三力の申し子(3)

「獄炎操術―――叫喚!」


 一八のかけ声と共に、広範囲に広がっていた獄炎が伊佐薙と那肋に襲いかかる。


「くそっ、まずい―――!!」


 那肋は声を漏らし、伊佐薙の元へと駆け寄った。


「乗れ!」

「あ、ああ、はい―――」伊佐薙は目の前にそり立つ毛むくじゃらの背中に飛び乗る。

「しっかり掴まっておけ。加減はできそうにない」

「へ―――?」


 伊佐薙が訳も分からぬまま那肋の身体にしがみつくと、那肋は力強く地面を蹴って空へと駆けた。

 頻繁に空を蹴り、速度を上げ続けていく。


「おわああアアアアア!!!?!」


 伊佐薙は叫ばずにはいられなかった。遊園地で一番好きな乗り物は、と聞かれれば迷いなくジェットコースターと即答する伊佐薙ですら、肝が冷えるほどの風圧とスリルがそこにはあった。


 伊佐薙はできるだけ那肋の身体に自分の身体を押しつけ、空気抵抗を減らそうと工夫する。それでも、自身の身体を通り抜けるけたたましい風切り音は止まなかった。


「ふん、そうだよな。獄炎を一つにまとめてぶつければ、お前は空に逃げる。分かっていたさ」


 一八はそう言って掌を空へ向ける。それに呼応するかのように、伊佐薙と那肋を追っていた巨大な獄炎の玉が動きを緩めた。

 

 大技が来る―――しめた。那肋は全身に力を込めた。

 きっと一八はこの獄炎を使って何か術を重ねるつもりだろう。それなら私はそれより早く奴から離れれば良いだけのこと。

 さっきまでのような全体に広がる攻撃よりも、よっぽど対処しやすい。


 那肋は全速力で獄炎から離れた。それを見ていた一八の顔には、不敵な笑みが浮かんでいた。


 既に一八の頭上には山全体から集めた大量の獄炎が球体となって渦巻いている。一八はそれを確認すると、小さく口を開いた。


「獄炎操術―――衆合しゅうごう


 その詠唱と共に獄炎の玉は弾け、人間くらいの大きさの獄炎の玉が目にも留まらぬ速さで空中に散らばった。

 そしてその散らばる速度は那肋の逃げ足にも追いつき、いつしか那肋と伊佐薙はあっという間に大量の獄炎達に囲まれていたのだった。


 那肋は空を蹴る足を止め、その場に留まった。このとき、那肋はようやく一八のやろうとしていたことを理解した。


 なぜ一八がわざわざ大叫喚、叫喚、衆合の順番で術を展開したのか。それはとにかく速度を出すためだったのだ。

 大叫喚と叫喚で巨大な獄炎の塊を作り、それを爆発させながら衆合を展開することで、ただ衆合を使うときとは比べ物にならないほどの初速で獄炎の玉を展開することができる。

 

 そこまでして速度が欲しかった理由は、ただ高速で動き続ける那肋を捉えるために他ならない。全てにおいて上をいかれた那肋は、その場で視線を落とした。


「相変わらずお前の逃げには驚かされるよ。その速さと、神隠しという術。逃げ特化と言っても良いほどの素晴らしい妖力だ。だからあっしは途中から、この状況を作り出すためだけに動いておった。少し、気付くのが遅かったねえ」


 一八は扇子で自分の頬を涼ませながら、那肋の真下に歩いてきていた。そしてふっと笑って那肋を見上げる。

 位置関係でいったら那肋が上にいるが立場はその真逆である、ということを物語っている表情だった。


「ね、ねえ狼さん」伊佐薙は小声で那肋に耳打ちしていた。

「那肋だ。なんだ、下手に声を上げると奴を刺激することになるぞ」

「ご、ごめん那肋さん。この炎、相当数があるけど自分らの周りだけ守れれば、うまくすり抜けれたりしないかなと思いまして」

「何が言いたい」


 この時、伊佐薙の頭には那肋が持っているだろうもう一つの妖術がよぎっていた。

 彼がその言葉を唱えて地面に着地したとき、彼を囲っていた獄炎は一気に鎮火されていた。

 あれを何度も使えれば、この獄炎だらけの空間も抜けられるのではないか―――伊佐薙はそう考えていたのだった。


「なるほどな―――しかしすまんが、それは叶わん」

 

 伊佐薙の提案に対して、那肋は表情を一切変えずに小声で却下を告げた。


「どうして―――」

「お前が言っているのは神解かむとけのことだろうが、あれは強力である代わりに妖力消費と疲労が激しい。故に、連発も厳しいだろう。この際賭けてみてもいいが、もし一度でも術が出なかった暁には、私たちはその場で丸焦げだ。それでも良ければ、今からやってみるが」

「いや待って、やめましょう。一回考え直しましょう」


 那肋は慌てて前のめりになっている伊佐薙を見て、少し心を落ち着かせていた。


 確かに、彼のいうとおりまだ手はあるのかもしれない。自分の術と向き合い、何ができるかを考えるのだ―――!


 神隠しと神解。交互に使うのは―――いや、結局こいつに神隠しを使えない時点で、神隠しが意味を成していない。

 なら神解の範囲を縮めて、消費妖力を抑えるのはどうだろうか。それならできるかもしれない。自分と伊佐薙だけに対象を絞って神解を使い、我々だけが獄炎の影響を受けないようにする。


「那肋よ、ものは相談なのだが」


 那肋の思考を遮るかのように、一八の抑揚のない声が下から二人の元へと届いた。


「そこにいるユキをこちらに渡してはくれんか。もしくはその場でお前が殺すでもいいぞ。あっしらからしてみれば、そいつさえ消えてくれればそれでいいからね。そうしてくれたら、お前は助けてやる。どうだい」

「一八、それを私が了承するとでも? これ以上の侮辱はないな」那肋は歯茎をむき出しにした。


「まあまあ、急いては事をし損じるぞ。獣連中は沸点が低くてかなわんわ。

 なあに、あっしらだって異種族連合を敵に回したい訳ではないのよ。どうせここでお前らを殺せば、他も連中があっしらをねちっこく攻めてくるのだろう? お前達は、とにかく、うっとうしいの。強いという意味ではなく、とにかくめんどくさいのよ」


 那肋は今すぐにでも噛みつきにいきたくなっている自分を抑えるので精一杯だった。


 しかし奴らに正面戦闘で勝てないのも事実。きっと異種族連合が鬼神らに挑むとなれば、間違いなく正面突破以外の方法になるだろう。

 それが余計に腹立たしくて、那肋の身体はわなわなと震えていた。


 その上には更に怯えているだろう少年が那肋の体毛を必死に握りしめ、周りを囲む獄炎を目で追いながら、何か策はないかと頭を働かせている。


 この女の思い通りになってたまるか―――那肋が覚悟を決めようとしていると、次の瞬間那肋の耳には信じられない言葉が囁かれていた。


 そこには恐れも、戸惑いも、一ミリも見られなかった。


「那肋さん、俺を殺してください」


 一瞬、時が止まったのかと錯覚するほどだった。


「は―――はぁ?」那肋の表情は一気に怒りから戸惑いへと変わっていった。

「あいつは俺のことをユキだと信じて疑わない。それなら、今ここで俺を殺せばあいつも満足するし、異種族連合の方々も何も失わずにハッピー、でしょ?」


 何を言っているんだ、こいつは。訳が分からない。

 那肋はまるで思考を止める術でもくらったように、その場で何も考えられなくなっていた。


「だんまり、か―――那肋、あっしはもう飽きた。あと十秒、十秒だけ待つ。それまでに何かしらの答えを出しな。十秒経っても返答無しなら―――これ以上は言わずともわかるだろう」

 

 そう言って一八は十から順にカウントダウンを始めた。

 一八の煽るような数え方のおかげでその一秒は本当の一秒よりも長かったが、それでも決して、十分な時間が用意されているわけではなかった。


「ほら、はやく、やってください」


 伊佐薙は那肋の毛を手放し、背中の上に立って手を広げた。その顔には相手に罪悪感を与えないようにか、精一杯の笑顔が張り付いていた。


「はーち、なーな、ろーく」

「俺はこの高さから落ちたら間違いなく死にます。でもきっと、貴方が殺さなきゃ、彼女は満足しません。だってユキという妖は、こんな高さから落ちたって死にはしないでしょう?」

「ごーお、よーん、さーん」

「ほら、それしかないんです。二人とも死ぬなら、貴方達は生き残るべきだ。その牙、もしくは爪。なんでもいい、振りかざすだけで俺は死にますから!」

「にーい、いーち」

「―――!!」


 那肋はその一秒で、身体を翻して背中に立っていた伊佐薙を空中に置き去りにした。そして流れるように伊佐薙の身体に牙を突き立てる。

 口を閉じる刹那、那肋は小さく呟いた。


「ありがとう、人間の子」


 那肋が口を閉じた音を確認した後、一八は不気味な笑みを浮かべて扇子を閉じた。


「ぜーろ。ふっ、ふふふ、ふははは、よくやった、よくやったぞ、那肋。約束通り、お前は逃がしてやろう。その代わり、今後一切あっしらは相互不干渉といこうな。ははは、これは良いものを見た。ははは」


 そう高笑いを披露した一八は那肋に背を向け、すぐにその場から去ろうと歩き始めた。

 袖を直し、片手を広げる。その掌には青白い鬼火が灯っており、一八が腕を一振りするだけでそこら中に散らばっていた獄炎がその鬼火に吸い込まれていった。


 一方の那肋は、ただただ、無力感に浸っていた。


 あんなにも弱く、小さな人間の勇気が、私とユキ、挙げ句の果てには異種族連合を救ったのだ。

 それに比べて私はどうだ。何ができた。結局ユキの願いすら反故にして、その人間を殺すことで自分たちを生きながらえさせただけではないか。

 彼があの時あの決断をしていなかったら、今頃二人とも骨も残っていなかっただろう。


 今はもう、何も見えないし何も感じない。生きているはずなのに、身体中に力が入らない。大昔は好きだったはずの人間を喰ったのに、口の中には少しも味がしない。


 那肋はとうとうその場に留まることさえ嫌になり、力なく山の中に消えていこうとしていた―――その時だった。


「だめだろう、保護対象を食べたら。そんなに節操ない奴だったか、お前」


 聞き馴染みがある、ずっと待っていた声が那肋を呼び止めた。

 那肋は全身で声のする方を向いた。


 白銀の髪に、同じく色素の薄い胴着と袴。その姿には腰に刺さっている刀が映えている。

 そんな彼が、羽織だけは一八の着物のような黒と赤で構成されたものを羽織ってるのだから、見慣れるまではそのミスマッチに戸惑ってしまいそうになる。


「ユキ―――」


 崩れ落ちるように名前を呼んだ那肋は、ユキの足元に伊佐薙がいるのを視界に入れた。

 よかった、無事だったのか―――那肋は胸をなで下ろしていた。


「すごいな、本当にそっくりだ。黒髪の僕って感じだな。似ている奴ってのは意外といるもんだね」


 四つん這いになっているところに声をかけられ、ふと顔を上げたとき、伊佐薙は夢でも見ているのかと思わされていた。


 目の前にいる男には確かに角が生えており、耳も少し尖っている。だがそれ以外の部分が、どこもかしこも自分と瓜二つだった。

 彼が一八がしていたように人間に擬態しようものなら、きっと彼と伊佐薙は髪色でしか判断できないほどだろう。


「えっと―――あの―――」伊佐薙は声が出なくなっていたが、ユキは常に落ち着き払っていた。

「うん、無理に喋らなくて良いよ。状況は分かってるから」


 そう言ってユキは道着の中に手を突っこんで、何かを探す素振りをしていた。

 

「んーっと、君にはこれを渡そうと思ってたんだよね―――あれ、どこいったー?」

「おい」


 悠長に捜し物をしているユキに向かって、どす黒い声が一八から発せられた。一八は依然として伊佐薙と二匹に対して背を向けていたが、その後ろ姿はどこか先ほどより肩が上がっているようにみえた。


「なぜ、まだユキの声がするんだ―――なあ、那肋」

「あれ、僕と一般人を見間違えた間抜けな三大将さんじゃないか。まだいたんだ」

「貴様ぁ―――!」


 一八はふり返ると同時に詠唱なしで掌をユキに向け、ありったけの獄炎を投げつけた。

 その火力は先ほどよりは控えめであっても決して安堵できるものではなく、人間の感覚なら一撃必殺の大技であることには変わりなかった。


「おわあああ!」


 思わず伊佐薙が声を上げていると、ユキがそれを見て少し笑って、飛んでくる獄炎に対して余裕を持って掌を向けた。


獄氷操術ごくひょうそうじゅつ―――頞部陀あぶだ


 ユキがそう唱えると、ユキの掌からは高濃度の冷気のようなものが出ると同時に、巨大な氷塊が地面を這うように獄炎へと向かっていった。

 そしてその二つがぶつかった瞬間、耳をつんざくような大きな爆発が起き、うねりながら増大していく竜のごとき爆風が辺り一帯を襲った。


 伊佐薙が飛んでいきそうになっているのを那肋が全身で押さえていたが、一八とユキはその風の中我関せずといった様子で立ち尽くしていた。


「詠唱なしでそんなデカい獄炎が出せちゃうんだもんね。流石三大将様だ」

「煽りよるわ―――それなら次は期待通り、全員本気で焼き殺してやらなきゃあね」


 一八が殺意を込めて目つきを鋭くさせると、ユキははっとした様子で両手を一八に向けて広げた。


「ちょ、ちょっと待ってよ。君らの狙いは僕だけなんだろ。なら彼は逃がしてあげても良いんじゃないの? ただ僕に似てるだけの、そっくりさんなんだからさ」


 一八はそう言われて、扇子を開きながら伊佐薙を睨み付けた。数回煽いだかと思うと、一八はすぐに扇子を閉じ、その扇子で伊佐薙を指した。


「ふん―――聞くがお前、本当にただの人間なのかい?」

「はい、そうです、本当にただの人間なんです。信じてください」

「ふん―――」


 一八は鼻を鳴らすと扇子を再び帯に戻し、興味を失ったような目で伊佐薙を見下した。


「なら、どうでもいい。お前が異種族連合だというならここで殺そうかと思ったが、さっき那肋がお前を本気で喰おうとしていた所から見ても、その可能性はないだろうからね。好きに消えるといいさ―――」


 伊佐薙は目を輝かせていた。ようやく、解放される。疲れを足に感じながら立ち上がると、一八はそれを見て気味悪く笑っていた。


「まあ、そやつが無事帰れるかは、お前達次第だけれどねえ」

「はあ、ほんとやんなるね。お前達はどこまでも自分中心でさ」


 ユキはそう言うと伊佐薙と一八の間に割って入り、手で銃を模したような構えをとってその銃口を一八に向けた。


「一時休戦だ、それくらいさせてもらうよ」

「ああ、やってみな」


 再び二人の妖力が高まる。しかしその威力は、先ほどとは段違いだった。


「獄炎操術―――焦熱しょうねつ

「獄氷操術―――尼剌部陀にらぶだ!」


 氷と炎が交わるとき、その場では耳が壊れるほどの轟音が鳴り響いた。同時に地面をえぐるほどの衝撃波が広がり、そこにあるもの全てを破壊していく。


 その威力は流石の一八も片手と扇子で顔を覆うほどであり、ユキはその間にも那肋と伊佐薙を回収してできる限り遠くへと避難していた。


「はあ―――ほんと獄炎操術に関してはちゃんとあいつに次ぐレベルだな。認めたくないけど」


 ユキは巨大な岩の物陰に那肋と伊佐薙を連れてくると、安全が確保されたのを確認した後で、続けて妖術を使用した。

 その構えは両手を地面に付けるものであり、一八が初めに放った技とそっくりだった。


「獄氷操術―――摩訶鉢特摩まかはどま


 詠唱と共に山々は巨大な氷に覆われ、気が付くとさっきまで肌が焼けるほどの炎に覆われていたのが嘘だったかのような銀世界が目の前に広がっていた。

 加えてその氷もどうやら普通の氷とは違うようで、色が普通の水が凍ったものに比べて少し紫がかっていた。発する冷気もなにやら生き物のようにうねっており不気味さが漂っている。


 ユキはある程度獄氷を展開し終わると、瞬時に那肋と伊佐薙の元へと駆け寄った。


「いい? 那肋は分かってると思うけど、あの氷には絶対に近付かないこと。あれはただ冷気で水分を凍らせたものじゃなくて、地獄から呼び出してる地獄の氷だから、安易に触れたりなんかしたら生気やらなんやらを吸い取られるからね。

 発する冷気も現世のものとは段違いだから、絶対に近付いたりしちゃだめだよ」

「は、はい」


 言葉尻が丸く優しいせいか、同じ容姿をしているはずなのに伊佐薙にはユキの方が数段大人っぽく写っていた。


「あと、これ。さっき探してたやつ。貸してあげる―――というかあげるよ。今回は申し訳なかったしね」

「ああ、どうも―――」


 ユキに手渡されたのは、顔の上半分を隠せるようなお面だった。まるで石灰のような肌触りと質感だったが、それにしてはどうにも頑丈そうで、なおかつ軽かった。

 その瞬間、これって何かの骨を削って作ったんじゃ―――という想像が伊佐薙の頭によぎったが、それ以上は深く考えないことにした。


「あれ、これなんか角みたいなのが付いてるよ。ユキさんとか一八さんのと一緒だ」


 伊佐薙はお面のおでこ辺りを指さしてユキに尋ねた。


「ああ、そうね。それは怨鬼えんきの面って言ってね、呪われたもので鬼の面を作ることで、その呪いをもっと強くしちゃおうーみたいな代物なんだよ。だから鬼を模したもので間違いないよ」

「は、はあ―――」伊佐薙は嫌な予感が当たった気がして、背筋が凍る想いだった。


「そのお面に宿る呪いはね、付けた本人の意思関係なくその者の力を数段強化するってものなんだ。その者の潜在能力を引き出すーとかの次元じゃなく、生物的に数段上になるの。

 すごいでしょ、まあ一定より強い妖とかにはあんまり効き目ないんだけどね、現に僕が付けてもほぼ効果なしだし」


「おい、それは大丈夫なのか。人間が使うとなると代償とかもあるだろう」


 よくぞ聞いてくれた―――! 伊佐薙は那肋に抱きつきそうになっていた。多重面相のせいで、それが気になってしょうがなかったのに言葉が出なかったんだ―――

 これだけで伊佐薙は那肋が自分を食べようとしたことを許しそうになっていた。


「大丈夫、ほぼないよ。ただ、使う度お祓いには行った方がいいかも。君がどうかは分からないけど、呪いに弱い人間はもしかしたら実害が出るかもしれないから」

「おいおい、大丈夫なのかそれ―――」那肋は顔をしかめていた。


「いや、ほんとに大丈夫なんだって。これは材質が呪いに近いってだけで、これ自体に呪いが刻まれてる訳ではないから。基本的にこういうものは得られるものが少ない代わりに、代償が少ないってのが売りなんだよ」

「信じがたいな―――」


 渋い顔をしている那肋を差し置いて、ユキは伊佐薙にお面を手渡した。その表情はどこまでも落ち着いており、先ほどの説明などなかったかのような安心感を纏っていた。


「こっからは激闘になるからね、危なくなったらすぐにそれを付けてまっすぐ逃げるんだ。そいつで身体能力を上げればきっと逃げ切れるから。

 分かったらほら、行った行った」

「あ、ああ、はい―――」伊佐薙は慌てて立ち上がる。それに那肋も続いた。

「―――あ、あと」


 ユキは手で伊佐薙らを追っ払うようにしてから、ふと那肋の方を力強く見つめた。那肋はその目が放つ覇気に少し気圧されていた。


「借りは返せよ、那肋」

「―――ああ、勿論だとも。無事住処まで送り届けてみせるさ」


 それを聞いて安心したのか、ユキは羽織を肩に掛け直しながら巨大な氷塊の方へと向かっていった。

 

 時を同じくして、ユキらを守っていた氷塊が赤黒く染まり始めていた。那肋はそれを見て、伊佐薙を鼻でつついた。


「行くぞ、相手は鬼神随一の獄炎の使い手だ」

「―――はい!」


 二人が焼け野原に向かって走り出したと同時に、雪崩のような音と共に氷塊が崩れ落ちた。


「相手はあっしぞ? こんな獄氷でなんとかできるとでも思ったか」

「当然、時間稼ぎ程度にしかならないと思ってたよ。元より倒すつもりじゃなかったし―――でもまあ」


 ユキは再び地面に手をつき、那肋らの方を目で追った。


「獄氷操術―――摩訶鉢特摩まかはどま


 詠唱と共に再び氷塊がそびえ立ち、それは鬼二匹と伊佐那、那肋を分断する形で月夜にきらめいていた。


「こんぐらいはさせてもらいますよ。彼は完全に被害者だからね、これ以上は可哀想だ」

「それは否定せん。まあ全てお前のせいだがな―――にしても、放浪男がよくもまあこんな場面に出くわせたものだな。あの人間がユキではない、となれば、お前と相まみえるのは何十年後になるかと思っていたが」


「そうだね―――実は少し前から噂があったんだよ、僕の目撃情報という噂がさ。しかも僕が行った覚えのない場所で。そんなの怖いじゃないか。だから真相を調べるために、最近は本物の僕もこの付近にいたんだよ。

 そしたら仲間を呼ぶ遠吠えが聞こえたもんだから、僕も慌てて全速力で飛んできたというわけ」


 あの遠吠え―――自分を鼓舞する為、なんてのも虚言だった訳か。なるほど、那肋らしいといえば那肋らしいのかもしれないな。

 一八は那肋の判断力に、素直に感心していた。


「そうか、納得したよ。無事に集まれてめでたしめでたし―――と言ってやりたい所だがな、生憎こちらも本気なのよ」

「―――おいおい、いくらなんでもそれはやり過ぎじゃないかい? 見逃してあげなよ、彼は無関係だ」ユキは何かを察したように、上空を睨んだ。

「ふっふふ、どちらにせよ私一人でお前の相手をするのは難儀だしなあ。ここでお前達を完封するためにも、これくらいの加勢は許してくれよ」


 一八がほくそ笑んだのと同時に、那肋と伊佐薙の目の前には轟音と共に土煙が漂っていた。

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