邂逅(1)
「ようこそ、妖の世界―――黄泉へ」
ユキの広げる手の平の向こうには、果ての見えない世界が広がっていた。
点々とそり立つ木々もどこか不気味で、気のせいか辺りの空気も少し重いように感じる。
足を踏みしめる地面は、細かい砂状のものから荒れた岩盤のような質感に変わっており、伊佐薙の真後ろのあったはずの館は嘘かのように、その場からしんと姿を消していた。
「ここが―――黄泉―――」
「良かったね、生きてるときにこんなものが見れて。前も言ったけど、普通は死なないと来れないから」
そう言いながら服の中を手でまさぐるユキは、なにかを探しているように眉を曲げていた。
そして「お、あった」と引き抜いた彼の手元に握られていたのは、数枚のボロッとした紙切れのようなものだった。
ユキは手の平サイズのそれを右手の人差し指と中指で挟むと、その二本をピンと立てた。
「
"格納符"と呼ばれたその紙切れは、"解"の呪文と同時に膨大な冷気を吐き出した。
「うわお! なにごと!?」
その凄まじい勢いに、伊佐薙はつい目を覆う。
しかし伊佐薙があからさまに驚いている一方、那肋は慣れた表情で特段姿勢を崩すことはなかった。
冷気の中でも体毛だけが風に靡いており、小さな身体はぐっと力を込めた足と爪で地面に固定されている。
そしてその冷気がしんと静まりかえったとき、ユキの身体には頭から黒い布がかぶせられていた。フード付きのローブのようなそれは、ユキの頭から腰までをすっぽり覆っている。
それでも足りないのか、彼は唯一空いている前側の襟部分を両手で掴み、丁寧に首元のボタンを閉めていた。
「ごめんごめん、びっくりさせちゃったよね」
「いや、いいけど―――てかなにそれ、かくのうふ? って言った?」
「そう、格納符。これも今回買わなきゃね、伊佐薙用に」
ユキはそう言うと「よし」と深くフードを被った。
「買ってくれるのは嬉しいけど―――それは、どういう―――?」
伊佐薙は終始、首をかしげている。
「あぁ―――まぁ、そうだよね、そういう反応にもなるか。じゃあ―――そうだな」
ユキは少し悩む素振りを見せた後、おもむろに自身の腰元に手を回し、そこに差してあった棒状のもので一部ローブを退けて見せた。
「あ、刀!」露わになったそれを見て、思わず伊佐薙は声をあげる。
「そう、今までなかったでしょ? これもさっき出したの」
「そういえば―――」
ユキが初めて平坂家に来たとき、自分の部屋で話し合ったとき、おばあと食卓を共にしたとき―――どの景色の中にも、刀のようなものはなかった。
ユキは腰から刀を抜き取り、伊佐薙の前に横向きに差し出す。
そして先ほどと同じように、逆手で人差し指と中指を立てた。
その瞬間、ふとユキの妖力が高まったような気がした。
「格納符―――
"結"の言葉と共に、ユキの全身からは凍てつくような妖力が立ち上った。
その妖力は川の水が下流へ進むように刀へと注がれ、あっという間に刀は妖力の塊で目視できなくなってしまった。
「うわぁ―――」
その幻想的な光景につい、声を漏らしてしまう。
そんな伊佐薙の前で、その刀は段々と小さくまとまっていった。
そしてようやく妖力の波が凪いだかと思ったその時、刀だったものは一枚の紙切れへと姿を変えていた。
その場に浮きながらひらひらと靡くそれを、ユキはピンと指で払うように掴む。
「っと、こんな具合に、物をお札にできちゃうの。これが、格納符」
「すげぇ―――てかどういう仕組み―――?」
伊佐薙は未だにポカンと口を開けている。その様子を見てユキはふっと笑い、そんな彼に布の塊を投げつけた。
「うわお、なにこれ」
「今僕が羽織ってるのと同じ隠れ蓑。格納符とかの話は道中してあげるから、伊佐薙もちゃんと着てね」
「あ、うん―――」
羽織の上にその黒い布を被る。その着心地の悪さが、伊佐薙に改めて自身の立場を思い知らせる。
そうか―――ここは妖の世界。ユキと俺は、自分たちを狙う輩の巣窟に足を踏み入れてるんだもんな―――
きちんと前のボタンも閉め、伊佐薙は少し息を吐いた。
「じゃ、行こうか」
そう言ってふいっと歩き出すユキの後ろで、伊佐薙は首を回していた。
「あれ―――?」
「ん? どうしたの?」
「いや―――」
黄泉ツアー早々、まずいことになった―――かもしれない。
伊佐薙はその事実を口にする前になんとかして状況を理解しようと、全力で彼を探していた。
おかしい、いつからだ。どこにも、見当たらない。
諦めた伊佐薙は消え入るように、声を発した。
「那肋は―――どこいった―――?」
最悪の未来を眼に描きながら、伊佐薙はユキを睨み付ける。
しかし目の前の鬼神は我関せずといった具合で、きょとんとそこに立ち尽くしていた。
「まずいだろ、普通に考えて。黄泉で居なくなるなんて―――!」
「あぁ、ごめん。言ってなかったっけ」
ユキはそう言うと「那肋」と小さく名前を呼んだ。
その瞬間、伊佐薙の目の前は赤黒い景色で覆われた。
波立つ地面に、大きくそびえ立つ白い剣山の数々。その中央では竜のような赤い塊が、伊佐薙へとうねるように近づいてくる。
「ぐあぁぁぁあ―――」
「うわぁああ!?!?」
「こら那肋、いたずらしない」
その
尻餅をついている伊佐薙を見下げ、那肋は「ははは、すまんすまん」と笑っている。
「私も
その方が、急な事態に備えられるしな」
「なんだよもう―――心配して損した―――」
伊佐薙が立ち上がるのを確認し終わると、那肋は再び姿を消した。
ユキも「じゃ、行くよ」と再び歩き出す。
ったく―――緊張感があるのかないのか―――
遅れを取らないように、伊佐薙も駆け足でユキの背へと追いつく。
見るからに怪しい二人組が進む道は、道と呼ぶにはあまりに荒れていた。しかしどうしてか、そこには自然と足が誘われるような、そんな本能に似たなにかが、その荒れ地を道だと認識させていた。
歩いていても、周囲の景色が変わっているように感じない。
普段から建物や標識に囲まれ慣れている伊佐薙にとってそれは、それだけで言い表しようがない不安感に襲われるのだった。
ただ、理由は違えど今の状況に若干の違和感を覚えていたのは、ユキも同じことだった。
でもこれは嬉しい誤算かな―――原因が分からないのが怖いけど―――
「ところで、さっきの格納符の話だけどね」
「おぉ、うん」
急に話し出したユキに驚かされながらも、伊佐薙は耳を傾ける。
それはユキにとっては気を紛らわすための話題だった。
「これは一種の妖術みたいなものなんだよ。鬼気みたいなね」
「へぇ―――でも妖術って、妖ごとに使える、使えないがあるんじゃないの? それこそ、那肋とユキは全然違うじゃんか」
「それは勿論そうだよ。僕は神隠しとか使えないし、那肋も獄氷操術は使えない。でもね、誰でも一定の妖術が使える方法があるんだよ」
ユキはそう言って再びその札を取り出す。
その札には複雑な紋様や文字がしたためられており、神社で見るような札とはまた違った異質さを放っていた。
「それが、こういう
つまり僕らは、この札に刻まれてる妖術を、自分の妖力で使ってるんだよ。この文字やら線みたいなのが、妖術代わりってわけ。
現世でいうと―――そうだ、伊佐薙の家にもあったでしょ? なんか機械みたいなのが色々と。あれと一緒だよ、理屈は」
「あれと一緒―――?」
「そう、あれって機械に電気を流して使ってるんだよね? なら、こういう札はそういう機械だと思えばいい。僕らの妖力が、電気ね」
ユキは再び妖力を展開し、その札に妖力を込め始めた。
「その妖術が物を格納するものなのか、結界を貼るものなのか―――それは、媒介によって違う。でも、それらを起動する力が、妖力であることに変わりはない。
だから、妖はこういう媒介を用いて、色んな妖術が使えるんだよ」
なるほど―――めちゃくちゃ分かった気がする―――
いや待て、てことは―――
「俺も使えるってことだよね、それ」
「そういうこと。理解が早いね―――ん?」
不自然に語尾を上げたかと思うと、ユキはピタリと足を止めた。
そのままゆっくりと首を回し、ある一点を見つめて動かない。
「どうしたの?」
「―――いや、ちょっとね」
ユキが見つめる先に、伊佐薙も目線を合わせてみる。
そこにあったのは巨大な岩と、それに隣接するように生えている大きな樹木だった。
ユキは樹木と岩のちょうど狭間―――そこにできた暗がりを、ただひたすらに見つめている。
「なにさ、いきなり。怖いよ」
「―――やっぱりか。ちょっとごめん」
「え?」
ユキはまたいきなり動き出すと、その隙間へとまっすぐ歩いていった。
伊佐薙も慌ててその背を追う。
ただどうしてか、伊佐薙から見てその背は、少し怒っているような気がしたのだった。
「なにしてんの」
その空間からちょうど十メートルくらい離れた位置で、ユキは声をあげた。
なにかいるのか―――?
ユキの背に隠れる格好で、少し覗いてみる。
ぼんやりとした―――靄のようななにかが、そこに蠢いている。先ほどまで何も無かったはずの場所には、確かに、なにかがいた。
そしてよく目を凝らすと、それが段々と人型のように見えてくる。
「ひ、ヒッ―――や、やめろ―――」
その人型はユキの声に怯えるような形で、更に影を薄くした―――というより、狭間の奥深くへと身を隠した結果、その靄が薄くなったように見えた、という方が正確かもしれない。
「なにしてんの、って聞いてるんだけど」
ユキの声色は依然として冷たい。彼は少しずつ、その靄に近づいた。
「やめろ、近づくな―――!」
「じゃあ答えて。なにしてんの?」
「やめろ、やめろ―――!!」
ユキとの距離が後数歩、となったところで、その存在はユキとは逆方向に逃げるような形で移動した。
当然、ユキはそれを見逃さない。
「ハァ―――」
詠唱もなく放たれた獄氷は半円に広がって逃げの進行方向を塞ぎ、その存在はその場に尻もちをつくこととなった。
「あぁ―――もう、終わりだ―――これで、俺も、終わり―――」
ずっとその存在を見つめていたからか、伊佐薙の目にもその存在ははっきりと見えるようになっていた。
中年辺りと思われる小太りの男が、髪を掻きむしりながらその場にうずくまっている。呟く言葉はどれも「死ぬ」だの「終わり」だのと、新鮮な絶望に溢れていた。
そんな彼を見下ろすように、ユキは立ち尽くしている。
そして少しずつ腰を下ろし、彼に視線を合わせる。彼が完全にしゃがんだ頃には、男は言葉を失っていた。
「君、逃げてるんでしょ」
「――――」
物腰が少し柔らかくなったユキに対しても、男は決して警戒心を解くことはしなかった。
「じゃあ、はっきり言うけど―――」
その瞬間のユキの雰囲気は、鬼神そのものだった。
言葉の全てに、力が宿る。恐怖こそが、彼の耳に言葉を届かせる。
「君、取り返しがつかなくなるよ。行くべき場所は、分かってるんでしょ? なら、そこに行くべきだ。もし行くなら、君は終わらない。
でもそうやって逃げに逃げ続けて、妖に喰われたりでもしたら―――それこそ、本当の終わり。君は二度と、生まれてこれないよ」
男はピタリと痙攣を止めると、ユキを懇願の目つきで見上げた。
怖い。けれど、自身を狙う敵ではない。
そう判断した、結果だった。
男はのっそり起き上がると、とぼとぼとある方向へと歩き出した。
その去り際、彼は少しこちらへ頭を下げたように見えた。
「ちょっと言い方キツイんじゃない―――?」
「あれくらい言わなきゃダメなんだ。彼のためにもね―――」
そう言って進路を戻すユキの表情は、ローブに隠されて伊佐薙には見えずにいた。
「彼のためって言ったって―――」
「どっかで伊佐薙も分かってるんでしょ? さっきのが、一体なんなのか」
分かる、気がする。彼が着ていた服―――あれは黄泉では異質なほどに、普通の服装だった。
そしてその普通は、現世基準でいったところの、普通だ。
「彼は亡者―――所謂、死んだ人間だよ」
ユキの口から淡々と告げられる事実に、伊佐薙は驚くことはなかった。
ただ、死人と会ってしまったという感覚だけが、自分の心に泥のようにへばりついている。
そしてそれは決して、気分の良いものではなかった。
「じゃ、まだ目的地も先だし―――この際だ。僕が、授業をしてあげようか」
「え?」
「死者と妖についての授業だよ」
その口ぶりは先ほどの威圧すら忘れたようにどこか楽しげで、無邪気な子どものように跳ねていた。
少し困惑した伊佐薙だったが、気になるといえば気になるというのもあって、おとなしくその授業に参加することにしたのだった。
「じゃあ早速、伊佐薙君に質問です。人間は死ぬとどうなるでしょう?」
「どうなる―――?」
ここで聞かれてるのは多分、物質的なことじゃないよな―――別に物質的なことを聞かれてたとしても答えられんけど―――
伊佐薙は捻り出すように、どこかで小耳に挟んだような話を並べる。
「―――身体から魂が抜ける―――とか?」
「おぉ、正解。じゃあその抜けた魂は、どうなるかな?」
「抜けた後は―――どっかいっちゃうんじゃない? それこそ、生前に行きたかったところとか、思い入れあるところとか。そういう噂聞いたことあるし」
ユキは「うーん」と首を捻った。
「半分正解、かな。それこそ、身体から離れちゃうのは正解。でもどっか行っちゃうってのは、不正解」
「え、なんで? 俺、魂だけになったら絶対色んなとこ行くよ? もう行きたいとこ決めてるくらいだし」
「―――なんか
振り返った目には光が宿っていなかった。
こういうのも分かるもんなのか、妖って―――意外―――
「とにかく、亡者はほとんどの場合、現世を
「へぇ―――不思議だなぁ」
「そうでもないよ? だって、亡者ってほぼ妖だもん」
「えぇ!?」
人って死ぬと妖になるのか―――!? いやでも、幽霊とかは妖か―――でも人間と妖じゃ、モノが違う感じがするというかなんというか―――
「じゃあそんな伊佐薙君に、新事実をもう一つ―――魂ってのはね、そのままの形で存在し続けることができないんだよ。
それこそ、人間の身体とか人形みたいに、魂に合った器があれば大丈夫なんだけどね。もし、それが壊れたり死んだりして抜け出たりしちゃうと、魂は勝手に妖力を引き寄せちゃうんだ」
「魂が妖力を―――?」
「そう。ここまで聞いたら分かるでしょ?」
妖とは、魂を核として集まった妖力が外殻をなし、実体化したものである。
それが定義である以上、亡者も妖と同じってことか―――
「でもまぁ、亡者の魂は元々人間のモノだったわけだし、当然妖力を蓄えるには不向きなわけ。だからさっきの人みたいに、微弱な妖力しか持てないの。
これも、ほとんどの場合は、だけどね」
「なるほど―――でもあれ、なんでそれが亡者が黄泉に来る理由になるの?」
「―――伊佐薙。君はどうやってここまで来たの?」
あ―――そうか。黄泉への入り口―――
「そう、彼らも妖と同じ構造になった以上、黄泉への入り口を感知できる。それに彼らは、もう一つ―――黄泉に来る理由がある。そんでもって、それが本能的に黄泉に来ざるを得なくなる、一番の理由さ」
「理由―――?」
ユキは大きく頷き、微笑んだ。
「―――地獄さ。彼らは正確に言うと、黄泉に呼ばれてるんじゃない。地獄に呼ばれてるんだ」
「地獄って、あの地獄?」
「そう、最近は現世でも有名らしいね」
地獄っていったら、閻魔大王とかがいて、舌を引っこ抜かれるとかいう―――
誰もが知る、恐怖の権化。人々に善行を強いるほどの、強力な強迫観念の塊。
それが、本当にあるのか。
「亡者はそこで、生前の罪を精算しなきゃいけない。だから、呼ばれてるんだ。でも―――有名になり過ぎちゃったからかな。行く途中で怖くなったりして、逃げ出す人が時々居るんだよね。さっきの人みたいに」
「そりゃあ怖いよ―――俺はさっきの人の気持ちも、分かる気がするな―――」
死んでも尚、苦行が待っているなんて―――そんなの、逃げ出さない方がおかしい。よほど善行を積んだ自信があるやつでも、少しは不安やら、恐怖心ってものがあるはずだ。
それを怖くない、行くべきだ、っていうのは、きっとユキが妖だからだ。
それも、とびきり強い妖怪だから―――
そんな心の内を読んだかのように、ユキは控えめに笑った。
「違うよ、そうじゃない。僕だって、怖いのは分かる。でもね、悪行が精算された後、人間の魂は生まれ変わるか、天国に行くかを選べる」
「―――でも」
「もし、彼があのままここらを徘徊してたら―――彼は遅かれ早かれ、通りがかった妖に襲われる。彼は亡者、どんな弱い妖にも勝てっこない」
妖に襲われる―――その恐ろしさは、誰よりも分かる自信がある。
加えて、強者であるユキが語るからこそ、その事実には目を覆いたくなるほどの生々しさがあった。
「地獄は、黄泉の中でも特に濃い妖力が漂ってる。だから、亡者は地獄にいればほぼ、死ぬことはない。妖力の外殻が傷ついて魂が露わになっても、すぐ妖力が補填されるからね。
でもここらは現世より濃いってだけで、そこまでじゃない。あんな薄っぺらい妖力、すぐに剥がされて魂ごと喰われる。もし、そうなったら―――」
聞かずとも分かる。
だってさっき、その結末は、ユキの口から語られていたから。
「その魂は二度と、生まれ落ちることはない。そこで、本当に、終わりだ」
ユキがあの場で、怖がらせてまで彼を地獄に導かなければ―――彼があの場で、そうなっていたかもしれない。
想像するだけで、身の毛がよだつ。そうならなくて、本当に良かった。
いや、違うな。これは他でもない、ユキが防いでくれた未来だ。
気付くと、伊佐薙は先を歩くユキの隣に駆け寄っていた。
「―――ユキ、ありがとう」
「なんだよ、改まって」
「同じ人間として、だよ。ホントにありがとう」
「いいよ、別に。僕も妖が亡者を喰ってんのはあんまり好きじゃないからね、個人的にだけど」
ユキはそう言うと、照れを隠すようにふんと鼻を鳴らした。
「さて、授業もいい感じにまとまったところで、もうそろそろのはずなんだけど―――」
ユキは周囲を見渡す。
―――間違いない、ここら辺のはずだ。なのにおかしい、出店の一つも見当たらない。
どういうことだ―――? 一日でそんなに移動するなんてことあるか―――?
「なにキョロキョロしてんの?」
「いや、探してた店が見当たらなくてさ―――」
「確かに、どこにも見当たらないねぇ」
額に手を当てて遠くまで目を凝らす伊佐薙の横で、ユキは頭を捻っていた。
まずいな―――店が近いのがこの入り口の安心材料だったのに。遠出すればするほど、身に危険が及ぶ可能性も増える。
どうする―――一度引き返すか? いやでも、伊佐薙のこともある。
とはいえ、どのみちこんな開けた場所に居るのはいけない、まず少し移動すべきか―――
「伊佐薙、とりあえず、ちょっと岩陰とかに―――」
「ねぇ、ユキ。あれ、なんだと思う?」
「え―――?」
伊佐薙の指さす先―――そこには大木が一本、凜々しく生い茂っていた。
先ほどまで何本も見てきたものとは、なにもかもが異なっている。そのサイズ感、葉の艶めき、樹木の木肌―――そのどれもに、高級感のようなものが漂っていた。
「なにあれ―――ここらの植物の長かな?」
「いや、それじゃなくて」
よく見ると、伊佐薙はその樹木よりも更に下―――ちょうど根っこの部分を指しているようだった。
そしてそこには人だかりならぬ、妖だかりができている。その雰囲気は、遠目からでも芳しいものではないように見えた。
「ったく、物わかりの悪ぃヤツだな―――」
「だから、その、できないといったら、できないというか―――」
大型の妖らの中心にいたのは、人間の子どもくらいの、ほんの小さな妖だった。頭に角さえあれど、その角もユキのように尖ってはおらず、先端も丸く小さい。
そんな見るからにか弱そうな妖の目の前に差し出されていたのは、紛れもない凶器だった。
小さな妖の二倍はあるような刃物が、彼の首元に突きつけられている。
一触即発を絵にしたようなその絵面が、黄泉では日常だった。
「だからぁ―――お前は弱い、俺らは強い。なんでこの関係で、対等な取引ができると思ってんだ? なぁ」
「で、ですが―――」
だめだ、もう限界だ―――殺される。でも、でもぼくは、これだけは、渡すわけには―――
そうだ、渡すくらいなら、今ここで死んでやる―――死んでやるんだ―――
「もういいですぜ、もっかい殴れば考えも変わりますぜ―――」
「チッ―――早くしろよ」
刃物が首元から離れる代わりに、大柄の妖が肩を回しながらこちらに近づいてくる。
まただ―――また殴られる―――! 痛いのが―――来る―――!
「オラ、いっぺん気失っとけ、お前」
肉と肉がぶつかる、あの音。ぼくがなによりも嫌いな、あの音。
それが、またぼくの頬を襲う。ぼくはぐっと目を閉じた。
一秒、二秒。そのまま三秒経った。
おかしい。どうしてだろう―――今回は中々あの音が聞こえない。痛みも来ない。
少しずつ、首をあげる。最初に目に入ったのは、風を受けてはためく黒い布だった。
見たこともないカバンを肩にかけたその男は、ぼくの顔の前に手の平を向けている。
それが、悪意のない手の平だということは、すぐに分かった。
「妖だろうがなんだろうが―――見逃せるわけねぇだろ、こんなもん―――!」
そう言って飛んでくるはずだった拳を受け止めるその姿は、ぼくにとってはまるで救世主のように、後光が差してみえた。
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