第8話 傷だらけの継ぎ接ぎ猫


「いつにもまして、浮かない顔してるねぇ。」


 モノノケダンスフロアでの夜、茉莉はぼうっとしてグラスを拭いていた。今日の客は少なく、店内ではゆったりとしたクラシカルが流れているだけである。一心にグラスに目を向けていた茉莉だが、いつの間にか真上から垂れ下がっていたお糸にそれを阻まれた。


「お糸さん!」


「ごきげんよう、茉莉。」


 お糸はそのまま床に着地した。そしてカウンター席について頬杖をついた。


「一体どうしたのさ、まさかまだモノノケにビビッてるのかい?」


「そ、それは違います。」


「じゃあ、どうして?」


 お糸に上目遣いで見られ、茉莉は押し黙った。彼女の心に巣食うものは“化け猫”一つである。両親を殺したかもしれない存在を野放しにしているかもしれない。そう思うと、彼女は居ても立っても居られなくなるのだ。しかし、彼女の深い事情を会って間もないお糸に話すのは気が引けた。


 茉莉は無理やり口角を上げ、即興の言い訳を述べた。


「い、いや接客だけじゃ物足りないなって思ってただけですよ。ほら、もっとアクティブなことがしたいなぁって。へへ。」


「ふうん、アクティブねぇ。」


 お糸は目線を上にして考えこんだ。そこでアンテナが張ったように、体をピンとして指を鳴らした。


「そうだ!お前さんも踊ったらどうだい?」


「へ、私がダンス!?」


「そうさ!」


 お糸はカウンターに身を乗り出し、茉莉を八本の手足で体を掴んだ。


「そりゃ、ステージの華はアタシで十分だけど、もっと花束みたいにバラエティが欲しかったのよ!アンタ、面は良いんだし、芸を磨けばきっと一流のパフォーマーになれるわよ?」


「そ、そんな私、小学校のお遊戯会だってマトモに成功したことないのに。」


 茉莉は自分がクラブのステージに立つなど考えたこともなかった。運動神経は悪い方ではないが、器用なことは苦手だった。ましてや人から隠れて生きてきた人生なのに、大衆の面前で自身をさらけ出すなど発狂してしまうかもしれない。


 茉莉の返答に、お糸は眉をしかめた。


「自信持ちなって!そうだ、誰かと一緒に踊るのはどうさ?たとえば、マスターとか?」


「マスターと!?」


 茉莉はぎょっとして、ステージ端で常連客と談笑する鴨を見つめた。


「マスターにとってダンスは専売特許だよ。」

 お糸の言葉に茉莉は頷いた。初めて出会ってダンスをした夜、彼の動きには無駄がなかった。俊敏で、美麗で、師範代と言われても信じるくらいである。彼なら茉莉をエスコートし、きっと最高のショーを作り上げることができるだろう。しかし、彼女は自身の不器用さを除いても、あの端正な顔を前にしてダンスに集中できるのか分からなかった。


しかし、変化を望む茉莉は心のどこかでチャレンジを待ちわびていた。多くの人々に見守られながら、ダンスをするのは彼女の引っ込み思案の心を破り、独りぼっちから遠ざかる良い切り札とも感じていたのだ。そうこう葛藤もあり、茉莉はお糸の提案に即答できず、ついにお糸は痺れを切らした。


「もう、じれったい子だねぇ。マスターにはアタシが話をつけといてあげる。」


「え、ちょ、まだ決めたわけじゃ__。」


「大変だぁ!」


 二人の問答の最中、骸田の声がフロアに響き渡った。鴨はすぐにエントランスに立つ彼の元に駆け寄った。


「どうした!?」


「子猫が、ボロボロで店の前に倒れていたんだよ!」


 骸田がそう言い放つと、その後ろから猫を抱えたアッカが走り込んできた。ざわつく客の合間を、茉莉とお糸も駆け付けた。アッカの手元を見てると、そこには血まみれの三毛猫がか細い息をしていた。更によく見てみると、子猫には無数の継ぎ接ぎの傷があった。一瞬、茉莉の頭には化け猫がよぎったが、あれとは体格や傷跡に大きな違いがある。


 鴨は子猫にそっと触れた。


「この子は、うん、モノノケだな。」


「え、モノノケ?」


 茉莉は首を傾げた。子猫は無残な傷跡を除けば、生者にしか見えない。鴨は続けた。


「生きているものとは“気”が違うんだよ、ミス・マリ。この子はモノノケの気を纏っている。とはいえ…。」


 鴨は子猫を受け取り、安心させるようにあやした。


「モノノケにも死があり、痛覚もある。この子には手当てが必要だ。」


 茉莉は子猫を見つめた。継ぎ接ぎの上につけられたであろう生々しい傷跡は見るに耐えない。何かで引き裂かれたような傷から察するに、他の動物かモノノケに襲われたのだろう。茶々丸を飼っていて、生き物が好きだった茉莉は気づけば手を挙げていた。


「あの、私、やります、手当て。」


「本当かい?ミス・マリ。」


「はい、動物は好きですし。」


 それに、その子猫に聞きたいことがある。とは言えなかった。子猫の風貌は明らかに夕方の化け猫に似ていたからである。もしや同一人物やもしれない。そう茉莉は疑わざるをえなかった。たとえそうじゃなくとも、何か例の化け猫についての情報を聞き出せるかもしれない。

 茉莉の眼差しに、鴨は頷いた。


「分かった。この子は君に任せるよ。救急箱があるスタッフルームを使うといい。」


「はい。」


 茉莉は鴨から子猫を渡された。微かに猫が鳴いた。茉莉は「もう大丈夫。」と背を撫でてやった。対して、彼女は化け猫事件にずっと乱心していたのだった。

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