣が乱れた姿で気を失っているミーナを侍女が発見したのだった。
いなくなった護衛の探索、なぜ施錠されているはずの鍵が開いていたか、緊急に捜査が進められるものの、
事態の深刻さに、聖女宮では、それ以上なす
そして、今日の事態へ至ったのだ。
皇太子からの要求に対し、教会は何らかの回答を示さねばならない。
とはいえ、状況から見て、皇太子の主張は素直に
護衛は
姦通行為などあろうはずもなく、ミーナは被害者だったことを
皇太子の行動をみれば、彼が裏で命じただろうことは、猿でも想像ができる。
しかし、いかんせん、何の証拠も得られそうにない。
それに、ミーナが聖女としての能力を失ってしまったことは、覆し難い事実だ。
結局、教会は
被害者とはいえ、もはや能力を失ったミーナを、教会の威信をかけてまで守ろうとする気概のある者はいなかったのだ。
とはいえ、さすがに体の一部を切り落とす身体刑までは哀れだということで、ミーナの処分は国外追放を落としどころとして、皇太子と調整がついた。
新たな聖女には、補欠だったフリーダ侯爵令嬢が就くことになった。
すべてが、トーベン皇太子の思惑どおりに運んだのだ。
ミーナは聖女宮からほぼ無一文で放り出された。
聖女は教会へ奉仕する職であり、俸給の
ミーナは、とりもなおさず実家のマッサージ店へ向かう。
事情を知った母とともに、声をあげて泣いた。
「ミーナ。これから、どうするんだい?」
「とにかく、国外へ出ないと、もっと酷いことになりそう。ラグーニャ帝国の治安が一番良さそうだから、行ってみるわ」
「そうかい。だったら私も……」
「お母さん。不幸になるのは私一人で十分よ」
「しかし、女の一人旅なんて、無謀すぎるんじゃあ……」
「いいのよ。これ以上不幸になることなんて、ないんだから」
「ああ……ミーナ……神様は、なんて残酷なんだ。ミーナは、あんなに頑張ったのに……」
ミーナは、自分の気持ちを代弁してくれた母に感謝した。
なけなしの金を持たせてもらい、ミーナはラグーニャ帝国へ向けて、トボトボと歩き始める。何の当てもない旅だけに、不安ばかりが頭を
が、後ろから声を掛けられた。
「ミーナさん。女の一人旅とは、感心しませんね」
ミーナは、目を見張った。
「マリウスさん!」
さらには、リーサの姿も見える。
2人は駄馬に荷物を積み、完全な旅姿だ。
「ミーナさん。私もお供するよ」
「でも、私なんかに……申し訳ないです」
「私はね。あのときに、人としての尊厳を失ったように感じた。でも、それに強い恐怖をいだいた。それ以来、どうでもよくなったんだ。他人からもらう名誉も地位も……老い先短い私は、余生は人として好きなことをして過ごしたい。そして最後は、できるだけ人らしく死ねればいいと思っている。
実は、こんな腐った国からは出たかったんだ。ちょうどいいから、ミーナさんに便乗させてもらった。私のわがままだ。謝るのは、むしろ私の方なんだよ」
「そんなこと言われると、私……」
ミーナには、マリウスの言葉は
「ミーナ。泣かないで。幸せが逃げていってしまうわ」
リーサが
「リーサも、一緒にきてくれるの?」
「もちろんよ。お父様がいない国に一人でいても、息が詰まるだけだわ」
「リーサは、相変わらず、お父さん子なのね」
「えへへ。実はね、私、お父さんと結婚したいと思っていたこともあるんだ。だって、血がつながっていないんだから、不可能じゃないでしょ」
リーサは、ことさらに明るく振舞って見せる。
「はあっ? おまえ何を言っているんだ!」と、マリウスはあきれた声を上げた。
「いや。だから、だいぶ前の話だよ。でも、私よりもお父様のことが好きな人がいるみたいだから、身を引くことにしたの。娘でも、愛してもらえれば十分だから」
リーサは、意味ありげな視線をミーナに送る。が、彼女は、まともに受け止めきれない。ミーナは、顔を赤らめた。
マリウスは、けむに巻かれたようだ。意味をまったく理解できていない。
「でもさあ。あの腐れ皇太子と結婚しなくてすんだわけだから、悪いことばかりじゃないよね」
「そんなこと言っても、私は穢れてしまったのよ。一生もとには戻らないのだわ。聖女の力も失ったし、こんな無価値な女、奴隷以下だわ」
「それは違うよ。タミーさん。処女じゃないと聖女になれないなんて、男の身勝手な理屈だ。その証拠に、ラフィは、光の精霊は君のことを見捨てていないじゃないか」
「でも、本当に私は力が使えなくて……」
「それは自己暗示というものだよ。単なる思い込みだ。君は、男の身勝手な理屈に振り回される必要はないんだ。
おい! ラフィ! なんとか言ってやれよ」
気配を消していた光精霊のラフィが姿を現した。
タミーとの修行の成果もあって、もうすっかり青年の姿になっている。
「タミー。ごめんね。なんて言葉をかけていいかわからなくて……僕は、決してタミーを見捨てていないよ。タミーさえ望めば、今までどおり光魔術は使える。
それに……ほら! みんなもタミーに付いてきてるじゃないか」
ラフィ以外の下級の光精霊たちも、続々とタミーに向かって集まってきている。
「ああ! みんな! きてくれたのね。嬉しい」
タミーは、またも涙ぐんだが、嬉し涙だ。彼女は、少し自信をとりもどしたように見える。
そこで、ラフィは、思いがけないことを言う。
「実は、僕からお願いがあるんだ」
「何かしら?」
「フリーダっていう
「そう言われても……」
タミーは、悩ましい顔をしている。
マリウスは、その憂い顔もまた美しいと感じてしまった。
――さすがに、これは不謹慎かな。
「ならば、私がなんとかしてやろう」
「いいの? お爺ちゃん」
マリウスは、年寄り扱いされて不快感をにじませる。
すると女の光精霊が、ラフィにゴツンと
「痛いよう。お姉さん」と、ラフィは涙目で訴える。
彼女は女神のように美しく、気高さを備えている。ラフィより遥かに格上の精霊であることは間違いない。
「私のパートナーを年寄り扱いするんじゃない! それに比べたら、そこらの若造など、虫けらのようなものだ。おまえもだ! この未熟者が!」
「はいっ! 失礼しました」
ラフィは、ガチガチに硬直して、緊張している。
その後、ラフィに案内されて、王都へ逆戻りした。
べリシャ侯爵鄭にたどり着くと、屋敷には結界が張られている。
ところがマリウスは、ちょっと触れただけで、あっさりと結界を破ってしまう。
「お
結界に自信があるのか、夜警の数は少ない。その目を盗んで邸内へ侵入するのは難しくなかった。
「ラフィ。場所はわかるか?」
「あそこの3階の部屋だよ。ちょうどフリーダはいないみたい」
といっても、おいそれと3階へは登れない。皆は、そう考え始め、思案する。
マリウスは、懐を探ると一粒の豆を取り出した。それを地面に埋める。
彼が魔力を込めると、豆はみるみるうちに成長する。ちょうど3階の高さで成長が止まった。
「お父様! こんなことまで!」
リーサは驚きのあまり声を上げた。キラキラとした尊敬の眼差して父を見つめている。
「なに。ちょっとした複合魔術だ。どうということはない、下級レベルのものだ」
「そんなあ……」
元素魔術には、個人の星座や才能に応じて相性がある。
マリウスが最も相性のいいのは、当然に火属性。これと対極にある水は苦手だ。
リーサは風属性で、土属性が苦手。
先ほどの魔術は、土属性をメインに水属性をミックスしたもので、リーサにはハードルが高い。
「とにかく、目的を果たそうではないか」
そう言うと、マリウスは、ひょいひょいと成長した豆の木を登っていく。
――あれのどこが爺さんなんだ?
見ていた誰もが、そう感じた。
不用心にも、窓は施錠されていなかった。
マリウスは、そっと室内に入り、内部を物色すると人の頭ほどの球体を発見した。
球体の上半分は透明になっていて、中に光精霊が閉じ込められている。
ひとまず、マリウスは、それを携えて室外へ脱出した。
それを見たラフィは手を叩いて喜んだ。必死に声をこらえている。
ひとまず邸外へ脱出し、人目のない夜の公園でアーティファクトの解除を試みることにする。
マリウスは、アーティファクトへ魔力を流すと構造を解析し始めた。
彼はハッと軽くため息をついた。
(無理なのか?)
見ていた誰もが緊張した。アーティファクトは、古代の遺物。動作原理などが未解明なものだ。
「これを作った者は、相当な知恵者だな。所有者の生体情報がない限り、開けられないよう厳重にロックされている」
「そんなあ……お爺ちゃんでも無理なんて……」
ラフィは
「まあ待て。それはまともに開けようとすればの話だ」
「えっ? どういうこと?」
「頭のよすぎる者ほど視野が狭くなる。これの場合、ロックの構造にばかり気をとられるということだ。これは所有者にならない限り、2度と使うことはない。それでかまわないな?」
「もちろんそうだけど」
「ならば、さほど難しくはない」
マリウスは、体に魔力を巡らせ、身体強化を図った。そのまま手で透明な部分をはさみこみ。力を込めていく。
ビキッと音をたてて、透明な部分にヒビが入る。さらに力を込めると、ヒビが広がっていく。
マリウスは、ヒビの状態を観察し、割れたゆで卵の殻を剥がすように、破片を一枚ずつ外していく。そして、精霊が通れるほどの空間ができた。
その空間から、光の中級精霊がフラフラと出てきた。
「やったー! お爺ちゃん! ありがとう」
ラフィは、小躍りして喜んだ。
「なるほど、魔術師は物理攻撃に弱い……そういうことね」
リーサは、ぶつぶつと
「ラフィ……ありがとう……」
脱出した精霊はラフィに抱えられているが、やつれ果てていた。声を出すのもやっとの様子だ。
「可哀そうに……タミーに癒してもらうといいよ」と彼女へ手渡した。
「まあ、可愛そうに。たいへんだったわね」
タミーは精霊を胸に抱き、頭を撫でながら
ほどなくして、光を取り戻し、肌の色つやがどんどん回復していく。
「ありがとう。ラフィのパートナーは凄いや。うらやまいいよ」
元気をとりもどした精霊は、お世辞抜きにタミーを褒めた。
「そんな……私なんて……」
この現実を目にしても、タミーの自信は回復にはほど遠いようだ。
目的を果たし、一行はラグーニャ帝国への道程を辿り始める。
◆
アジスザーゼン王国の精霊たちは、騒然とし始めていた。
「おい。フレデリケ
「そうらしいよ。パートナーと一緒にラグーニャ帝国へもう旅立ったって」
「そんなあ。そうしたら、僕たちはどうなるんだよ。地回りのやつらなんかがが来たら、
「でも、フォルカー兄さんがいれば、なんとかなるんじゃあ……」
「ダメだ。兄さんも一緒に旅立った」
「そんなあ」
「当たり前だろ。兄さんのパートナーは、フレデリケ
「じゃあ、ラフィはどうよ。ちょっと頼りないところもあるけど、なんとかなるんじゃない?」
「おまえ、知らないのかよ。ラフィのパートナーこそ、国外追放になったんだ。フレデリケ
「呆れた……それって自殺行為じゃないか。人間の王族は、何を考えているんだ?」
「やつらは自己の利益しか眼中にないのさ。僕たちのことなんか鼻にもかけちゃいない」
「それって、王国は、もう絶望的ってことだろ。なら、僕はフレデリケ
「そうだな。僕も行く」
「だったら、皆でいきましょうよ。王国に留まる義理も益も何もないもの」
精霊たちの動きは、妖精に伝わる。さらに勘のいい森のボス的な存在の動物にも伝わって行く。ボスが動けば、従う群れも移動を始めた。
生命エネルギーの循環に一役買っていた、これらの存在がなくなったことにより、森の木々や農作物などの植物は活力を失っていく。
だが、人間たちは、そのことに全く気付いていなかった。
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