第33話 生命の口づけ
教会はやがて成層圏を抜けて、宇宙空間に飛び出た。潮島は、海坊主のまま助走をつけて教会を何億キロも先にある太陽にめがけて投げ飛ばした。
真菜子は教会の壁に身を任せて、目を閉じた。既に息ができず、何回も窒息死している。そして寒い。これからの太陽までの旅路、彼女は延々と死に続けるのだろう。無神論者の真菜子であったが、この過程こそが地獄なのだと勝手に感じた。
昔、八百の会のアジトに捨てられていた宗教本で読んだ話。地獄にも終わりが来る。人は地獄での刑期を終えれば、転生の日が与えられると。真菜子はこの寒い宇宙での地獄を抜け、陽の光に触れる日こそが救いの時だと思った。ならば、喜んでこの地獄を引き受けよう。その先に、あの子と、和泉が待っているのならば。
その時、真菜子はハッとした。脳に鮮明に浮かび上がったのだ、忘れてしまったあの子の名前が。
『あの子も、ナギサって名前だったっけ。だから、私は』
その声は、真空によって搔き消された。真菜子は、漸く愛しい初恋相手を思い出せた。ナギサとナギサ。あのお出かけの日、ナギサを庇って助けた理由は、彼女が彼と……。
いや、やめよう。終わったことなど、考えるだけ無駄だ。今は、疲れた。地獄と共にひと眠りつこうじゃないか。
真菜子はそう思うと、また意識を手放した。
※
「マスター! ナギサちゃん! あぁ、どうしよう」
茉莉は小瓶を抱えて、おろおろした。両方とも重傷である。鴨に関しては、既に冷たくなってきている。しかし、ナギサも急所の心臓付近を撃たれている。アッカとお糸も、どちらかにしろとは言えなかった。そんな残酷な命令など下せなかった。そのとき、彼女の腕を誰かが掴んだ。見れば、ナギサが身を引き摺って茉莉を見つめていた。
「いい。カモさんに、ノマセテ」
「でも、ナギサちゃんは!?」
「ワタシ、もういい。シンイチに、アイタイ。ソレ、だけだから……」
ナギサは必死に首を振って、懇願した。その様子に、茉莉はぎゅっと目を閉じて頷いた。これがナギサの本望だ。一刻を争うこのときなら、彼女の言葉に甘えるしか……。
茉莉は、伏している鴨と向き直った。彼は既に意識をなくしており、薬など飲める状態ではない。茉莉は覚悟を決めて、小瓶を開けた。そして、次の瞬間にはそれを一気に扇いだ。
「ちょ、ちょっと茉莉姉ちゃん?何してん__」
「っし、黙って見ときな」
茉莉の奇行に驚いたアッカだったが、お糸はその口を手でふさいだ。そして、神妙な面持ちで、茉莉の次の行動を見守った。
茉莉は口いっぱいに液体を含むと、次には鴨の唇へと自身のそれを重ねた。茉莉の柔い二枚の花弁が命の液を彼に注ぎ込む。彼女は残りの薬液を含むと、再び鴨に口移しを行った。彼女の薄紫の髪がゆらりと垂れ込む。月明りに照らされた今の茉莉は、少女と思えない程の艶めかしさであった。
羞恥も、迷いもない。茉莉は口移しを終えると、鴨の胸元に縋ってひたすら祈った。目を開けてくれと。もう一度、声を聞かせて。貴方と、もう一度あのダンスフロアで躍らせてと。
「苦しいよ、茉莉ちゃん」
その声が聞こえた瞬間、茉莉は顔を上げた。そこにはうっすらと瞳を開けて優しく彼女を見つめる鴨がいた。腹部を見れば、出血は既に止まっていて、沁みた血が主の体内へと戻っていた。不完全な不老不死化が成功したのだ。茉莉は嬉しくなって、鴨の首に抱き着いた。
「マスター! マスターァァァ!」
「ちょ、だから苦しいって!」
鴨はそう言うと、大泣きする茉莉は引き剥がした。彼女はそれでも泣き続けた。
「ずっと、ずっと心配してたんですからね!」
「さっきも言っただろ?僕はここにいるってね」
「今度無茶したら、お店の皿全部割ってやりますからね!?」
「それは本当に勘弁してくれ」
鴨はふっと笑うと、親指で茉莉の目尻を拭った。アッカとお糸は、安堵の溜息をついた。お糸に限ってはアッカを小突いて、「な?ほっといてよかっただろ?」と小声で呟いていた。そのときだった。
「嬢ちゃん! 嬢ちゃん、大丈夫か!?」
和泉の険しい声がして、一同は振り向いた。すると、そこには和泉に抱かれ目を閉じるナギサがいた。
「ナギサちゃん!」
茉莉は彼女の手を握った。すると、それはか弱く握り返された。次には、ナギサは口だけを動かして、言葉を紡いだ。
「シンイチ、アイタイ、アイタイヨォ」
ナギサの願いに、茉莉は鴨と顔を見合わせて頷いた。そして、鴨は胸元からカラス天狗の札を取り出したのだった。
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