第10話──6日目──
暗転して、ザクロさんの道案内は無いまますぐに視界が晴れた。カレンダーと時計を見ると、浅葱さんがザクロさんを呼び出した日と同じ日の昼間だということが分かった。
その浅葱さんはというと、何やら熱心に手紙を書いていた。しかし、文字を書いても書いても、書いたそばから消えていく。
「やっぱり、悠祐くん宛ての手紙は遺せないみたいね……仕方がない、お父さんとお姉ちゃん宛てに書こう。」
便箋を変えて、今度はちゃんと文字が残っているのを見て、俺も安心した。俺宛ての手紙が遺らなかったのは少し寂しい気がしたが、しかし、浅葱さんが書こうとしてくれたその事実だけでも十分嬉しいではないか。
俺は、運命を受け入れることにした。浅葱さんが……いや、浅葱が、幻想世界で話したときに言ったことを思い出したのだ。
『大切な存在を守るために、自分で選んだことなの。』
大切な存在。それが俺だったことに、くすぐったさと謎の満足感と優越感のような不思議な感情を抱く。浅葱は、最初から、俺の方を向いてくれていたのだ。
「……よし、手紙はこれでいいわね。あとは荷物整理だけど、私ができることはないわねぇ……。あとは遺書くらいね。」
浅葱がどんな感じで遺書を書いたのか気になって、駄目だと思いつつも、俺はこっそり覗いてみた。
「もし悠祐くんが何かのショックで私を忘れていたら、他人として接してほしいかな。副葬品は学校の制服。私の青春が詰まってるから。燃えないホック類なんかは忘れず外してね。向こうで買ってつけ直すから。」
たった、これだけだった。これだけだったけれど、浅葱が長く病院にいながら学校を楽しんでいたことと俺を大切に思っていたことがよく分かる文章だった。文を見ずとも、字体だけで分かる。柔らかくて優しい字は、浅葱の感情が全て籠っていた。
この日、浅葱はICUらしき場所から小児病棟に移動した。名残惜しそうに、眠る俺の方を二回振り返ると、浅葱は真っ直ぐ病室まで向かった。そしてその日お見舞に来た縹さんとお父さんにはいつものように接していた。相変わらず、演技力がすごい。俺もそんな表情づくりができたらいいんだけどな……
七月六日の夕食はうどんだった。パプリカで流れ星が作ってある。しかし浅葱はうどんが嫌いで、鬼に追い詰められた子供のような形相をしながら食べていた。
「本当に最悪……最後の晩餐がうどんだなんて。まあ、明日の昼食はうどんじゃないからいいけど。」
ぷんすか、といった様子で浅葱はザクロさんが書類を持ってくるのを待つ。
結局、ザクロさんが来たのは消灯後だいぶ遅くなってからだった。
「ちょっと悪魔さん?遅くなるなら連絡くださいよ。消灯後起きとくの、結構つらいんですからね。」
「すまない、確認と印刷に手間取って……」
「まあ、巡回と巡回の合間だからいいけど……手早く済ませましょう。」
浅葱はライト付きのボールペンで書類に目を通すと、次々とサインしていく。
「これでいいのね?」
「ああ、完璧だ。」
「じゃあ、あなたの名前を教えて頂戴。」
「ああ。よく聞いとけ。俺の名は、ザクロ。赤い悪魔猫のザクロだ。」
「赤い悪魔猫のザクロさん。よろしくね。」
そして、浅葱とザクロさんは堅い握手を交わすと、翌日の夕方を待つことになった。俺はというと、黙って浅葱が死んでいくのを見るのは嫌で、だけど見届ける義務があるから落ち着かない心臓と揺れ動く融合した闇を抱えて、待つしかなかった。
翌朝、浅葱は珍しく体調がよく、主治医の先生も看護師さんたちも喜んでいた。浅葱は、もうすぐ死ぬことを隠し通して笑みを浮かべ、プレイルームで年下の子供たちの相手をし、愛想よく振る舞えるだけ振る舞った。
そして向かえた夕方。ちょうど看護師さんの交代の時間だったが、この時間はどうやら俺と浅葱が生まれた時間らしい。俺は、浅葱がわざわざこの忙しそうな時間を指定した理由を知った。
俺は病室で動き回る看護師さんや浅葱の主治医の先生たちの邪魔にならないようにしながら、最期一瞬の隙に生まれる恐怖の影を壊して、浅葱が少しでも平穏に逝けるようにと守った。例えこれがただの記憶の世界だとしても。
そして、浅葱は、短いその14年に幕を下ろした。
暗転。
周りに、文字が浮かんでいる。
『悠祐、あとちょっとだ。この先に浅葱の魂がいるはずだから、連れて帰ってきてくれ。』
「でも、俺、闇が……」
『大丈夫だ。浅葱はそのくらいで壊れるようなタマじゃない。安心してくれ。』
「分かりました。」
周りに浮かぶ文字を眺めていると、文になっているらしいことに気が付いた。文字の塊ごとに集めて並べると、それは、浅葱が書こうとして書けなかった俺宛ての手紙だった。
『悠祐くんへ
今までありがとう。お見舞いに来てくれてとても、とても、嬉しかったです。
でも、この手紙をあなたが読んでいるということは、何か青天の霹靂みたいなことが起こったのかもしれませんね。だって、私が手紙を書こうとしても、文章が勝手に消えていくんですもの。文章にあの世のようなところがあるとしたら、きっとこの文はそこへ行き着くのでしょう。だから、悠祐くんが読んでいるということは、よっぽどの緊急事態だと思うのです。でも、悠祐くんなら大丈夫。魂がどこに行ったって、きっとあなたなら、体が生きている限り必ずや還ってくるはずです。だから大丈夫。
これからも、私の分まで生きてください。信じています。
千堂浅葱』
さっきまで、気を張っていたようだ。手紙を読んで、それでやっと感情が動いた気がする。とめどなく涙が流れる。
(浅葱……浅葱、俺は悪い兄だ。浅葱がいなかったら、俺は幻想世界で彷徨っていたに違いない。それに、信じてもらう程の価値なんか今の俺には無い。でも、もう少しだけ待っていてくれるか?きっと必ず、浅葱が胸を張って紹介できる兄になるから。)
泣き崩れて、体に力が入らない。でも、進むしかないのだ。震える足取りで、前に進む。薄い月明かりのような光の下、俺は真っ直ぐ進んだ。
どれだけ進んだだろう。月明かりは徐々に薄れてしまった。前後不覚になりつつある闇の中、前方にうっすら光が見えた。きっとあれが浅葱の魂に違いない。冷たい体と重い闇を纏う中、俺は一直線に走る。だんだんと光はその輪郭がよく見えるようになった。見れば、丸まって眠る浅葱の姿だった。
「浅葱!」
気だるそうに、浅葱の魂が目を開ける。
「浅葱、迎えに来たぞ!一緒に帰ろう!」
俺は、浅葱の魂を抱き締めた。抱き締めた瞬間、浅葱は幸せそうに微笑んだ。やがて浅葱の纏う光は強くなり、目を開けていられなくなって、そして……
「おはよう。」
俺の顔を覗き込んだのはルリさんとザクロさんだった。いつの間にか、心臓の冷たさも纏った闇の重さも消えていて、長い夢を見た後のような気分だけが残っていた。そっと起き上がって、浅葱のベッド上に目線の高さを合わせる。浅葱がこちらを向いた。包帯の巻かれた目で、こちらを向いた。そして、かすかに微笑んだ。
「浅葱。」
「やっとそう呼んでくれたのね……お兄ちゃん。」
俺たちは、頬をくっつけながら無事の帰還を祝った。
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