第9話 記憶喪失の又三郎
「包帯を巻いて、よしと。」
茉莉は子猫の体に軟膏を付け、包帯を巻いてやった。手当ては終わったが、意識は未だに戻ってない。ただスタッフルームのソファで寝息をたてている。時計を見れば時刻は12時前である。そろそろ店じまいのときだ。
「子猫君の調子はどうだい?」
ドアが開き、鴨がマントを翻して入ってきた。茉莉は首を振った。
「ダメです、目を覚ましていません。頭でも強く打ったのですかね。」
「どれ。」
鴨はソファに座ると、子猫に手を触れた。
「呼吸もしているし、心拍もちゃんとしている。もうすぐ起きるだろう。ところで、“茉莉ちゃん“。」
茉莉が顔を上げると、鴨は仮面もシルクハットも脱いでいた。今の彼は眼鏡がない昼間の顔である。改まったような口調に、茉莉は恐縮した。
「どうしましたか?」
「君、最近噂になってる化け猫事件について、何か気になっていることでもある?」
「えぇ!?それは…。」
疑念の眼差しに、茉莉は俯いた。鴨は薄々勘付いていたのだ。茉莉が化け猫事件にただならぬ思いを持っていると。鴨は一心に茉莉を見つめた。
「隠していることがあるなら教えてほしい。僕はモノノケ界隈には精通しているし、何か助けになれるかもしれない。それに、君を“独り”で悩ませたくない。」
穢れのない眼に、茉莉は観念した。自身の事情を知っている鴨になら伝えてもいいはずだ。彼女は決心したように口を開いた。
「実は、両親が事故死したとお伝えしたでしょう?」
「うん。」
「両親は崖沿いを車で走っている途中、何らかの理由で転落して亡くなったんです。けど、唐傘小僧さん達の噂だと、例の化け猫の仕業かもしれないんです。」
「なるほどね。確かに、モノノケは一時的に生前の姿や人間に化けることで常人にも視認ができる。その手を使って、君のご両親を惑わしたのかもしれない。」
鴨の推論に、茉莉は頷いた。
「私、真実を突き止めたいんです。モノノケが両親を殺めたのかどうか。じゃないと、これから先またモノノケを憎み続ける人生を送ってしまう。」
茉莉はスタッフルームのガラスドアから、店内の後片付けをする同僚達を見つめた。グラスを回収するお糸の傍らでは、アッカが右へ左へ箒を躍らせている。骸田は明日の開店のために仕込みを行っている。
「モノノケを認めて、対話することでやっと私は居場所を手に入れました。やっと独りぼっちをやめることができたのです。だから、私はモノノケを信じ続けたい。信じるために、化け猫事件を解決したいんです。」
茉莉の訴えに、鴨は目をぱちくりさせた。そして次の瞬間には、頬を緩ませた。
「な、何かおかしいですか!?」
かっと赤くなった茉莉に、鴨はひらひらと手を振った。
「いやいや、意外だったんだ。茉莉ちゃんがこんなにもモノノケを愛してくれているなんてね。」
「人が真面目に語っているのに…。」
「ごめん、ごめん。うん、化け猫事件の調査、僕も協力するよ。この子猫君にも聞いてみよう。何かいい情報を持っているかもしれない。せめて、名前さえわかれば__。」
「又三郎。」
その瞬間、二人の間に幼い少年の声が聞こえた。下を向けば、ソファに横たわった猫が目を開けてこちらを見ている。
「ボクの名は又三郎。」
「ね、猫ちゃん!?起きたの?」
茉莉は慌てて、体調を伺うように又三郎を撫でた。又三郎はくすぐったそうにしている。鴨は安堵の溜息をついた。
「又三郎っていうんだね。君に聞きたいことが沢山あるんだけど__。」
ギュゥゥゥ。そのとき、スタッフルームに腹の虫の音が響き渡った。紛れもなく子猫のものである。
「その前にご飯だね。」
力なく笑って言った鴨の言葉に、子猫はぱっと目を輝かせた。
「よく噛んで食べてね。」
キャットフードがなかったため、鴨は骸田に頼んでキッチンにあった味噌汁と米で猫まんまを作ってやった。猫は差しだされたお椀を受け取ると、「いただきます。」と言って食らい始めた。やはり普通の猫ではなく、二足歩行で歩くことができ、前足を手のように使っている。
「キャァァ!かんわいい。」
後片付けを終えて戻ってきたアッカは食事中の又三郎の頭をわしわしと撫でた。
「ねぇ、マスター?この子うちで飼おうよぉ。」
アッカの頼みに、鴨は首を振った。
「ダメだよ、アッカちゃん。又三郎はモノノケだ。ただの猫じゃない。」
そう言われて不貞腐れたアッカをよそに、煙管の煙を吐いたお糸が口を開いた。
「又三郎とやら、一体全体何で傷だらけで倒れてたんだい?」
この場にいる全員が気になっている議題に、又三郎はお椀を置いて返した。
「分からない。」
「え?」
「だから、分からないんだ。ボクの身に何が起こったのか全部思い出せないんだ。」
「記憶喪失という訳だね。」
鴨の言葉に又三郎は頷いた。茉莉はその事実にショックを受けた。記憶喪失なら、化け猫事件について聞き出せないじゃないか。彼女は僅かな希望に縋って、猫に尋ねた。
「又三郎、人間に事故を起こさせる化け猫について何か知らない?」
茉莉の問いに、刹那に又三郎は眉を動かした気がした。しかし、すぐに首を横に振った。
「ごめん、分からないや。」
「そう、か。」
期待外れの返答に、茉莉は肩を落とした。鴨はそれを一瞥して、又三郎を見つめた。
「又三郎、君、家や家族のことは覚えてないの?」
その言葉に、又三郎は俯いた。どうやら本当に覚えてないか、答えられない事情があるのだろう。そんな彼の様子に、鴨はぴしゃりと膝を叩いた。
「よし、じゃあうちに暫くいなよ。」
「…いいんですか?」
又三郎はぱっと顔を上げた。
「いいとも、うちの店はモノノケ達の居場所だ。君は怪我もひどいし、療養が必要だ。それに、ここにいるうちに記憶も戻るかもしれないしね。」
「あ、ありがとうございます。」
又三郎は顔を輝かせて、その小さい手で鴨の手を握った。一方で、鴨は茉莉に目配せしていた。きっと良心に加えて、又三郎に記憶が戻って化け猫事件の解決するこ
とを思っての決断だったのだろう。茉莉は上司の配慮に笑みを零した。
鴨の決定に、アッカが飛び跳ねた。
「やったぁぁ!子猫ちゃんがうちに来る。」
嬉しそうなアッカを見て、骸田もパンと手を叩いた。
「よし、キャットフードのレシピ探さないと!」
「子猫ちゃんにお似合いの衣装、作っちゃおうかな。」
お糸は糸を練りながら、微笑んだ。取り敢えずはモノノケダンスフロアのメンバーに気に入られた又三郎は全員に深くお辞儀した。
「よろしくお願いします。」
茉莉はその小さな背中を見て、手を差し伸べた。
「行こう、又三郎。店の中、案内してあげる。」
その手を見て、又三郎は少し躊躇いながらきゅっと握った。そして茉莉は同僚と一匹の猫とともにスタッフルームを後にした。残った鴨は一人、顎に手を当てたのだった。
「“又三郎”、どこかで聞いたことがあるような__。」
又三郎は、内向的な性格であった。それが分かったのは、常に浮かぶ彼の暗澹たる表情である。茉莉がモノノケダンスフロアの案内中も、彼はどこか心此処にあらずといった様子だった。そう、丁度茉莉が両親や茶々丸を失った後のように何かに怯え、逃げているような顔だった。
茉莉はそんな又三郎を見ておけず、粗方店の案内が終わると彼の柔い両手を握った。
「ねえ、又三郎、私の部屋で一緒に暮らそうよ。」
その言葉に、彼は驚いたように目を開けた。茉莉は微笑んだ。
「私ね、このビルの三階に住んでいるんだ。店にはお客さんが来るから、又三郎はくつろげないだろうし。大丈夫、ちゃんと寝床もご飯も用意してあげるよ?」
茉莉は又三郎に居場所を作ってやりたかった。帰る場所がない彼に、丁度鴨がそうしてくれたように、家を作ってやりたかったのだ。又三郎の方は、ほんの少し照れ笑いをして俯いた。そこで煙管を吹かしたお糸が茉莉の肩に手を回した。
「いいんじゃない?又三郎。この子、ドジだけど優しい子だよ。」
お糸の言葉に、骸田もアッカも頷いた。その時、又三郎は意を決して、首を縦に振った。その途端、茉莉と又三郎の間に鴨がぬっと現れた。
「言い忘れてたよ、又三郎。ここにはただで住まわせる訳にはいかないからね。」
「えぇ!?マスター?」
上司の出現に、茉莉は素っ頓狂な声を上げた。鴨は人差し指を上に向けた。
「働かざる者は食うべからず、だよ。君には茉莉ちゃんのアシスタントでもしてもらうね。」
鴨の宣言に、又三郎は肩を落として「はい。」と力なく答えた。
翌日から、又三郎はモノノケダンスフロアの新入りスタッフとなった。業務内容は、茉莉と一緒に掃除をしたり、グラス拭きをする程度だ。傷の回復と相談しながら、茉莉は彼に業務を任せていった。彼女が着飾った自室も、その一角には猫用マットやオモチャなどが置かれるようになった。独りぼっちの学校が終われば、帰宅し課題を済ませて、モノノケダンスフロアで働き、退勤した後はテレビやSNSを見たり、又三郎と遊んだりする日が増えた。
ここに来たばかりの頃の又三郎はどこか陰鬱な雰囲気を纏っていたが、茉莉やモノノケダンスフロアの面子と過ごすにつれて笑みを取り戻していった。段々と傷も治り、子猫らしく溌剌となっていく又三郎を見るのは茉莉にとって生きがいの一つになった。今日だって、閉店後のいまアッカとお喋りしながら一緒に掃き掃除をしている。その様子を茉莉はカウンターから見つめていた。
「又三郎はうまくやってるかね?」
カウンターに凭れ、ワインを片手で揺らす夜の鴨が聞いてきた。茉莉は頷いた。
「はい、前は全然笑わなかったんですけど、最近は明るくなりました。」
「…化け猫事件の話や、記憶の話は聞かなかったかい?」
「それは、まだ…。」
茉莉は俯いた。又三郎の性格が変わったにしろ、未だに彼の口から彼自身の情報や化け猫事件について聞いたことがない。鴨はふむと唸ってワインを置いた。
「これは時間が必要だな。ワタシも色々聞いて回っているが、特に有益な話は出てきてない。心当たりが少しあるくらいだ。」
「心当たり?」
茉莉は首を傾げた。
「いや、又三郎という名に聞き覚えがあるだけでな。あまり確証がない、気にするな。それより__。」
鴨は茉莉を見つめた。
「お糸さんから聞いたぞ?ステージでワタシと踊りたいんだってな?」
「な、それは話が飛躍していて!_」
「ワタシは一向に構わんぞ?ミス・マリ。お披露目はそうだな、二週間後ぐらいでどうだ?なんなら今からでも練習してみるか?」
「だから、私は別に!」
その瞬間、茉莉は鴨に右手を取られた。そしてそのままクルクルとカウンターの周りで回転させられ、あっという間に彼の腕の中に入った。突然の至近距離に、ぱっと顔が赤くなる。しかし次の瞬間には右手だけを握ったまま、伸ばされてポーズを取らされた。
突如始まったダンスに、従業員たちはどよめいた。
「始まったねぇ、マスターの十八番が。」
「茉莉姉ちゃん、足踏まないようにね!」
「お上手だよ!マスターさん、茉莉ちゃん。」
ひゅうひゅうと歓声を送る三人組に対し、又三郎は呆けた顔で二人を見つめていた。一方で、茉莉は鴨の動きについていくだけで手一杯だった。
「うわぁぁ!速いです、マスター!」
「アン、ドゥ、トロワ。ミス・マリ、ステップが大事だ。蝶になったつもりで、軽やかに。」
「わ、分かりましたよ!」
茉莉は言われた通りでもつれていた足の動きを軽くして、鴨について回った。そうすると段々、彼の動きが掴めてきた。茉莉は多少もたつきながらも、彼の一挙手一投足に追いつけるようになった。
「上手だ、ミス・マリ。」
段々と上達していく、茉莉を見て外野が更に声を上げ始めた。又三郎はそんな店内を見回してうっすらと微笑んだ。
「茉莉とマスターのダンス、すっごく良かった。」
三階の部屋に戻ったあと、又三郎は興奮気味に茉莉に伝えた。彼女の方は、従業員から部屋着に着替えながら照れ笑いした。
「いやいや、マスターがほとんどリードしてくれていたからだよ?第一、急にダンスなんかさせられて恥ずかしかったなぁ。」
「ううん、最高だったよ。ボク、あんな温かくて、賑やかな空間初めてだよ。人間とモノノケが笑い合うなんて。“あいつ”にも見せてやりたいな。」
「え?あいつって?」
途端に又三郎の口から出てきた第三者の存在に、茉莉はすぐに引っかかった、しかし、次の瞬間には又三郎は焦ったように首を振った。
「なんでもないや。アハハ、誰のこと言ってるんだろう。まぁ、いいや。今日はもう寝よう、茉莉。」
慌てる又三郎に、茉莉は取り敢えず頷いた。二人は電気を消した後、それぞれの寝床に入った。茉莉はマットの上で寝息を立てる又三郎を見つめた。
もしかしたら又三郎の記憶は徐々に戻ってきているのかもしれない。いや戻ってくる以前に、そもそも記憶はちゃんとあって何等かの理由で隠しているだけかもしれない。彼女は明日、又三郎に再び記憶について聞き直そうと決心したのだった。
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