化け猫事件

第7話 新生活と闇


「ダメだダメだ、ミス・マリ!カクテルの混ぜ方はこう!」


「は、はい!」


 ここのところ、茉莉は慌ただしい日々が続いた。先ず自宅のアパートを引き払い、鴨が所有するビルの三階に引っ越した。幸い、インフラは整っており広々とした部屋だった。引っ越し後は、昼は高校に通学しながら、夜はダンスクラブのスタッフとしての修行が始まった。


 茉莉はドジなところがあり、店の皿を五枚割り、掃除ではバケツを零して床を水浸しにすることもあった。おまけにモノノケの客からの注文を間違え、こっぴどくクレームを入れられることもあった。それでも茉莉はめげずに手を動かした。今日だって、彼女は紳士服を着こなす夜の鴨からカクテルの作り方を教わっている。


「え、ええとこうですか?」


「そうだ、そうだ、上出来じゃないか!ミス・マリ。」


 鴨は意外にも教え上手であり、茉莉は日々スタッフとして成長している。しかし彼女にとって、夜の鴨はどこか慣れなかった。やはり夜店の店長ということもあり、胡散臭さは昼の彼より倍増しているからだ。


「鴨さんって、二重人格なんですか?」


 オレンジ風味のカラフルなカクテルをグラスに移しながら、茉莉はふと聞いた。彼の人格の変貌は、茉莉にとって不可解の一つである。一体、どういう原理で好青年から変人紳士に変わるのか。


 鴨は顎に手を当てて、沈黙した。カクテルを注ぎ終わった茉莉は、その水面を見つめドギマギと返答を待った。


「そうとも取れるし、一種の反動とも謂える。」


「はぁ?」


 その途端、鴨は茉莉の唇に指を当てた。


「まぁ、そう急ぐな。その内、教えてやろう。」


 鴨の真意が不明な返事に、茉莉は首を傾げた。しかし彼女にはその仮面の奥の瞳が刹那に尖って見えた。彼はそのまま茉莉が入れたカクテルのグラスを手に取り、微かに揺らめかせると口をつけた。


「うん!美味だよ、ミス・マリ。君が味見できないのが残念だ。」


「話を逸らしてないですか?鴨さん__。」


「おっと、ミス・マリ。ワタシは上司なのだからマスターと呼びたまえ。」


「…仰せのままに、マスター。」


 茉莉は小さく舌打ちをすると、シェイカーやマドラーを片付け始めた。鴨が真っ向に否定も肯定もしなかったことから、彼の人格形成は何か訳ありなのだろう。茉莉は今のところはこの問題に首を突っ込むのはよすことにした。


 その時、鴨が腕時計を見つめた。


「おや、もうこんな時間だ。ミス・マリ、開店にしよう。」


 茉莉は返事をすると、モノノケダンスフロアの看板を「open」へと裏返した。


「おーい、茉莉ちゃん!クラブサンドイッチが出来上がったよ、持って行って!」


「はい、只今!」


 茉莉はカウンターの客に酒を配り終えると、すぐさま骸田の料理を取りに行った。モノノケダンスフロアは日本中のモノノケ達の穴場となっているらしく、繁忙期は客が大勢いる。茉莉は給仕として、店内をあちらこちらと駆け回っていた。客は十人十色であり、金色の大蛇やがしゃどくろが頭だけで訪れることもあった。


 普通の居酒屋でも辛いのに、人外相手の接客業は茉莉に堪えた。しかし、彼女にとってこの忙しなさがどこか心地良かった。独りを忘れられるからだ。相変わらず学校では独りぼっちだが、モノノケダンスフロアにいる間は従業員や客達が絡んでくれるおかげで人付き合いがより増えた。配膳際にお礼を言ってくれるモノノケもいて、茉莉にはそんな温かさがよく沁みた。


 漸く仕事がひと段落してきた頃、茉莉はカウンターに突っ伏した。もうへとへとである。こういうとき、彼女は騒がしい店内を観察するのが趣味である。


 モノノケダンスフロアはマンネリ解消のために、週ごとに店内の雰囲気を変えている。茉莉が初めて来店したときはパブ風だったが、今週は舞踏会風である。ドレスコードに着飾ったモノノケが店内を闊歩している。


 ステージではお糸が真っ黒なスパンコールのドレスを着こなして、80年代ソングを歌唱している。店内の隅では、アッカが“小豆あらい”が落とした小豆を掃き集めていた。後ろのキッチンでは骸田の愉快な鼻歌が耳に届いた。


「順調かい?ミス・マリ。」


 ふと横から鴨の声がし、茉莉は振り向いた。彼はぶどうジュースが入ったグラスを彼女に差し出している。


「疲れたろう、飲むといい。」


「いただきます、マスター。」


 店長からグラスを受け取り、それを一飲みする。酸味とフルーティな匂いが喉につく。


「美味しい。」


「よく働いているからな。大したもんだ。」


「いえ、私、この仕事が好きですから。」


 茉莉はそう言うと店内を見回した。


「不思議ですね。あんなにモノノケが憎かったのに、今じゃどうでもいいって感じる。」


 モノノケのせいで狂人扱いされてきた彼女だったが、今ではモノノケ達の存在が居場所になりつつある。茉莉は自分の気変わりの早さにどこか呆れつつも、それを享受していた。


 鴨は茉莉を一瞥すると、口を開いた。


「不思議じゃないよ。君は一人じゃない、自分らしくいられる場所を見つけただけじゃないかね?」 


 そう返した鴨に、茉莉はハッとすると微かに笑みをこぼした。


「そうです__。」


「おい、聞いたか?あの化け猫の話。」


 その時、カウンターに座る唐傘小僧の声が聞こえた。唐傘小僧はどうやら隣に座る一つ目小僧に話しかけているようだった。  


「あぁ、あの事故を起こすって噂の。確か傷だらけで巨大な猫なんだってな。」


「そうそう。また出たらしいぜ。国道で四人家族の人間を事故らせたって。」


「またかよ、昔からだよな?確か崖っぷちで人間の夫婦が死んだ事故もそいつがやったらしいぜ?」


 崖、夫婦、事故。茉莉はその瞬間、全身から鳥肌が立った。まるで両親の最期とそっくりだからだ。彼女はカウンターに身を乗り出した。


「あの!」


「ん?なんだ、お嬢ちゃん。」


「その、化け猫が夫婦を殺した話って本当なんですか!?」


「い、いやぁ、俺はただ他人伝いで聞いただけだよ!」


 唐傘小僧は手を振って、茉莉を引き下がらせた。


「そうですか。」


 茉莉は真後ろの壁にまで後退し、俯いた。その様子に、鴨は眉をひそめた。


「ミス・マリ、どうしたのかね?何か心当たりでも?」


 心配をする声音に、茉莉は首を振った。


「いえ、同級生が化け猫の話をしていたから、私も気になっちゃって。」


 空元気を見せる茉莉に、鴨は「そうか。」と食い下がった。本当は、彼女の心は荒れ狂っていた。何せ、両親がモノノケに殺されたかもしれないのだ。もしそれが本当ならば、自分は再びモノノケに心を開けるだろうか。彼らを好きになれるだろうか。


 茉莉は確証がない話に心を乱されまいと、唐傘小僧の小話は封印することにした。それは信じたモノノケに裏切られたくなかったからか、再び独りぼっちになることが恐ろしかったか。


 何かを誤魔化すようにグラスの手入れを始めた茉莉を、鴨一人だけが神妙な面持ちで見つめていた。



※ 



 明くる日、茉莉は帰りのホームルームを終えた。鞄の整理をしながら、クラスメイト達の談笑を小耳に挟む。


「ねぇ、この前の国道の事故、化け猫がやったらしいよ?」


「聞いたわ、生き残った父親が目の前に巨大な猫が飛び出してきたって証言したんだって。」


「嘘!?超怖いんだけどー。」


 案の定、クラスでは化け猫事件の話で持ち切りだった。茉莉も昨夜の一件から、化け猫の話が気になって仕方なかった。両親の事故の真相についてどうしても知りたかったのだ。もしそれにモノノケが関係しているなら、今後の彼女の在り方も変わってしまう。その時だった。


「ねぇ、四辻さん。」


「え、は、はい!」


 突然、担任の宮木の声が聞こえた。慌てて振り向くと、宮木が張り付けたような笑顔でこちらを見つめていた。


「なんですか、先生?」


「いや、四辻さん、いつも一人だから元気にしているかなって。」


「…大丈夫です。」


 茉莉が答えると、宮木は満足そうに頷いた。


「そう、良かったわ。一人は辛いだろうから、何かあったら先生に言ってね。」


「…ありがとうございます。」


 そこまで答えると、宮木はひらりと立ち去って行った。茉莉はその後ろ姿を見つめた。


 宮木京子。新しく転任してきた女教師である。常に眼鏡をかけていて、笑みを絶やさない。物腰柔らかなため、生徒によく好かれやすい。しかし、茉莉は彼女が嫌いだった。独りぼっち故のひねくれか。宮木には「あなたの気持ちよく分かるわ。」というような安い同情が感じられたのだ。茉莉の悩みは、そんな単純な問題ではない。それに、学校で独りぼっちは慣れっこだ。何故なら、狂人扱いをされないために徹底的に人を避けてきたから。


兎に角、茉莉はこの女にだけは自分の心を悟られたくない、それだけは譲れなかった。

 宮木が教室を出たとき、同時にスマホが鳴り出した。


「あれ、電話?」


 ポケットから取り出してみると画面には、「アッカ」と表示されていた。


「はい、もしも__。」


「あ、茉莉姉ちゃん?」


「アッカちゃん?どうしたの?」


「あのね、糸ねーねがコーヒー飲みすぎちゃって泥酔しちゃったの!」


「コーヒーで!?」


「蜘蛛はコーヒーで酔っ払ちゃうの!それでね、水と二日酔いの薬買ってきてくれない?」


 どうやらアッカからおつかいらしい。茉莉は別に断る理由もなかったので二つ返事で了承した。


「分かった。いいよ。」


「ありがとー!今度、美味しい垢の食べ方教えてあげるね!」


「それはいいかな…。」


 茉莉は苦笑すると、通話を切った。少女はその後、学校を後にしてスーパーに行った。そして買い物を終えると、黄昏の空を背にビルに帰宅することにした。


「ええと、水2本に、薬と。これで十分かな。」


 信号待ちの際に、茉莉は買い忘れをチェックした。無事全て揃っていると確認すると、顔を上げた。一息つこうとしたそのとき、目の前の横断歩道に釘付けになった。


「え、猫?」


 そこには大柄で片眼に傷のある継ぎ接ぎだらけの猫が居座り、こちらを凝視していた。信号は赤であり、茉莉は周囲を見回した。すると、右方向からトラックが走り込んできた。まずい、このままでは…。


「ちょっと、猫ちゃん!危ないよ!?」


「ワン!!」


 茉莉が道路に飛び出そうとしたとき、ふと犬の声が聞こえた。この声は間違いない、愛犬の茶々丸のものである。


「茶々丸!?」


 後ろをばっと振り返ったが、そこには誰もいない。気のせいだったかもしれない。そのとき、茉莉は道路を見た。


「あれ、猫ちゃんは?」


 先ほどまでそこにいた猫は跡形もなく消え去っていた。不自然である。トラックはすぐそこまで来ていて逃げる暇などなかったはずである。トラックは既に通り過ぎており、猫が轢かれた形跡もない。茉莉はふと、気付いた。


「もしかして、化け猫?」


 傷だらけで巨大な猫。さっきの猫は唐傘小僧が言っていた特徴そのままである。もしや件の化け猫が茉莉の命を狙って?


 その瞬間、茉莉は背筋が寒くなり、ビルに向かって走り出した。あのまま横断歩道に飛び出していれば、茉莉は吹っ飛ばされていただろう。化け猫は彼女を殺そうとしたのだ。じゃああの犬の鳴き声はどうなるのだろう。


 茉莉は立ち止まって、横断歩道を振り返った。やっぱりそこには生物一つとしてない。


「あの子が、茶々丸が助けてくれたのかな?」


 ありもしない願望を、茉莉は呟いた。

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