【KAC20242】チャイムに呼び覚まされる後悔の記憶。

音雪香林

第1話 ありがとう。

転職するにあたって引っ越しが必要となった。

なので現在、住宅の内見を重ねている最中である。

今日は築十年のマンションだ。


案内してくれている住宅会社の人が「フローリングを裸足で歩いたときの感覚とか、けっこう肌に合うあわないがあるので、実際に暮らすときのことをイメージして触ったり見たりしてみてください」と内見のポイントを親切に教えてくれる。


私は住むとしたら冷蔵庫を置くところはここだろう、そこからキッチンでの調理を終えた後テーブルへ運ぶその動線を歩いてみたり、トイレの位置や風呂場の浴槽の広さを実際に身体を入れてみて確認して見たりした。


気になるのは剥がれかけの壁紙くらいで、他に気になるところはなかったので、第一候補として考える方向で決定する。


そして室内から出ようと玄関へと一歩踏み出したとき。

キーンコーンカーンコーンとチャイムの音が外から響いてきた。


インターホンではない。

社会人になる前は嫌と言うほど聞いていた……。


「あ、このそばに小学校があるんです。ちょうど午後の授業が終わったところみたいですね」


脳裏に女子高生だったころの思い出がワッと押し寄せてきて、住宅会社の人が笑顔で伝えてきてくれるその情報も耳からすり抜けて行く。


『私、学校を辞めることにしたの』


まだ膨らんでいないお腹を撫でながら、穏やかな表情で報告してくれた友人。

私は、まだ制服も脱いでいない雛鳥に手を出すサラリーマンの男と一緒になるつもりの友人を止めたかった。


反対したかった。

けれど、結局『そう』としか返せなかった。

祝福でも罵倒でもないあいまいな相槌。


それでも友人はしあわせそうに『またね』と踵を返し去っていった。

私はその背中が見えなくなると、そっとスマホを取り出し着信拒否の設定をする。


彼女との連絡を絶つ決断は、衝動的なものだった。

あとで後悔したが、彼女は既に引っ越しており、彼女のご両親に連絡先を尋ねる勇気もなかった。


探偵でも警察でもない私が手掛かりもなく日本中の女性の中からたった一人を探すのは不可能であり、制服姿の女子高生とすれ違うたびにヒリヒリと心のどこかにある擦り傷が存在を主張するようになった。


「どうかされましたか?」


住宅会社の人に心配そうな声をかけられ、意識が現在に引き戻される。


「い、いえ、ちょと……懐かしいなって」


住宅会社の人は安堵した様子で「そうですね」と微笑み、今度こそ玄関を開けた。


すると、一人の男の子……小学校四年生くらいだろうか……走って来ていてドアにぶつかりそうになる。


わっ、という小さな悲鳴ももらした。

住宅会社の人は苦笑して「また落ち着きがないってお母さんに怒られるわよ」と小言をもらすと、私に「隣の子ですよ」と教えてくれる。


もしここに住むことになったらご近所づきあいするはずだ。

私は愛想笑いを張り付けてあいさつしようとしたが……なにか、見覚えがあるような……。

そこに。


「タカシ! 見てたわよ! あんたは本当に落ち着きがないんだから!」

「げっ、お母さん!」


玄関の陰から聞こえてきた声は……間違いない!

私は玄関から飛び出し、タカシくんを押しのけてその「お母さん」に向き直った。


白いうりざね型の顔に、ちょっと猫みたいな印象のつり目は……。

私は鼻の奥がツンとして、自分が泣きそうなことに気が付いた。

彼女の方はというと……。


「紗智子ちゃん、久しぶりね」


ふわりと笑ったのだ。

私の方から連絡を拒否して、怒っていてもおかしくないのに。


こういう子だ。

とても、やさしくて女神様みたいで、高校時代はダメな私の心を包んでくれていた。


「タカシくんは、あのとき……お腹にいた子?」


私が尋ねると、こくりと頷いて応えてくれる。


「ええ。もうあれから十年ね。もうすぐ三十路よ? 信じられる? 紗智子ちゃんの顔を観ただけで、女子高生の時に一気に戻ったみたいに感じるのに」


私も同じだ。

だからこそ、あのときを……取り戻したい。


「旦那さんは?」

「元気よ。離婚とかもしないで、育児もちゃんと手伝ってくれてる」


私は胸の中からこみ上げる「今度こそ、間違えない」という決意と共に告げる。


「おめでとう」


あの時に言えなかった言葉。

今更だ。

だけど彼女は。


「ありがとう」


と私を抱きしめてくれた。

学生時代の時のように。


ありがとう、は私の台詞だ。

祝福できなくて後悔して心に負っていた擦り傷が治癒していく。


「お母さん、このおばさんと知り合いなの?」


のんきなタカシくんの声が聞こえてきた。

彼女はちょっと笑って「友達よ」と答えてくれる。


まだ友達だと思ってくれていたのだ。

嬉しい。


そんな中、住宅会社の人が。

「ここで本決まりでいいですか?」

と尋ねて来た。

答えは決まっている。


「ええ、ここにします」


再会した友人は、これからは隣人だ。

私はゆっくりと顔を上げ。


「これからよろしく」


これまでの人生でいちばんの笑顔で伝えるのだった。




おわり

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