第34話 人魚姫はおとぎ話のまま
「新田さん、頑張ってくださいね」
阿弥陀市病院の一室。骸田はベッドの縁から、大量のチューブに繋がれて横たわる新田に呼びかけた。新田はそれに反応して、僅かに目を開けた。
「あぁ……。あの子に、会うまでは、まだ駄目だね……。骸田さん」
「はい?」
「窓を、開けてくれないか? 今日は晴れていて月が綺麗だから」
新田の要望に、骸田は了承すると病室の窓を開けた。夜風が部屋に入り込んで、心地よい。新田は満足そうに微笑むと、はるか遠くの照りつける月を見上げた。
「ナギサと、出会った日も丁度月が綺麗な夜だった。親も亡くして、名前もなかった彼女に、私が『ナギサ』と名付けたんだ。ナギサは、終戦末期、殺し合いで疲れた私の心の拠り所だったよ……。私に甲斐性があれば、もっと早く迎えにいってあげたかった……。骸田さん、私の骨は海に流してほしいです……。海は彼女の故郷だから」
「そんな、“最期”みたいなこと言わないで下さい」
骸田は悲痛に呟いた。しかし、新田は顔色を変えずに、骸田の台詞を肯定した。彼自身、分かっているのだ。今宵、自身の命が燃え尽きることを。
「おーい!」
そのとき、骸田の耳にははっきりと茉莉の声が聞こえた。急いで窓の外を覗くと、月を背にしてカラス天狗に乗った茉莉達がこちらに向かっていた。骸田は顔を輝かせて、手を振り返すと新田を見つめた。
「新田さん! ナギサちゃん、来たよ! 皆、無事に帰ってこれたんだ!」
嬉々とする骸田だったが、新田は微かに口元に笑みを浮かべるしか力が残っていなかった。少しすると、窓から茉莉達が滑り込んできた。カラス天狗は今回だけは何も要求せず、静かに飛び去って行った。骸田達は再会を喜んだが、鴨はナギサをそっと抱きかかえて新田の隣に歩み寄った。
「遅くなって、申し訳ありません……。すみません、僕達が油断したばかりにナギサちゃんは__」
「ダイジョブ……。ダイジョブ、だから……。早く……。」
ナギサは力を振り絞って呟いた。鴨は悔しそうに唇を噛んで、新田の隣にナギサを寝かせた。白いシーツが、モノノケの血で染まっていく。
鴨は部下や和泉に頷くと、全員を伴って廊下に出た。病室には、ナギサと新田だけが残された。新田はゆっくりと振り向いて、ナギサを愛おしく見つめた。
「また会えたね、ナギサ」
「ただいま、シンイチ……。ドウシヨ、話したいコト、タクサンあるのにすっごくネムイの……。」
ナギサはあどけない笑みを浮かべて、欠伸をした。すると新田は彼女を抱き寄せた。
「いいんだ。今はゆっくりおやすみ。眠ったって、また夢の中で会えるんだ」
「ユメのなか?ユメなら、ずっとイッショだし、ケッコンシキもチャントできるね……」
「そうだよ。夢の中なら戦争もないし、悪い奴もいないんだ。もう、誰にも私達を
引き裂けないよ……」
「フフ……。ねえ、シンイチ」
「なん、だぃ?」
新田はもう声が出せなくなっていた。しゃがれて、視界も白くなる。それはナギサも同じだった。彼女の胸の風穴は、命を溶かしているのだ。最後に、ナギサはゆっくりと身を乗り出して新田の唇に近づいた。接吻である。あのとき果たせなかった契りをいまここで。しかし、新田はもう冷たくなっていた。鼓動も脈もない。
「名前、付けてくれて、アリガト。ズット、ダイスキだからね……」
ナギサは最大限の愛を込めて、囁いた。それが夫に届かないと分かっていても。彼女はふっと夫の死に顔に微笑んだ。そのとき、彼女の肉体はへたりと糸が切れたように倒れ込んだ。時が来たのだ。そのまま、ナギサは碧色の光に包まれて蒸発するように肉体が崩れていった。崩れた肉体は光となり、それが泡玉になった。泡は開かれた窓から、次々と泳ぎ出ていった。
茉莉達は様子を見に、病室に入った。そこで息絶えた新田の姿とまろびでる無数の泡を発見した。茉莉は踏み出して、泡が飛び出る窓まで駆け寄った。泡は次々に天へと上り、空に帰っていく。
まるで人魚姫の顛末のようだ。茉莉はその神秘さに、膝から崩れ落ちた。そして、喪失と浮世の残酷さに打ちひしがれた。彼女はそのまま年甲斐もなく、声を上げて泣き始めた。その背を、鴨はそっと歩み寄って柔く抱いた。
そうして、全員が何も言えず、動けなかった。ただ、静かな病室には少女の咽び泣きがこだましていただけだった。
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