命の循環

「グ、グゥウウウゥウ……!」


 オクタリアンとの戦いを経た次の日、ネオは唸っていた。

 傍にはオクタリアンの死骸があるが、此処は山頂ではない。彼女の寝床である、麓に広がる森の中だ。仕留めたオクタリアンを住処まで運んできたのである。

 流石のネオも、自分と同じぐらい大きなオクタリアンの身体を一回で平らげる事は無理だ。しかし食べ残しを放置するのも勿体ないと、言葉はなくとも感覚的に理解する程度にはネオも賢い。そこで死骸を住処まで持ち運び、小腹が空いたら食べるつもりだった。

 ……それでも既に半分以上腹に収まっているのだが。一度に大量に食べておくのは、肉食動物からすれば割と珍しくない行動。次の獲物が何時捕れるか分からないため、食べ溜めしておかねばならないのだ。

 閑話休題。話を唸るネオに戻そう。


「グル、ゥウゥウウウ……!」


 ネオは腰を屈めながら、強めの声を発している。全身に力を込めているようで、体躯がほんの少し膨張していた。目は大きく見開かれ、半開きの口からは涎がダラダラと流れ出す。

 ネオは苦しんでいる。島最強の生命体が、一億五千万年脈々と続く古代種の末裔が、苦痛に悶えている。

 何が彼女をそこまで苦しめているのか。その答えは、いよいよ明らかとなった。

 彼女の『肛門』から出る、黒茶色の塊――――ウンチ排泄物という形で。


「ハフゥゥゥゥー……」


 ぷりっと硬めで大きなものが出たら、後は栓が外れたようにぷりぷりと便が溢れ出す。先程までの苦悶が一変、ネオは気持ち良さそうに目を細め、柔らかな息を吐く。

 島の守護者だなんだと言いつつも、ネオも結局のところ動物である。食べれば排泄があるのは必然だ。

 アロサウルス・ネオの排泄物の特徴は、かなり臭いがキツい事。単に臭いのではなく刺激臭に近い。ただしこれはこの島の生物では、割と普遍的に見られる特徴だ。

 この島では山のあちこちから熱水噴出口由来のガスが噴出し、硫黄化合物が多く堆積している。それらは雨水で溶け出し、島中の土壌に染み込んでいる状態だ。植物や細菌は土壌養分などと一緒に、これら硫黄化合物を体内に取り込む。すると動物達も、それらを食べて硫黄化合物を体内に取り込む。そして肉食動物も……という具合に、食物連鎖を通じてあらゆる生物に硫黄化合物が浸透していく。

 さて、そうやって取り込んだ硫黄化合物であるが、そのままにするのは良くない。

 確かにこの島の生物は、硫化水素など硫黄系の毒素に強い耐性を持つ。しかし耐性というのは、無敵という事を意味しない。単に致死量が他の生物の百倍千倍というだけで、それ以上に身体に蓄積すればやはり死に至る。よってなんらかの形で無害化、そして排泄する必要がある。

 アロサウルス・ネオの場合、臓器で無毒化を行う。具体的には酵素の働きにより、血中に溶け込んだ硫黄化合物とタンパク質を結合させて無害化。硫黄化タンパク質は大腸まで運ばれ、便と一緒に排泄される。

 この硫黄化タンパク質が、とても臭い。催涙ガスのような働きを起こし、鼻水や涙が止まらなくなる悪臭だ。それでも(毒性がないという意味では)無害ではあるのだが。


「グル、グルルゥルル」


 糞をしたら、後片付けもしておく。とはいえ後ろ足で思いっきり蹴飛ばすだけだが。

 しかしこれもまた重要な生存戦略である。

 糞というのは汚い。当たり前の事を、と人間は思うだろうが、その認識は『甘い』ものだろう。万一感染症を患った場合、治療するための薬も医療機関も、自然界にはないのだ。そのため重篤な病気になる事は、ほぼ死を意味するといっても過言ではない。

 また他の動物を襲う肉食動物は、少しでも身体の動きが鈍くなれば獲物が取れなくなる。植物と違い、動物は逃げ回るのだ。身体能力で圧倒出来なければ、肉食動物は飢えて死ぬしかない。

 雑菌の温床となり得る糞は病気の元。遠くに蹴散らしておく方が合理的だ。ネオは自分の周りを清潔に保つ行為を、本能的にやっていたのである。

 ……ちなみに衛生云々を言えば、常温で半日放置した動物の肉も大変不衛生である。しかしこちらは、食べれば栄養になる。多少食中毒のリスクがあっても、飢えの方が生存を脅かす。衛生は生存上重要だが、衛生を優先出来るとは限らないのもまた自然の厳しさだ。

 さて。そうやって蹴散らした糞であるが、これはネオにとっては不要でも、他の生物にとってもそうとは限らない。


「キキ、キキキキ」


 ネオの糞が蹴散らされた後、数分と経たずに草むらから小さな虫が姿を表す。

 硬い翅で身を守っている、甲虫の一種だ。体長一センチと小さく、頭部にカブトムシのような、先端が枝分かれした角を一本持っている。身体はコガネムシのように丸々としていて、六本ある脚は非常に太くて短い。

 名をオオツノフンチュウと言い、動物の糞を主食としている昆虫である。一千万年前に大陸から流れ着いた数少ない『外来種』であるが、長い年月を掛けて進化した今では立派な島の固有種の一つだ。

 オオツノフンチュウは動物達の糞に集まり、その糞を食べて生きている。糞を食べるという行いは、人間からすれば下劣に見えるかも知れない。だが糞には排泄者では消化出来なかった栄養分に加え、一緒に出てきた腸内細菌や腸壁の細胞……が豊富に含まれている。例えば人間の場合、便全体の約一割程度が腸内細菌、もう一〜二割が剥がれた腸細胞だと言われている。

 糞食に特化した生物から見れば、他生物の糞というのはタンパク質・アミノ酸・水分を豊富に含んだ素晴らしい栄養食だ。フンチュウ以外にもハエやトビムシなど、様々な生き物が集まり、ネオの糞を食べていく。

 これらの小さな虫達は糞を栄養にして成長し、やがてそれより一回り大きな動物達に食べられるだろう。小動物達は大型の肉食動物に食べられる。動物達は動きの遅い速いはあれども、移動をするため島中に広がる。そして最後にはなんらかの形で全て死に、島の大地に還り、植物達の栄養となって島を巡っていく。

 地下空洞生物の身体に含まれている豊富な栄養源は、ネオの糞という形で島中の生物に分配され、生態系を支えているのだ。糞をするだけで生態系に大きな影響を与えるのは、巨大な地下空洞生物を主食としているネオぐらいなものだろう。


「ング、グルルル……」


 ところがそのネオ当人は、自身の排便にちょっと不満がある。

 どうにも此処最近、便秘気味なのだ。

 便秘もまた侮ってはならない。「ウンコが出ない」とは、つまり本来体外に出ていく不要物質が蓄積していく事を意味する。重症化すれば腸閉塞などを引き起こして死に至る、危険な病気だ。

 ここまで悪化するのは稀だが、不要なものが腹に溜まっているようでは食も進まない。ましてや巨大を維持するため、日々大量の餌を食べるアロサウルス・ネオにとっては出すべきものが出ないのは大きな問題である。解消しておくに越した事はない。

 そしてその術は、ネオの本能に刻み込まれていた。


「グルゥゥゥ……」


 ネオは面倒臭そうに唸りつつ、寝床から歩き出す。

 目指す場所は、真水の臭いがするところ。

 この島はとても小さなものだが、地下空洞経由で湧き出した水により、二〜三本の川がある。数は湧き水の出方次第で変動するため、数年周期で本数が増減するなどあまり安定的な水源ではない。

 尤もこの島は周辺を囲う嵐の影響で降雨が豊富。雨水だけでも十分な給水が可能だ。そのためネオ含めた大多数の生物は、川などの水源を給水場として利用する事はほぼない。

 ではネオが何故川を目指すのか。それは川辺に生える植物が目当てだ。


「フン、フンッ……」


 臭いを嗅ぎながら歩く事数分。ネオは最寄りの川に辿り着く。川の大きさは、幅が一メートルもない小さなもの。深さなど十センチ程度で、水が流れていなければ水溜りと錯覚しそうな規模だ。

 その小さな川の中に、高く真っ直ぐ伸びる草がある。

 正確には長さ二メートルほどの細長い『葉』を高く伸ばした、イネのような見た目の植物だ。しかし実態はシダ植物の一種。名前は、ミズシダと呼ぶ事にしよう。ミズシダは水中に適応する過程で、水生植物のイネに似た姿に進化した。水没した環境に適応しており、川や池によく生えている。

 繁殖地こそ島のごく一部(川や池の面積は島全体の約一パーセントしかない)だが、ある程度大きな水場であれば大体何処でも見られるぐらいの普通種。取り立てて珍しくもない草だが、だからこそネオにとっては都合が良い。

 ちょっとばかり、これを食べるつもりなのだから。


「ング、ング」


 ネオは頭を下げ、ミズシダの葉を咥える。ミズシダの葉は比較的千切れやすく、口先で少し力を加えれば簡単に切れる。

 この性質はアロサウルス・ネオが頻繁に引っ張り、葉を千切ってくるのに適応した結果だ。アロサウルス・ネオの力に歯向かったところで小さなミズシダには勝ち目などない。むしろ葉が切れないと、根っこまで引き抜かれてしまう。

 途中で切れた方が、結果的に生存率が高くなるのだ。ネオも適当に葉を千切り、短くなって咥え難くなると、近くにある別の葉に移る。こうしてミズシダはアロサウルス・ネオからの『捕食圧』に耐えているのだ。


「ンッ、グゥ」


 葉を千切ったら、ネオはこれをごくりと飲み干す。ほんの一口分(と言っても人間からすればかなりの量だが)を飲んだところで、満足したのか踵を返す。

 たった一口の草を食べるため、わざわざ寝床から移動してきたのは何故か? そもそもアロサウルス・ネオは肉食動物なのに、どうして草を食べているのか?

 答えは、便秘解消のためである。

 便秘の原因は様々であり、解決方法も千差万別だ。しかし一番簡単な方法は、『食物繊維』を多く取る事だろう。人間も便秘の解消には野菜や豆類など、食物繊維の豊富な食品を摂取するよう推奨されている。

 ネオもその事を本能的に知っている。肉よりも草の方が食物繊維は遥かに豊富であり、ミズシダはその中でも水溶性食物繊維が多く、腸内細菌の状態を整える働きを持つ。アロサウルス・ネオが便秘になる時は、大概腸内細菌に起因するので、ミズシダを食べるのが一番効果的なのだ。


「グゥココロロロ〜」


 ミズシダを食べたいという本能的欲求が満たされ、ネオは満足。嬉々とした足取りでこの場を立ち去る。寝床に戻り次第、彼女は再び寝るだろう。

 ミズシダにとってはいきなりの捕食者襲撃という災難だが……しかし島の生態系という面では、悪い事ばかりではない。

 アロサウルス・ネオはとても巨大な生物だ。大きな身体は相応に重く、大地には十トンもの重みがずっしりと伸し掛かる。そうすると当然、ある程度深い足跡が大地に刻み込まれる。

 川の近くという特にぬかるんだ場所なら、足跡はより深く、大きなものとなる。ただの足跡、とは言えない。十トンもの重さを掛けた地面は、深さ十数センチにもなる事も少なくない。そして川が出来るという事は、その辺りは水はけの悪い土地だ。雨が降れば水が溜まりやすい。

 このためネオが歩いた場所は、新たな水場となる事が多いのだ。湿地帯を造成していく、というのが振る舞いとしては正しいかも知れない。島全体から見ればほんの一パーセントの土地に棲む生物達の生息圏は、ネオの活動により守られていると言えよう。ネオにとってもミズシダがある程度繁茂すれば、便秘時に困らなくなるのでお得だ。


「グ、クルルゥ〜。グゴコロロロ〜」


 尤もネオはミズシダを自分が育てたなんて露知らず。なんとなく(本当に気分の問題なのだが)お腹が軽くなった気もして、暢気に唸りながら大地を闊歩していく。

 ついでとばかりに尻尾を左右にゆらゆらと揺らす。

 巨体のバランサーでもある尾は、筋肉の塊でもある。非常に大きな質量を有し、ぶつかった際の衝撃は極めて危険なもの。おまけに表面には頑強な鱗が無数にある。このため触れるだけでも周囲の木々が傷付く。

 一見破壊的に見えるこの行動も、この島においては大切な『自然』の一要素だ。尻尾により与えれた傷は、樹木を殺すほどではないがそこそこ深い。このため多くの植物は傷口を塞ぐため、樹液の分泌を行う。動物で言うところのカサブタ代わりだ。

 樹液の性質は樹によって様々であり、一部の種では(あくまで野生基準の話だが)非常に甘い。こういった樹液は昆虫などの餌となるだけでなく、繁殖のための『集合場所』としての役割も持つ。ネオ以外にも樹液を染み出させる要因はあるが、ネオ由来のものはかなりの多さだ。昆虫達が島で豊富なのも、ネオの存在があるためと言えよう。

 こうしたネオの働きは、決して「生き物に役割がある」からではない。

 ネオは己の本能の赴くまま、自由に生きているだけ。しかしその力が大きいがために様々な『環境』が生まれ、その環境を利用出来る生き物の方が適応的だから栄えた。あくまでも結果論に過ぎない。

 しかしアロサウルス・ネオが今のこの島の生態系に不可欠なのも事実。

 ネオが生きている限り、この島は豊かな生態系が育まれていくだろう。

 ……とはいえ環境は様々な要因で変わるものだ。特にここ数万年の地球は、ある『生物種』の働きで劇的に環境が変わりつつある。この変化はその生物種にとっても良くないが、自称賢い彼等はいずれその問題も解決出来ると信じ、繁栄という名の破壊を繰り返す。

 その際限なき繁栄の衝動は、ついにこの島のすぐ傍まで迫っている。


「ン、クファァァァァ……ングフゥ〜」


 尤も、頂点捕食者ではあっても超常の力の持ち主ではないネオが、それに気付いている筈もなく。

 寝床に戻った彼女は大きな欠伸をした後、大好きな昼寝を始めるのだった。

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