黄泉ツアー(4)

 次の日の朝。平坂家の玄関は普段よりも幾分か、空気が揺れていた。


「ホントに大丈夫かい? まだ身体がしんどいなら、無理せんでも―――」


 そう言って伊佐薙の顔を覗き込むおばあの顔は、分かりやすいほどに心配の色で塗りたくられていた。


 伊佐薙はそんなおばあを安心させようと、きっちりと身につけた制服のネクタイを改めて締め、身体を左右に捻ってみせた。


「ほんとに大丈夫だって、昨日バッチリ休んだから」

「でも、また道中でなにかあったら―――」

「それも大丈夫だよ。なんてったって―――」


 そう言って、伊佐薙は横に立っている男の背中を優しく叩いた。

 男の肩にはあの羽織がかかっており、その衝撃によって黒い布がふわりと、不穏に揺れる。


「行き帰りはユキと那肋に守って貰うから。この二人ホント強いんだから、心配いらないよ」

「そうかい―――?」

「そうだよ。ほら、一昨日帰ってきた時だって―――身体は痛かったけどさ、傷という傷はなかったじゃんか」

「それは―――そうだね、そうなんだけどもねえ」


 伊佐薙がどれだけ安心材料を並べても、そのどれもが、おばあの不安を拭えるほどの力を持っていないようだった。


 やっぱり一筋縄では説得できないよな―――それに如何せん、俺も嘘ついて出かける身だし、これ以上強く言える勇気も―――

 

 顔をしかめて参りかけている伊佐薙の背を押したのは、先ほどから沈黙を貫いていた一匹の妖だった。

 

「心配なのは痛いほど分かるよ、おばあ」

「―――ユキさん」おばあの目は未だに揺れている。ユキはその目に対して、堂々と向き合った。


「一年前から続く追跡のこと、伊佐薙の父親のこと―――それに加えて、先日のこと。僕自身も、その危険性は身を以て知ってるつもりだ」

「――――」


 おばあは神妙な表情で黙り込んでいる。

 その反応に納得しながらも、ユキは淡々と話を続けた。


「でも一つ、これだけは―――知っていて欲しいんだ」


 そう言いながら伸びていくユキの角と同調するように、那肋は瞳孔を開き、全身の毛を逆立てた。


 那肋の体毛はうねる草原のように背丈を伸ばし、小さかった毛玉は次第に全身のサイズ感を増していく。

 そしてほんの数秒で、那肋は本来の姿へと変化を遂げていた。


 普段は広すぎるとさえ感じる平坂家の玄関が、巨大な妖によって埋め尽くされている。

 おばあはその光景に目を見張りながらも、彼らの目に宿る暖かさだけを信じて、その場に立ち尽くしていた。


 声も出ない亜然を目にしたユキが腰の刀に左手をかけた途端、どこからともなく吹いた風が、彼らの羽織と毛並みを大きくはためかせた。

 

 正真正銘の、完全体。鬼神きしんとしてのユキと、邪狼じゃろうとしての那肋。

 そんな二匹の妖怪が今、小さな老婆に向き合っている。


「僕と那肋。この二匹は絶対に、伊佐薙の味方だ。なにがあっても、僕らは伊佐薙を守ることに全力を注ぐ。それだけ、僕らの覚悟は固い」


 そうだ、僕は返さなくてはならない。多分これは、僕の使命ってやつだ。

 ユキは固く拳を握りしめる。


「信用を得られないのも分かる。僕らはまだ、伊佐薙の役に立ってない。父親のことを考えれば、今の僕らはまだ―――信頼より警戒の方が強いのも、当然だと思う。

 だからこそ、僕らは今後、彼の友人として―――」

「分かっているよ、お二人さん」


 ため息をつくような、力ない言葉。まるで締めた蛇口から漏れた水のような声が、ユキの言葉を遮った。

 まさか言葉を遮られるとは思っていなかったユキは、つい目を見開いてしまっていた。


「お二人の気持ち、妖の言葉だとしても、私にきちんと届いてる。これはね―――私の問題なんだよ」

「―――それは、どういう―――」ユキは理解できず、顔を歪めた。


「―――少し、待っていてちょうだい。伊佐薙、まだ時間は大丈夫かい」

「え? うん、まあ、まだ大丈夫だけど―――」


 伊佐薙がケータイで時間を確認すると、おばあは「そうかい」とだけ残し、スタスタと家の中に戻ってしまったのだった。

 一人と二匹は目を見合わせ、眉をひそめる。


 しかしその中で一人、伊佐薙だけは少しだけ、今のおばあの心情が分かるような気がしていた。

 どこか、あの日の自分と似ているような―――


 少しすると、おばあが三つの袋を携えて、再び彼らの元へと姿を現した。

 その袋は手の平サイズの巾着のような形をしており、中には何かがパンパンに詰まっているように見えた。


 布は手ぬぐいなどに使われていそうな質感で軽く、それでいて手触りのいいのものだった。

 柄も三者三様で可愛らしく、裁縫に使うような昔ながらの布生地、といった印象だ。


「待たせて悪いね、急いでるだろうに」

「いや、全然―――それより、それは?」


 伊佐薙が問うと、おばあはその内の一つの封を開け、中身を手に出した。

 さらさらという波のような音と共に、赤黒い小さな粒が四、五粒、おばあの手の平に転げ出る。

 

「―――小豆?」

「そうさね。伊佐薙、小豆好きだったろう? 赤飯とか、おはぎとか」

「いやまあ―――好きだけど―――」


 好きってのは、食べるのが好きってことだ。それをあんな形で今持ってくるなんて―――道中で食べろってことかな? いやでも、あれ生の小豆だよな―――

 伊佐薙は少し困惑していた。


 そしてそれは妖怪二匹も同じ事だったようで、二匹は黙っておばあの手の平を見つめていたのだった。

 全員の視線を一身に受け、おばあはゆっくり語り出す。


「小豆にはね―――魔除けの効果があるって、よく昔から言われていたんだ。朝食べると、一日の厄が落とされる、とかね」

「それは初耳だな」那肋は首を伸ばし、鼻先でおばあの手元の小豆を嗅いだ。


「あくまで迷信さね―――私だって、こんなちっぽけな豆粒に、そんな効能があるだなんて信じちゃいない。それでも、過去の人らは信じた―――この意味が、分かるかい?」


 その問いに、誰もが口を開けなかった。

 場には気まずい沈黙が広がる。おばあはそれを予想していたのか、小さく口角を上げた。


「信じたかったのさ、彼らは。信じるしか、なかったんだ。きっと、こんなものに縋りたくなるほどのが、あったんだろうねえ」


 そう言うと、おばあはそれぞれに小豆袋を手渡した。

 ユキと伊佐薙は手に、那肋は目から鼻にかけての窪みに、その小袋を乗っけている。


 おばあはそれを確認すると、改めて一人と二匹に向き合った。

 その表情は先ほどまでとは異なり、少し吹っ切れたように晴れ渡っていた。


「私は今、ものすんごく、その先人の気持ちが分かる。どうしようもない不安を、どうにかして減らしたい。どんなちっぽけなものでもいい、自分を納得させるなにかが欲しい―――そうやって、縋ってるのさ。

 だから、これは私の問題だって言ったのさね」


 伊佐薙はこのときようやく、おばあの気持ちが手に取るように分かったような気がした。それと同時に、彼女の言葉が今一度、自分の心を締め付けているのが分かる。


 きっとおばあは―――ただ怖いんだ。

 父さんと母さんがいなくなったこと―――悲しかったのが俺だけな訳がない。おばあだって、同じ気持ちだったはずだ。

 

 そして今、俺という残された唯一の家族が、危険に侵された。その心情といったら、どれほどのものだったろう。


 俺は今回心配をかける側だったからかな―――それを失念してた気がする。


 ごめん。本当に、ごめん―――おばあ。


 伊佐薙は全ての想いを込めて、小豆の小袋を握りしめた。

 そして今の自分が伝えられる精一杯の言葉で、見送る者へ笑いかける。


「ホントにありがとう。俺、頑張るから―――」


 これは、毎朝自分が言っていた言葉。これまでは、多重面相が代わりに言ってくれていた、旅立ちの言葉。

 今、ようやく、自分の口から言える。


「行ってきます―――!」 


 そう言って自分に背を向けた孫に対して、おばあはもう、見送ることしかできずにいた。

 一人、また一匹と、玄関の扉を越え、外へと踏み出していく。


「―――行ってらっしゃい」


 その言葉が口から漏れ出たのは、彼らが全員いなくなってからだった。




 家を出てからは、基本的にユキが先導していた。

 

 先日マークしていた黄泉への通り道へ、まっすぐに進んでいく。

 その道中、ありふれたあぜ道にてユキが口を開いた。


「僕さ―――」

「ん?」

 伊佐薙は那肋の横で首をかしげる。那肋は既にチワワの姿に戻っていた。


「あの小豆の意味―――しばらく分かんなかったんだよね。僕らにはあんまり、馴染みのない空気感だったというか―――慣れないというのもあって」

「あぁ―――」


 確かに、あれは人間特有の感情だったりするのかな―――てか、妖が他の妖との別れを惜しむこととかってあるのか―――?

 

 そんなことを考えていた伊佐薙にとって、次の瞬間ユキの口から出た言葉は、実に意外なものだった。


「でも、あそこで伊佐薙が『行ってきます』って言ったとき―――なんか急にさ。おばあの気持ちがすごい分かった気がするんだ。なんでだろうね」


 そう話すユキのことを、那肋は優しい表情で見つめている。


 ユキは依然として、後続に背を向けたまま歩き続けていた。故に、彼の表情は分からない。

 しかし伊佐薙は内心で、先ほどまでの考えを反省していた。


 それからしばらくもの間、伊佐薙らは歩き続けた。

 あぜ道を越え、住宅街を通り、時には若干の山道すらも乗り越えていった。


 山は怖い所だってイメージだったのに、今はこんなにも安心感がある―――

 伊佐薙は度々、二匹の心強さのようなものを再認識していた。

 

 しかし―――既に家を出てから数十分は歩き続けている。それでも、ユキは一向に足を止めようとしない。

 伊佐薙の心には少し、不安感のようなものが渦巻き始めていた。


 もしかして―――うちの近くって言ってたけど、それってユキ基準でってことなんじゃ―――?

 これで明るい顔で「え? あと三時間くらいは歩くけど?」みたいなこと言われたら普通に腰抜かすんだけど―――

 

 内心の独り言も冷めやらぬまま歩き続けていると、いつの間にか、伊佐薙らはある館の前に着いていた。


 伸びきった生け垣が周囲を囲うその家は、ぱっと見だけでも伊佐薙の家の二倍近くはあるように見え、堂々と構える門も竜や虎などの装飾で満ちていた。

 しかしそのどれにも歴史が感じられる"劣化"のようなものが目立っているような―――そんな不気味な古臭さが、そこかしこに漂っていた。


 ユキはそんな豪邸を前にして、ようやく足を止めた。

 少し首を回し、那肋と目を合わせると納得したように「うん」と頷き、その門に手をかけようと手を伸ばした。


「ちょいちょいちょい!」


 伊佐薙が声をあげるのも当然だった。

 伸ばした手の手首を掴み、ユキの行動を静止させる。


「なにさ、びっくりしたなあ」ユキは迷惑そうに眉間に皺を寄せている。

「なに、じゃないよ。入っちゃダメでしょ」

「え、でも中に人いないよ? さっきはその確認をしてたんだし」


 さっきの首回すのとアイコンタクトはそういうことか―――

 伊佐薙はため息をつくと、その豪邸を指さした。


「ここの住人が居ないとしても、入っちゃまずいんだよ。普通に不法侵入だから」

「住人―――ね。それって―――」


 伊佐薙の方を向いていたユキの目が、豪邸の門へと向いた。

 その銀色の目はまるで門を通り越し、館の中までを見透かしているかのように、どこまでも透き通っていた。


「住人が死んでる場合も、従わなきゃいけないの?」


 氷のように冷たく言い放たれたその言葉に、伊佐薙は言葉を失った。

 それって―――どういう―――


「それにこの感じ―――まだ中にあるよね、身体」

「―――あぁ、私は匂いで分かるが、これだけ大きな屋敷だ。周囲の人間は気付けんだろうな」


 身体―――? 死体、ってこと、か?

 伊佐薙は混乱しながらも、頭を回した。

 今、俺はどうすべきだ。ユキと那肋は妖、法律やらなんやらは知らないはず。


 まずは警察とかに言わなきゃだよな―――でもどうやって言う? 

 匂いだなんだって話をしてる時点で、死後から結構時間が経ってるのは間違いない。それで周囲が気付かないってことは―――ここの住人は交流もない独り身だったと考えるの自然だ。


「で、どうなの? 伊佐薙。それでも、問題があるの?」


 ユキは淡々とそう尋ねる。

 伊佐薙はそれに応えることなく、いきなり自分のカバンを開け、お面を豪邸に向かって投げつけた。

 

 ユキと那肋は、それを呆然として見つめている。そんな二匹を置いて、伊佐薙は門に手をかけた。

 重たい扉はギシギシと音を立てながら少しずつ、館への入り口を開いていく。


「行こう、これで俺らは疑われることなく入れる」

「あ、あぁ―――うん」


 そう言って先導する伊佐薙の手には、自身のケータイが握られていた。


 

 

「もういいんだよね? 進んでも」

「ごめん、待たせた。通報は済んだから、もう大丈夫」 


 伊佐薙はそう言うとケータイをカバンにしまった。

 二人は館の入り口―――達筆で"朝乃あさの"と書かれた表札の真ん前に立っていた。


「それと、これ」

「あ、ありがとう。ごめん、投げちゃって」

「いいよ、丈夫じょうぶだし、それ」


 ユキの手にはあのお面が置かれている。伊佐薙はそれを受け取り、すっと自分のカバンにしまおうとした―――その時。ユキが手の平を伊佐薙に向けて広げ、それを止めた。


「待って、もう使うから、それ。しまわなくていいよ」

「え―――?」


 呆気にとられる伊佐薙の背に、ユキは流れるように自分の羽織をかけた。伊佐薙は何が何だか分からないまま、それに腕を通す。


 そして伊佐薙は理解した。この館―――この場所こそが、黄泉の入り口だと。


 なるほど、死人が出た影響かなにかってことか。伊佐薙はお面を首から提げ、カバンを足元に落とした。

 そしてとうとう玄関の前に立ち、大きく深呼吸する。


 脈が段々とはやるのが分かる。落ち着け、と命じても、それが自分の身体じゃないかのように、興奮は収まることを知らない。


 そりゃ、そうだよな。俺は今から、未知の世界へ足を踏み出すんだから―――

 伊佐薙は今更後ろを振り返ることもせず足を踏み出し、その扉に手をかけた。

 お面を額に押しつけ、新たな旅路を後続に伝える。


 緊張とは裏腹に、口角は上がっていた。


「行くぞ―――ユキ―――!」

「なにしてんのー?」


 すぐ後ろにいると思っていたユキの声は、全く見当違いの所から響いた。


 ユキは館の入り口とは遠く離れた、裏庭へ繋がる細道のような所の始点に立っており、そのすぐ後ろに那肋もピッタリとくっついている。

 よく見えないが那肋は多分、呆れた表情を浮かべている気がした。


「え、こっちじゃないの?」

「入りたいなら入ってもいいけど、意味ないよー」

「えぇ―――」


 伊佐薙は急いでカバンを回収し、ユキの元へと駆け寄った。

 なんだろう―――なんか恥ずかしい。


「あれ、入らなくて良かったの?」

「そんなん好きで入る訳ないだろ―――あんな怖いとこ」

「ふーん」


 よく分からない、といった具合でそっぽを向くユキを前にして、伊佐薙は改めて自分が入ろうとしていた家の実情を思い知らされていた。


 冷静になってからは見れば見るほど、その館の不気味さは増して見えた。

 家全体を覆うつた、端々がひび割れている窓の数々、伸びきった名前も分からない草木―――そのどれもが、その奥に眠る本当の怪奇をひた隠しにしているようだった。


 そんな奇怪な家すら見向きもせず、ユキは狭き道をスタスタと進んでいく。

 伊佐薙は少し、目の前の妖が末恐ろしく感じてしまっていた。


「しかもなんだよ―――まだ先あるんかい―――」

「うん、でももうすぐだよ、ほんとに。だからちゃんとお面付けといてね」

「さっき間違えて付けちゃったよ―――てかこれ、こんなあっさり付けちゃって大丈夫だったの?」


 伊佐薙は今更ながらに、お面の影響を心配していた。

 軽くお面に触れると、その面が以前と同じく、隙間なくぴったりと自分の顔の上半分にはまっているのが分かる。


 そんでもって、二人の言うことが正しいのなら、今の俺は鬼神になってるはず―――そんなの、周囲に影響ないわけないじゃん。

 これが、伊佐薙の言い分だった。


 しかし返ってきた答えは、案外単純なものだった。


「大丈夫、とは言わないよ。実際、周りにいた弱い妖たちはびっくりしてどっか行っちゃったし―――ねぇ?」ユキは両手で草木を分けながら那肋に尋ねる。


「あぁ―――しかし問題なかろう。別段、人間等にじかに影響がある訳ではない。実際、自身が放つ妖力そのものが人体に影響を及ぼすなら、私たちはおばあの前で真の姿など見せん」

「それは―――確かに」


 伊佐薙は改めて自分の手の平を見つめた。ぐっと力を入れたり、それをゆっくり解いたりしてみる。

 いずれ、この妖力を抑える方法も学ばなきゃな―――


「ちょっと伊佐薙ー、遅れないでー」

「あ、ごめん! 今行く!」


 ユキは既に館と塀の狭間の小道を抜けた先におり、伊佐薙は急いで彼らの辿った道を駆け抜けた。

 足を前に進める度に、背丈のある草木が自身の顔や腕を叩いてくる。しかしそんな不快感も、こんな場所で彼らに置いて行かれる不安感に比べれば屁のかっぱだった。


「追いつい―――た!」


 人が一人通れるくらいの圧迫感を抜けると、そこには不思議な解放感が広がっていた。

 そして伊佐薙はその解放感の正体を視認し、唖然とすることとなる。


「もう、こんな所で離れちゃダメだよ。はぐれたら伊佐薙、帰れなくなるかもしれないんだから―――」

「なんだこの裏庭―――」


 ユキのお叱りも耳に入らないほどに、伊佐薙はその広大さを全身で受け止めていた。


 正面からでは想像できないほどの広大な土地が、館の背後に広がっている。

 赤黒い木々が点々とするその空間にはどれだけ首を回しても塀のようなものは見えず、所々には大きな岩のようなものさえもが転がっていた。


 そして視界の遙か先、その存在が霞むほどの遠方に見えた物体に、伊佐薙は目を疑った。


「あれって―――猿手さるてやま? なんでこんな所から猿手山が見えるんだ? てかあんな遠いっけ―――そんな歩いたっけ―――?」

「だから、もうすぐって言ったでしょ」

「え―――?」


 ユキはそう言って右手を広げた。那肋も口角を上げ、伊佐薙を見上げている。

 その時吹いた風はどこか生ぬるく、それでいてひんやりと、皮膚を撫でるように冷やしたのだった。


「ようこそ、妖の世界―――黄泉へ」


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