優雅な独り身

 アロサウルス。

 今から凡そ一億五千五百万年〜一億四千五百万年前の時代・ジュラ紀に生息していた、大型肉食恐竜の一種である。名の意味は『異なったトカゲ』。当時発見された脊椎化石が、既知のどの恐竜とも異なる事から命名された。

 アロサウルスはとても繁栄した種であったが、やがて気候変動や生態系の変化、強力なライバルの出現によって個体数を減らし、誕生から一千万年ほどで絶滅へと至った……と、現代の古生物学では言われている。

 だが、彼等は絶滅していなかった。

 とある離島(厳密には大陸の一部だったが地殻変動により分離した地)に生息していたグループは、環境変化から逃れたのだ。とはいえ島には他の肉食恐竜も数多く生息し、島で激しい闘争が繰り広げられた。しかもかなりの大きさを誇っていた島は海流により削られ、時代が進むほど狭まっていく。多くの個体が死に、ライバルも絶滅する中、彼等の血縁は少しずつ変化しながら生き延びてきた。

 それでも数は減り続け、『彼女』がこの小さな孤島で最後の一体となったのである。他の大陸で恐竜が滅んだ ― 厳密には鳥類は恐竜なのだが、ここでは狭義の恐竜を指す ― 事を思えば、地上最後の恐竜と呼んでも良い。


「ギューギゥルルー。ギュルググゥー」


 尤も、彼女はその孤独の中でも、『鼻歌』を歌うぐらい楽しく暮らしていたが。巨木が茂る鬱蒼とした森の中を、彼女は悠然と、宛もなく闊歩する。

 彼女……何時までもこう呼ぶのも味気ない。今後与えられる名である『ネオ』と呼ぶ事にしよう……は恐竜爬虫類であるがそれなりの知能を持つ。進化したアロサウルス(アロサウルス・ネオと命名される)は大きな脳を持ち、その脳の働きにより他の爬虫類とは一線を画す知能を獲得していた。彼女には豊かな感情があり、また自分がどうやらこの島に独りぼっちらしいという状況を理解する事も出来る。

 しかし寂しいとは思わない。

 何故ならアロサウルス・ネオは単独生活を営む生物だからだ。祖先であるアロサウルスは群れで狩りを行ったと言われているが、小さな島では大きな群れを維持出来るほどの食べ物は得られない。海流により島が小さくなるのに合わせるように、アロサウルス・ネオは単独生活者へと進化した。

 基本的に一体で生きる生き物にとって、競争相手かつである同種の存在はむしろストレスとなる。島に一頭だけというのは、種にとっては最悪でも、ネオにとってはとても心地良い状況だった。


「フグゥルル。グルゥウ」


 住心地の良さからネオは割と何時も上機嫌だ。気分が高揚した彼女は気紛れにそこらにある木の枝を咥え、ボキリとへし折ると……その長く大きな枝をぶんぶんと振り回し、まだ若い他の木を倒すなどして乱暴に遊ぶ。

 アロサウルス・ネオにとって、二十五歳という年齢はまだまだ大人一歩手前ぐらいのお年頃。身体に力が有り余っていて、意味もなく暴れたく遊びたくなる時もある。人間と違い倫理観もないので、命を潰す事になんの躊躇いもない。

 加えて、如何に知的とはいえ、自分の周りに生えている木々がどれだけ希少なものかを知らないのも大きい。

 ネオが歩くこの森は、スギに似た形態の針葉樹や巨大なソテツなど、裸子植物が多く見られる。裸子植物とは種子となる胚が、子房に包まれていない植物のグループ。種子を作る植物としては初期に誕生したもので、現在はより進化した植物である被子植物との生存競争に敗れて衰退気味だ。例えばソテツは生きた化石とも呼ばれ、今も比較的様々な地域に分布しているものの、全盛期にいたグループの大部分は絶滅している。

 その裸子植物を追い詰めた被子植物は、この島では殆ど見られない。地上の草には被子植物が幾つか生えているが、それ以上にシダ植物や小型のソテツ類が多く見られる。赤道近くにあるこの島は熱帯性気候であるため、正に古代のジャングルといった様相だ。特にソテツは、正にジュラ紀に大繁栄していた植物。ソテツの茂るこの森は、種こそ当時と異なるものの、ジュラ紀の森とよく似ているだろう。

 島の植生が古代のものである理由は、この島が一億五千万年前から他の大陸と隔離されているからである。付近の海流があまりに激しく、他の生物が殆ど寄り付けない事もあって、生物相の変化が極めて少なかったのだ。

 勿論一億五千万年もあれば、極々稀に流れ着く動植物はいたが……島の環境に適応出来たのはごく一部。根付いた種もこの島に順応するように変化したため、島の生態系が劇的に変わる事はなく、今も古代の生態系が残り続けているのである。

 アロサウルス・ネオも進化した種とはいえ、比較的祖先であるアロサウルスの気質は受け継いでいる。ジュラ紀の森が残るこの島は、ネオにとって最後の楽園と言えるだろう。

 勿論、ただ心地良いだけでは生き物は生きていけない。生きていれば腹は減ってくる。

 つまり餌が必要だ。


「ギュルルグルゥゥ……グゥ」


 暢気に遊んでいたネオだが、空腹を覚えると雰囲気が一変。鼻歌を止め、丸く大きな目玉で辺りを見渡す。

 三十メートルもあるような木々に遮られ、見晴らしは良くない。ネオの視力は非常に優れているが、流石に木の裏に潜むモノまでは見通せない。

 そこで役立つのが嗅覚である。


「フシュウゥゥ……フゴ、フゴ」


 大きく息を吸い込み、ネオは周囲の臭いを吟味する。

 祖先であるアロサウルスと良く似た長い頭部には、相応の長さの『鼻道』がある。この長い鼻道には嗅覚神経が多量に存在しており、吸い込んだ空気に含まれる僅かな物質も検知可能だ。その嗅覚の鋭さは、臭いに敏感な動物の筆頭であるイヌよりも遥かに優れているほど。

 今回ネオが感じ取った臭いは多種多様。腐葉土の臭い、樹木から流れる樹液の発酵臭、遠くから流れてきた潮の香りもある。いずれもネオにとっては食べ物にならない臭いで、余程異常がない限り興味はない。

 どれだけそれらの臭いが強くとも、ネオが惹かれるのは、ほんの僅かな獣臭さの方だ。


「フシュ、フゴゥルル、フシュゥゥ」


 臭いを感じ取った方角へと振り向き、鼻息を荒くする。もっとたくさんの空気を吸い込み、更なる情報を得るための本能的行動だ。

 獣臭さの正体は、ノネナールなどの不飽和アルデヒドである。これらは生物体表で分泌された脂肪分が酸化、その後共生菌などにより分解される事で生じる。例えば人間の体表面でもこのノネナールが発生しており、これは『加齢臭』として一般によく知られているだろう。

 体表の脂質は危険な雑菌を防ぎ、水を弾いたりと、自然界で生き抜くために役立つ。だからこそ獣臭さから逃れられる生物は、そう多くない。故にこの臭いを感知出来るアロサウルス・ネオは、例え密林でも多くの獲物を探し出せる。


「グゥルルルルル……」


 臭いの方を目指し、ネオは悠々と歩き出す。

 駆ける彼女の足下には、様々な小動物が走り回る。

 例えばゴキブリやムカデなどの節足動物。これらの生き物は一億五千万年前のジュラ紀から存在し、今も生き延びている古い一族だ。特にゴキブリは二十一世紀現在繁栄しているのとは別系統の種(人間で例えればヒトとキツネザルぐらい異なる)であり、四枚ある翅のうち、上翅が頑強で甲虫を彷彿とさせるなどかなり外観が異なる。

 ムカデやバッタなども生息しているが、いずれも現在世界中に分布している『成功者』とは異なる系統の種だ。棘があったり外骨格が硬かったりと、人間がイメージする姿とは違う。尤も生物に詳しくない者達にとっては、どれも気味の悪い『虫』にしか見えないかも知れないが。

 生息しているのは虫だけではない。

 哺乳類も僅かながら棲み着いている。いずれもネズミに似た外見の種だが、しかし現生のネズミとは全くの別物。何しろこのネズミ達は……所謂有袋類なのだ。

 今でこそオーストラリア大陸以外で殆ど見られない有袋類であるが、かつては地球のあちこちで栄えていた。人間が属する有胎盤類との生存競争に破れて大部分が絶滅し、今の衰退を迎えている。この島にいるネズミ達 ― より正確にはフクロネズミと名付けるべきだろう ― は、有袋類全盛期に運良く島に流れ着いた者達の末裔だった。


「フシュグルルルゥゥ……」


 闊歩するネオの足下には、正に蠢くと言えるほど命がいる。しかしその小さな生き物達にネオは一瞥もくれない。踏み潰しても意識すらしない有り様だ。

 小さな生物を襲わない理由は至極単純。あまりにも効率が悪いからである。

 確かに小さな生き物はいくらでもいる。身体能力も、ネオと比べれば正に虫けら程度だ。しかしそんな小動物達も決して愚かではない。ネオが襲い掛かればそそくさと逃げ出す。

 一度に捕まえられる虫は、精々十数匹程度。生まれたての頃なら兎も角、全長二十メートルを超えた今のネオには腹の足しにもならない。何回も何回も襲わねばならず、とても『面倒』である。

 それに殆どの小さな虫達は地面の中や石や木の隙間に隠れている、或いはすぐに隠れられる位置にいる。これらを掘り返すのもネオにとっては造作もないが、それなりに『面倒』だ。

 ただの面倒臭がりと思うなかれ。生物にとって『面倒』は死活問題である。何故ならそれは多くの行動を必要とする事を意味し、行動すればそれだけエネルギーを消費する。つまり面倒な狩りは、それだけでエネルギーを多く失う。

 ネオほど大きな身体となると、頭を左右に動かすだけで膨大なエネルギーを使う。虫を追って数歩走れば、それだけで虫から得られるカロリーよりも消費カロリーが上回るだろう。これでは狩りをするほど痩せてしまうため、だったら狙わない方が得……というより損をしないで済む。

 他にも、相手が小さ過ぎるため分別なんて出来ず、毒虫も一緒に食べてしまうなどのリスクも忘れてはならない。アリクイのように小動物捕食に特化した生態なら兎も角、『普通』の形態であるネオが生きていくには、ある程度大きな獲物が必要だ。

 例えば今ネオが臭いを辿っている、などが相応しい。


「グゥ……………」


 獲物が近い事を臭いの濃さから察し、ネオは息を潜めつつ辺りを見回す。鬱蒼とした密林ではあまり遠くまで見通せないが、アロサウルス・ネオの視力自体は優秀だ。

 彼女の目は、樹上で休む大蛇の姿を捉える。

 大蛇は体長五メートルにもなる体躯を持ち、大きな針葉樹の枝に身体を引っ掛けて休んでいた。ヘビといっても、その顔立ちは人間達がよく知るヘビとはかなり異なる。まるで肉食恐竜のような、大きく発達した頭部だ。半開きの口には牙が無数にあり、丸呑みではなく咀嚼して獲物を喰らう生態が窺い知れるだろう。

 手足こそ生えていないが、数本の爪が身体の下側にある。鱗はやや逆立ち、攻撃的な鎧のようだ。

 この大蛇は、厳密にはヘビではない。この島で暮らしていた小型爬虫類(トカゲに似た種)の中で、地中生活へと進出したグループ……そのグループの一部がまた地上に戻り、更に樹上生活に適応して生まれた種だ。なんとも面倒な進化をしているが、世界中で見られるヘビも元々は地中生活への適応であの姿を獲得し、その後地上への再進出を果たしたと考えられている。優れた形態を得た生物が祖先のいた地に再進出する例は、生物の中では珍しくない。

 この樹上性ヘビ型爬虫類は、獲物を樹上から襲うハンターとして進化・成功した。名付けるなら、ディノサーペントだろう。


「……グルルル……」


 ディノサーペントの姿を確認したネオは、ゆっくりと歩み寄る。

 ディノサーペントに毒はない。しかし大きな口にある歯は、非常に太く危険だ。ネオはディノサーペントより遥かに身体が大きいものの、首の動脈などを噛まれたなら致命傷を負いかねない。

 何よりディノサーペントがあまり脳の発達していない爬虫類とはいえ、ネオとの体格差が理解出来ないような阿呆でもない。捕食者の接近に気付けば、すぐに逃げ出すだろう。いくらネオでも、樹上高く登られては追えない。そもそもディノサーペントが休んでいる場所は、ネオの体長よりも高い位置。跳べば届くだろうが、適当に襲っても捕まえるのは困難である。

 まずは慎重に、少しずつ距離を詰める。

 この時役立つのが、アロサウルス・ネオの足裏構造だ。彼女達の足には、なんと『肉球』がある。

 正しくは脂肪の集まりだ。アロサウルス・ネオは、脂質の一部を足裏に集める性質を持つ。これにより彼女達の足裏は、見た目は如何にも恐竜らしい無骨さながら、触ると非常に柔らかなものとなっていた。

 この肉球には二つの役割がある。一つは衝撃の緩和。厚い脂肪がクッションとなり、強く大地を踏んでも足にダメージが入らない。このため力強く、素早く大地を駆け抜ける事が可能だ。生粋の捕食者プレデターであるアロサウルス・ネオにとって、素早く動ける事のメリットは非常に大きい。

 更にもう一つの役割が、今正に発揮されている。

 それは静音。クッションのある足で地面を踏み締めるため、大きな音を立てずに移動する事が出来るのだ。勿論アロサウルス・ネオほどの巨体となれば効果にも限度はあるが、硬く無骨な足で闊歩するよりはずっと静かなのは間違いない。これで獲物に気付かれ難くなる。

 本来、足の脂肪は『飢餓対策』として進化した。腹や尻尾などに付く脂肪の一部が、とある遺伝子異常により足裏にも付いたというだけ。しかしこの進化が、アロサウルス・ネオを捕食者として非常に優秀な種へと導いた。数多のライバルとの競争を勝ち抜き、小さな島で最後の一頭となるまで生き延びる事が出来たのも、この肉球のお陰と言っても過言ではない。

 ネオも祖先から引き継いだこの形質のお陰もあって、ディノサーペントに気付かれず木の傍まで接近する事に成功する。


「グルアァッ!」


 そして肉薄するや、木に体当たりを喰らわせた!

 針葉樹はネオよりも大きく丈夫だが、ネオも体重十トンを誇る巨大生物だ。渾身の力で体当たりを食らわせれば、巨木だろうと揺らせる。頑強な幹が大きくしなり、みしみしと不気味な音を鳴らす。

 倒れるところまでは行かずとも、揺れは激しい。休んでいたディノサーペントにとっては正に不測の事態。混乱からか身体が硬直し、木にしがみつく事が出来ず……落下。ぼとりと地面に落ちた。


「グルガアアアアアアアアッ!」


 その瞬間を狙い、ネオはディノサーペントに襲い掛かる。

 咆哮に反応してディノサーペントが振り返り、身体をもたげて威嚇のポーズを取る。口も開き、口内の歯を見せ付けてきた。

 少しでも自分の身体を大きく見せ、更に攻撃の意思表示を行う。体躯がある程度互角の捕食者相手なら、少しぐらいは怯ませる事が出来ただろう。しかし遥かに大きなネオ相手では無意味だ。

 ディノサーペント程度、噛むだの殴るだのといった『小技』すら必要ない。


「ゴゥ!」


 ネオは大きく足を持ち上げ、ディノサーペントの頭目掛けて振り下ろす。つまるところ踏み付けだ。

 ディノサーペントの開いた口にある歯が、ネオの足裏に当たる。だが効果はない。確かに中身は柔らかな脂肪であるが、その脂肪を覆う表皮は極めて丈夫な皮膚組織。鋭い石でさえも傷付かないそれが、高々細長い歯で貫ける訳もない。

 ネオの足はディノサーペントの歯を砕き、顎を粉砕し、そのまま頭全体をぐしゃりと踏み潰す。身体はびたんびたんとのたうっていたが、こんなのはただの反射だ。もう意識などない。


「ガゥ、ンッグ」


 尻尾の方を咥えたら、放り投げるようにしてディノサーペントの身体を口に運ぶ。五メートルもあるとはいえ、ヘビのような身体は細長い。咀嚼すらせず、ちゅるんと丸飲みにした。ネオは喉を鳴らし、大物の食感を堪能する。

 丸飲みなど如何にも不健康な食べ方だが、頬がないアロサウルス・ネオは咀嚼が苦手である。頑張って噛んだところで、横からボロボロと溢れてしまう。またナイフのように鋭い歯も、肉を切り裂くのは得意だが、噛んで潰すのは不得意。そのため口に収まるサイズまで肉を小さく出来れば、すぐに飲んでしまうのがアロサウルス・ネオの食事法だ。

 そして彼女の身体は、この食事の仕方に適応していた。

 アロサウルス・ネオの胃には胃石と呼ばれる、丸めの石が幾つもある。これはそこらに落ちていた石を丸飲みにしたもので、この石によって獲物の身体を擦り潰す。これなら丸飲みにしても消化が進みやすく、効率的に栄養が吸収出来るのだ。

 ディノサーペントの身体もちゃんと消化され、ネオの血肉としてその生命を支えるだろう。

 ……とはいえ野生動物であるネオは、獲物となったディノサーペントに感謝などしない。むしろ「ちょっと物足りないなぁ」とやや不満げ。実際、五メートルもあるとはいえ細長いヘビ型の身体は、お世辞にも肉が多いとは言えない。

 もっと大量の獲物が必要だ。

 されどやはり島自体が小さく、何よりネオという特大の捕食者がいるため、大型生物は殆どいない。ディノサーペントでさえネオに次ぐ、『超大型捕食者』と言っても過言ではない。

 果たしてネオの食欲を満たすだけの獲物が、他にいるだろうか?

 答えは、ある。ネオにとって『とっておき』の場所であれば、大きな獲物が得られる可能性があった。


「グルルゥルルゥ〜」


 おやつで小腹を満たしたネオは、踊るような足取りで件の場所へと向かうのだった。

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