第3話──2日目 午後──

 香りが、記憶を誘う。


(そういえば……俺……)


 昔、誰かに、ナポリタンやサンドイッチのレシピを渡して、作ってみてくれ、と言ったことがある気がする。相手も思い出せない程、昔のこと。


(あれは……誰だったんだろう。)


 思い出そうと考えると、かすかに、頭痛がする。千堂さんを心配させないよう、悟られぬように平静を保ってスパゲッティとピーマンを咀嚼する。幸いまだ悟られていないようだ。


(おいしい。懐かしい味がする。)


 心なしか、ほっとしたような気がした。


「ナポリタンは久しぶりに作ったけれど、やっぱりおいしいわね。」


 千堂さんも幸せそうな表情を浮かべている。やっぱりおいしいものは人を幸せにする力があるんだろうな等と考えながら、もぐもぐ、もぐもぐ。


(そういえば、千堂さんは何故山野家のサンドイッチの味を知っていたんだろう。)


 思考を読まれても、俺のことを知っていても、今更驚くことはない。けれど、やはり気になるのだ。接点など無いはずなのに、千堂さんは何故俺を知っているのか。そして、何故、時々俺と目を合わせたときに、一瞬懐かしそうな表情を浮かべるのか。


(これがファンタジー小説だったら、壮大な過去が隠されていたりするんだよなぁ。まあ……そんなこともないだろうし、きっとお嬢様の気まぐれとか、そんな感じだろうな。)


 ピリッとするけれど甘い、独特の味のマヨネーズの味を飲み込む。胸が、チクリと痛む。


(気まぐれなんかではいてほしくない)


 何故だろう。何故か、そんな思考が頭の中に充満するのだ。


 サンドイッチのパンの耳を最後に飲み込んでそんな思考に蓋をする。


「おいしかったわね。ごちそうさまでした。」

「ごちそうさまでした。……おいしかったです。」


 一瞬、千堂さんがまた懐かしそうな表情を浮かべた気がして、続けるつもりだった言葉に間が空いてしまった。しかし、運がいいのか何なのか千堂さんに不審がられることもなく、食器と鍋を片付けに俺たちは厨房に戻った。


「………………」

「千堂さん、どうしたんですか?」

「えっとねぇ……」


 一瞬の間の後、千堂さんは俺の顔をまじまじと見つめる。


「まずは、その千堂さんっていうのをやめない?私のことは浅葱でいいから。」

「え、でも、しかし……」

「いいから。ね?」


 有無を言わさず、といった上目遣いな表情で詰め寄られると、了承せざるを得ない。


「……わ、分かりました、浅葱さん……」


 千堂さ……浅葱さんは、それでいいわよ、と呟くと、本題だったであろう話題を俺に投げかけた。


「ちょうど今みたいな時期、食中毒が怖いじゃない?」

「確かにそうですね……」

「だから、サンドイッチなんかの傷みやすい食材で作ったようなものは、作ってすぐに食べないといけないわよね?それだと、お弁当のレパートリーが減ってしまうのよね。致し方ないことだけれど。」

「た、確かに……」


 俺はサンドイッチは作ったらすぐに食べてしまうからお弁当にしたことがない。けれど、お弁当にするなら……確かに、夏場は危険だ。特に、ちょうど今みたいな梅雨時期は危険度が更に増している。


(ちょうど最近家庭科の授業で食中毒について習ったなぁ……)


 こういう記憶ならいくらでも出てくるのに、俺の人格の主軸となっている記憶は全くもって思い出せそうにない。実は、苛立ちが募りつつある。それを悟られたのか、千堂さんは皿を拭く手を止めて、俺の方を振り返る。


「悠祐くん、後はいいわ。先に部屋に戻って休んでいて頂戴。」

「…………では。すみません……」


 しかし、このまま部屋に戻るのも癪な気がして、俺が向かった先は書庫だった。

 書庫の中は思っていたよりも広く、天井まである巨大な棚にびっしりと本が詰まっている。それがいくつもいくつも列をなしているのだ。


「図書館みたいだ。」


 でも、どうやって上の方の本を取るんだろう。梯子も踏み台も何もないのに。

 俺が疑問に思っていると、本が数冊、俺の近くのテーブルまで降りてきた。


「なるほど?!」


 こうやって本から降りてきてくれるのなら、高い梯子に登って危険なことになることもない。なんて安全なんだろう。俺が納得しながらテーブルに近付く。よく見ると、降りてきた本は、本ではなく雑誌だった。


(うわっ、懐かしい……)


 俺が小学生の頃読んでいた漫画雑誌だ。好きな漫画の連載が終わる小学5年生までの間、欠かせず買って読んでいた。隣には、それの単行本化されたものも置かれている。


(へぇ……浅葱さんもこれ、読んでたのかな。)


 ロボット犬のカードゲーム漫画だけれど、確かクラスの女子たちの一部も読んでいたはずだ。だから浅葱さんが読んでいても全く不自然ではない。それに、浅葱さんが読んでいたとも限らない。同居人のルリさんやザクロさんが読んでいてここに所蔵されているという可能性だってあるのだ。

 つい懐かしくなって、雑誌のページを捲る。すると、ひらり、と挟まれていた紙が落ちてきた。


『浅葱!がんばれよ!元気になったら一緒に展示会行こうな!』


 差出人も書かれていない、簡素なメッセージの手紙。


(これ、浅葱さん宛て……)


 ふと、思い出した。


『私、現世にいた頃はあまり甘いものは食べていなかったのだけれど、こちらに来てからはついつい甘いものを食べてしまうのよね。』


 昨日の夜、お茶会をしたときに確か浅葱さんはこう言っていた。そして、この手紙と、浅葱さんの包帯……


(もしかして……)


 浅葱さんは病気か何かで亡くなって、幻想世界に来た?それで、白羽軍に命、もしくは魂を狙われている?もともと甘いものが好きだったけれど病気か何かで甘いものを制限されていたりしたのだとしたら、その制約が解けた幻想世界でついつい食べてしまうというのも納得がいく。それに、浅葱さんの身長。


(うちのクラスの女子の最低身長より低い気がするんだよな……)


 140cmあるだろうか。……いや、ない気がする。うちのクラスの女子の最低身長は143cmだったはずだ。本人がそう言っていた記憶がある。でも、浅葱さんはそれよりも低く見える。


(ということは……)


 きっと体も弱いはずだ。俺が還る日まで、少しでも役に立たねば。


(こうしている暇はないぞ……)


 俺は手紙が挟まれていたページに手紙を挟み直すと、書庫から出る。しかし、そこである問題に気が付いた。きっと浅葱さんにあの手紙を読んだことは言ってはいけない。現世での友人との大切であろう思い出に、俺が割り込むわけにはいかない。それに病気等の関係は、とてもプライバシーに関わるセンシティブな話題だ。浅葱さん本人に、俺の推測を悟られてはいけない気がする。


(どうやって、役に立とう……)


 やっぱり定番は、俺がなるべく家事をこなすことだ。幻想世界での体を少しでも大切にしてほしい。

 俺が悶々と考えていると、そこに浅葱さんが向かってきた。


「あら、悠祐くん、読書でもしていたの?」


 浅葱さんにとっては何気ない質問だろう。しかし、俺にとっては、手紙を読んだのか問われているような、そんな気がしてしまった。


「あ、え、えと……はい、ちょっと漫画を……」

「うちにある漫画といえば……あぁ、あのロボット犬のカードゲームの漫画ね!」

「は、はい。それです。」


 声が勝手に震えてしまう。浅葱さんは一瞬不思議そうな顔をして、それから普通の微笑みに戻った。


「うちの書庫にある本は、私とルリとザクロのコレクションみたいな感じのものなの。きっと気に入ってくれる本は沢山あるわ。」


 見透かされているような気がした。でも、浅葱さんは何も言わない。どうしたらいいのだろう。このまま月並みな返事を返すのが定石か?


「あ……えっと……その、体調は大丈夫ですか?」


 何やってんだ俺!この流れでの定石の返事とは程遠いような返事を返してしまったではないか。浅葱さんはクスクスと笑うと、優しい表情に変わった。


「雑誌に挟まれていた手紙を読んだのね。」

「はい……一通だけですけど……」

「あら、一通だけで私の体調を案ずることができたのね。やっぱり、悠祐くんは悠祐くんね。

 そうよ、私は病のまま、現世を去った。……でもね。」


 浅葱さんの表情が、懐かしいものを見るようなものに柔らかく変化する。


「それは、大切な存在を守るために、自分で選んだことなの。」

「大切な……存在……」


 胸がまた、チクリと痛む。俺の方を向いてほしいわけじゃないけれど。でも、何でだろう。寂しさと満足感が胸の中で混ざりあっている。浅葱さんが生涯寂しくなかったのなら、それでいい。そう自分を納得させるしかなかった。

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