黄泉ツアー(2)
「―――父さん」
伊佐薙の声は既に震えていた。
何度も見てきた。これは夢だと分かっている。それなのに身体は無情にも、予定調和を繰り返す。
「ああ、お前の父さんだ。良かった、ちゃんと焦点は合ってるな」
父は伊佐薙の両頬に手を当て、顔を覗き込んだ。綺麗に整えられた髪に、端正の顔立ちが映えている。伊佐薙よりも一回り大きな身体をかがめ、父は伊佐薙に目線を合わせた。
「伊佐薙、なにがあったか、教えてくれるか」
伊佐薙は言うことを聞かない身体に向かって、叫んだ。
だめだ、それを言うな―――! それを言ったら、父は俺のせいで―――
伊佐薙は全力で口に力を込めた。開かないように、口をつぐんだ。
しかしそんな抵抗もむなしく、伊佐薙の口は生まれて初めて、父に本音を告げた。
「追われてる―――妖達に、追われてるんだ。今日のやつはしつこくって―――でも大丈夫、家までは流石に追ってこない―――はず」
今でも覚えている。この言葉が口から漏れた後で、瞬時に覚えた違和感。
多重面相が、機能していない―――? いや、そんなはずはない―――混乱していた当時の俺は、その答えを目の前の男の表情から悟った。
間違いない。父さんが、心の底から、自分を助けたいと思ってくれているんだ。そこに一切の躊躇いも恐れもなく、己を犠牲にしてでも、ただひたすらに目の前の息子を救ってあげたいと思っている。
これは実の親子ですら簡単とは言えない、いわば奇跡のようなものだった。
実際、伊佐薙はこれ以前にもこれ以降にも、血の繋がった家族に本音を告げられたことはない。
「そんなことが―――近頃帰りが遅くなっていたり、服を汚して帰ってきたりすることがあると母さんが言ってたが―――これが原因か」
伊佐薙は頷いた。それを見て、父は一瞬心の底から申し訳なさそうな表情を浮かべ、すぐに伊佐薙を腕いっぱいに抱きしめた。
「そうか―――今まで気付いてやれずに、すまなかった」
違う、違うよ父さん。悪いのは気付けなかった父さんじゃない。気付かせないようにしていた能力の方なんだ。
その言葉が伊佐薙の口から出ることはなかった。
「聞かせてくれてありがとう。もう大丈夫だからな」
伊佐薙を安心させる為の言葉は、逆に当時の伊佐薙の心を気味悪く逆撫でした。不安が募り、嫌な予感ばかりが伊佐薙の脳内を巡る。
やめて。大丈夫だから。現に俺はまだ、被害という被害は受けていない。これはきっと俺があいつらから逃げているからだ。
もしあいつらに立ち向かったら―――想像するまでもない。妖による被害は、日常的に流れ続ける三力奇譚のニュースが物語っている。
この時以上に、俺が多重面相を恨んだことはなかった。
「ありがとう―――でも、どうするのさ」
「俺が、見てきてやる。もしヤバそうなら、山の中腹辺りにある神社に行ってみる。あそこの"お札"は妖にも効くって有名だからな」
父はそう言うと、伊佐薙を抱きしめる腕を伊佐薙の肩に移し、朗らかに笑った。
いい、行かなくていい。悲痛な叫びとは裏腹に、伊佐薙の表情はまるで白馬の王子様に手を差し伸べられた時のお姫様のようだった。
「お願い―――あいつら追っ払って」
「あぁ、もちろん―――」
父は立ち上がろうとした足を止め、再び俺の顔を覗き込んだ。
「―――伊佐薙?」
伊佐薙は未だに目を輝かせていた。そんな目を覗き込む父の目は、どこか深淵を見つめているようにまっすぐ透き通っていた。
数秒目を合わせると、父は「そうか」とだけ呟いて少し俯き、再び伊佐薙の顔を真正面に捉えた。そこにあった笑顔が、なにかを取り繕う為に無理矢理作られたものであることは、精神がすり減っていた伊佐薙にも容易にわかった。
「伊佐薙、俺の話を聞いてくれ」
「―――うん」
伊佐薙は先ほどよりもトーンの下がった父の声に、内心動揺していた。
「伊佐薙は、優しい男だ。こんなことに巻き込まれていたのに、俺たちに迷惑をかけないことばかりを考えるくらいにはな。俺の―――いや、俺たちの、自慢の息子だ。
だからもし、お前がまだ、あの時と同じ夢を持っていてくれるなら―――」
あのとき―――? 伊佐薙は記憶を探る。
「なってくれよ。お前みたいな優しいやつなら、きっとなれる。お前が迷わないように、俺はちゃんと背中を見せる。だから、見ていてくれ。俺も、お前を見ているから」
この言葉、嫌というほど耳に残っている。もうじき、夢が終わる。
「それじゃあな、伊佐薙。すぐ、戻ってきてやるからな」
待って―――! 伊佐薙の静止もむなしく、辺りの景色は光に包まれていく。
眩しい―――目が耐えられない。それでも伊佐薙は、目を開け続けた。
ユキ達に父さんの話をしたからかな、今は少しでも長く父を視界に入れていたい。この記憶に浸りたい。
その強い思いが、普段では気付かなかった違和感を視界に捉えた。
ん―――? なんだあれ。
伊佐薙が目を凝らしたのは、父の右手だった。
父が握りしめているその拳からは、なにか白いものがはみ出ていた。
父が刻一刻と離れて行ってしまうのと、眼球を襲う激しい光のせいで確証は持てなかったが、それは例えるなら"なにかの古びた紙切れ"のようだった。
再び伊佐薙の目を襲った光は、暖かく部屋を照らしていた陽光だった。
「起きたか」
伊佐薙の機微な動きを身体で感じ取った那肋は、頭だけを伊佐薙の顔に向けた。チワワの姿で伊佐薙の横に丸まっている姿は、可愛らしいペットそのものだった。
「あぁ―――俺、どんくらい寝てた?」
「さあ、どうだろうな。六、七時間といったところじゃないか」
那肋をベッドから落とさないように、慎重に身体を起こしてみる。拳を握りしめ、全身の至る所をゆっくりと動かす。
まだ少し違和感はある―――けど、痛みはほぼ無いな。伊佐薙は安堵のため息をついた。
「その様子だと、割と回復は早いみたいだな」
「早いって言えるのかな、これ」
「てっきり私は一週間は動けんものだと思っていたぞ。人間があの鬼神になっているのだ、その負担の重さは想像に易い」
そう言うと那肋は大きくあくびをした。伊佐薙は改めて今の那肋の姿と声のギャップを目と耳に焼き付け、昨日の出来事が現実だったことを噛みしめる。
「そういえば先ほど、おばあがこの部屋に訪ねてきたぞ」
「え、ほんと? 全く気付かなかった」
「大分うなされていたからな、仕方なかろう。おばあはこっそり入ってきたかと思えば、"朝ご飯できてるから、起きたら下に来てって言っといて"とだけ言い残して、また降りていってしまったわ」
俺を起こさないように慎重に階段をあがり、控えめに扉を叩く背中が想像できる。伊佐薙は綻ぶように笑った。
「おっけい、じゃあ行くかあ―――」
身体を捻ってベッドから一歩、また一歩と足を地面につき、全身の力を使って立ち上がる。そのまま扉に向かおうとした伊佐薙は、依然として動こうとしない気配に目を向けた。
「行かないの?」
「私はその朝ご飯とやらも必要ないし、なによりこの部屋が心地よいからな―――ああ、安心していい。ここにいても一階にいるお前くらい守れる」
那肋はぐーっと身体を伸ばし、窓から入る陽光を自分の体毛に満遍なく当てていた。
暗がりの方が力は出るはずなのに陽光は陽光で気持ち良いのか、どういう理屈だよ―――いや、そうじゃなくて。伊佐薙は首を振った。
「そんなこと言わずにさ、一緒に行こうよ。那肋用のご飯も用意されてるかもしれないよ?」
「それが必要ないといっているのだ」
「えー、めっちゃ美味しいかもよ? おばあ、料理上手いから」
真顔でしばし葛藤した様子を見せると、那肋はベッドからぴょんと飛び降りた。小さな足でスタスタと歩き、すぐに伊佐薙を追い越した。
「お手並み拝見だな」
「腰抜かしても知らないぜえ」
「ふん、よく言う」
舐めるな、といった具合に鼻を鳴らしていた那肋だったが、上から見ていた伊佐薙にだけは、彼が少し浮き足立っていたのがなんとなくわかっていた。
「あら、案外早かったんだねえ。今パン焼くからねえ」
伊佐薙と那肋の足音を聞いたおばあは、ぼうっと眺めていたテレビから目を背けて立ち上がった。
「ありがとー」
伊佐薙が座布団に座ると、おばあはせかせかと動き始めた。
その間にも、テレビでは大きな見出しで同じようなニュースが流れ続けている。
―――猿手山、大炎上。妖による三力奇譚の可能性か
せわしなく飛び回るヘリからの映像が流れる中、ワイプの中ではアナウンサーが険しい表情を浮かべ、現段階で分かっている情報を事細かに説明し続けていた。
猿手山―――それは昨日の夜、鬼神らの宴が行われた山に他ならなかった。
上空からの映像からカメラが切り替わると、画面にはヘルメットを被った女性リポーターがマイクを持って立っていた。
『私は今、甚大な被害を受けた猿手山の麓に来ています。ここから見るとまだ木々が残っているように見えますが、中腹から頂上にかけての映像は先ほどから見ていただいている通りです。それにですね、今現在も植物が焼けるような匂いが濃く残っていまして―――』
「はい、これパンと目玉焼き。こっちはサラダね」
「あぁ、ありがとう」伊佐薙は一瞬テレビから目を離し、すぐにテレビに目線を戻した。
「ほら、これは貴方の分。口に合うかはわからないけれど」
おばあが那肋の前に出した大皿には、鶏胸肉のグリル焼きにバジルが添えられた、洒落た食べ物が乗っていた。
「感謝する。わざわざすまないな」
「いえいえ、おかわりもありますからねえ」
伊佐薙はそんな微笑ましい会話を右耳に入れ、そのまま左耳に受け流そうとした―――その時だった。
伊佐薙はテレビを見ていた姿勢から全身をぐるんと回し、那肋へと迫っていた。
「待って!! なに普通に会話してんの―――!」
「ん? あぁ、そうか。お前は昨夜ずっと二階にいたからな、知らないわけだ」
「いやいや、バレてんじゃん―――! ダメじゃん!」
「うむ、私もユキもはめられてしまってな。まったく勘の鋭い老婆だ」
那肋はそう言いながらも、常に口には鶏肉を咥えていた。
時たま「美味い、いい肉だ」と呟いていたところから見ても、余程おばあの料理が気に入ったのだろう。
「伊佐薙。大丈夫だから」声をかけたのはおばあだった。
「大丈夫って―――」
「色々あったのさね。ほら、そんなことはいいから、暖かいうちにご飯食べちゃいな」
「まあ―――いいならいいけど」
納得のできていない伊佐薙を見て笑いながら、おばあもテレビが見える位置に座る。二人と一匹の関心は再びテレビの中へと移った。
『スタジオの皆さん。今ですね、この被害に巻き込まれた被害者の方にお越しいただきました。早速インタビューしてみましょう―――』
その顔が映った途端、伊佐薙はパンを咥えながら「あっ!」と声を上げた。
そこにいたのは、あのタケノコおじさんだった。
「なんだ、知り合いか」
「うん。一八と遭遇する前に会ってさ、迷い込んだ俺を助けようとしてくれたんだ。どうなったか心配だったから―――無事みたいで良かった―――!」
テレビの中には、眉間に皺を寄せていながらも、ある程度元気に受け答えしているタケノコおじさんがいた。
伊佐薙にとっては、それがなにより嬉しかった。
『お話によると、この山火事に巻き込まれた、とか―――』
『あぁそうだ、その通りだとも。厄日だったとしか言えないね』
「そりゃああんな馬鹿げた被害に巻き込まれたら、怒りたくもなるわねえ」
おばあは同情するように穏やかに笑っていた。
『本当にその通りですね―――! ここからは詳しくお話を伺っていきたいのですが―――当時の状況などを―――』
『状況もなにも、あの山火事の原因は分かりきっている!』
『え、そうなんですか?』
「そうなの!?」伊佐薙はインタビュアーよりも大げさに驚いていた。
これが本当なら、まずいことになる。
俺の存在や、ユキを含めた鬼神らの存在。そんなものが公表された暁には、俺はここ周辺を歩くことすらできなくなるかもしれない。
『その原因というのは―――』
『はっきり言う! あの山火事の原因となった妖は、"大きな犬"の妖だ!』
『「え?」』
インタビュアーはタケノコおじさんを、伊佐薙は那肋を、怪訝な表情で見つめた。
那肋はその目線を感じてか、少し苦い顔をしている。
『私はあの時、タケノコを採ろうと山に潜っていた。ようやく採り終えて下山しようとしていた、その時だ! いきなり大きな犬の化け物が私を咥え、目にも留まらぬ速さで空を飛んだのだ!』
『は、はあ―――』インタビュアーはその熱量に、少し引いてしまっていた。
『私は叫んだ。奴が私を殺そうとしていたからだ。しかしどうだろう、奴は私の声にビビってか、私を公道に向かって雑に放り投げたのだ!』
「ビビったの?」伊佐薙の問いに、那肋は首を振った。
「んなわけなかろう。山中での被害を予想して、適当に麓に捨てたまでだ」
『見ろ! この肘にできたかさぶたを! これが証拠だ!』
『なるほど―――すいません、確認までに伺いますが、ご自身でお怪我なさったという可能性は―――』
『無い! 馬鹿にしているのか、君は。私は山に登って三十六年だぞ、ここ数年は転倒の一つも経験していない―――!』
『そうですよね、申し訳ありません―――』
「かさぶたできてんじゃん」
「お前を見つける為に急いでいたのだ―――しかしこの男、あのまま山中にいたら跡形もなかったのだから、ワーキャー言ってないで感謝の一つでも言ったらどうだ」
「そんだけ怖かったってことだよ、きっと。だってこのおじさん、俺と会ったときと気性がまるで違うもん」
那肋は「ふん」と鼻を鳴らし、明後日の方向を眺める。その背中に納得のいっていない内心が見え隠れしていたのを、伊佐薙は苦笑いで見つめていた。
「それにしても、伊佐薙はあの山にいたのだろう? よくもまあ、無事で戻ってこれたものだねえ」
「そうなんだよ、ほんと死ぬかと思ったんだから」
「そうかいそうかい―――へえ―――」
派手に転んだ、ねえ―――おばあが目を細めた先には、那肋がいた。那肋は全身をびくつかせ、おばあの方をふり返る。
そんな那肋の姿を見て、伊佐薙はようやく自分が口を滑らせたことを思い知った。那肋に「あ! ごめん―――!」と小声で伝える。那肋は既に諦めたようにため息をついていた。
「まあ、こうして元気な姿でご飯が食べられてるんだ。気にしちゃいないよ―――嘘はいただけないけどねえ」
「言えるわけがなかろう―――仕方がなかったのだ」
「はいはい、わかってるさ。ほら、おかわりはどうするんだい?」
「―――頼む」
どこか申し訳なさを残しているような"おかわり"に、おばあは微笑みながら立ち上がった。
「よく食べるね」
「本来の大きさを思い出してみろ、これでも少ない方だ」
「それは確かに―――」
談笑に花を咲かせようとしていた伊佐薙の耳に、インタビュアーのある言葉がすっと入り込む。それは数ある言葉のうちの一つに過ぎなかったが、伊佐薙の耳は彼女の声を全て濾過していたかのように、その一単語だけを捉えて逃さなかった。
『今回の山火事で被害を負ったのは、彼だけではありません。山の中腹に位置している神社、その建物ほぼ全てが全焼してしまったという悲惨なニュースも入ってきております。幸い、住職さんやその他の従業員、参拝客などはいなかったそうですが、歴史ある建造物がなくなってしまったことについては、悲しみの声があがっている模様で―――』
神社―――伊佐薙はその単語に導かれるまま、顔をテレビに向けた。
「あら、あの神社なくなっちゃったの―――昔っから愛されてたのにねえ。はい、おかわり」
「感謝する」
おばあの悲しそうな声も、今の伊佐薙の耳には一切入らなかった。
山の中の神社―――この言葉を、俺はつい最近、聞いたことがある気がする。
目を閉じ、記憶の海に潜る。
『俺が見てきてやる。もしヤバそうなら、山の中腹辺りにある神社に行ってみる。あそこの札は妖にも効くって有名だからな』
父さん―――! 伊佐薙は目を見開き、その場で勢いよく立ち上がった。
「なんだ、急に」
「伊佐薙―――?」
急に動いた伊佐薙を迷惑そうに見上げる那肋にも、心配そうに声をかけるおばあにも目を向けず、伊佐薙はまっすぐ階段の方へと歩き出した。
「ちょっと二階行ってくる―――! ごちそうさま!」
「あぁ、お粗末さま―――」
困惑しているおばあを尻目に、伊佐薙はあの映像を頭に思い浮かべる。
父さんが握っていた、あの紙―――そしてあの言葉。
もしかして、あの日父さんは―――!
何かに操られるようにその場を去った伊佐薙の背中に、おばあはあの日の伊佐薙を重ねていた。
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