三力の申し子(2)

 タケノコおじさんと別れた伊佐薙は、カバンで顔を隠しながらとぼとぼと山道を進んでいた。


 坂道を転げ落ちなければ来た道を折り返すだけで良かったのだろうが、今は自分がいる場所すら分からないのだからそういうわけにはいかない。

 

 ここは山なのだから単に坂道を下れば良いのでは、と考えた伊佐那はとりあえず常に坂が下っている方向に歩を進めることにした。


 しかしそう易々と事態が好転することもないわけで、行く先々の道の崖に繋がっていたり、強そうな妖がいたりしたらその都度後戻りする羽目になっており、結局まっすぐ山を抜けることはできずにいた。


 その結果、本来下りたかったはずの道もどちらかといえば登っている時間の方が多くなってしまっており、次第に伊佐薙は疲れも相まってうなだれながら歩いていたのだった。


 そのとき、伊佐薙の脳内に光明が差した。そうだ、タケノコおじさんだ。さっきのタケノコおじさんをもう一度見つけることができれば、今度こそ彼も本気で自分を助けたいと思ってくれるのではないか。

 さっき多重面相が彼に関わらないことを選んだのは、きっと彼がタケノコ狩りを始めるところだったからだ。手には鍬しか持っておらず、そこにタケノコらしき収穫物が一つも見当たらなかったのがその証拠だ。


 もうタケノコおじさんと別れて三十分は経っている。もしタケノコおじさんが既にタケノコ狩りにけりを付けてくれていたら、多重面相も暴発したりせずに、全力で彼に助けを求めることができるかもしれない。


 そうと決まれば、と伊佐薙は一度その場で立ち止まり、目を閉じて耳を澄ました。彼の足音や鍬を振りかざす音などを聞き取ろうとしたのだ。

 数秒目を閉じていたが、とうとう伊佐薙は諦めて目を開けた。だめだ、距離が開きすぎているのか、彼らしい物音は聞こえない。


 その代わり、伊佐薙の耳には多くの足音―――のような音が届いていた。まるで山の頂上から麓に向かって何かの大群が移動しているような―――まさか妖か。

 しかし意外にも伊佐薙はそこまで焦っていなかった。どうやらこの足音は自分にめがけて向かってきているわけでは無さそうだったからだ。


 だとしたら一体この山で何が起きているのだろう。静まらない胸の内を無視できないまま、伊佐薙は今まで以上に周囲を警戒しながら歩ける道を進んでいた。


「そこの御仁、少しよろしいですか」


 伊佐薙が木に手をかけながら歩いていると、突然後ろからみやびな女性の声が自分の背中を叩いた。

 カバンで顔を隠しながらゆっくりふり返ると、そこには漆黒の和服に身を包む女性が立っていた。つむぎに使われている布には所々赤黒い蓮のような模様が浮かび上がっている。綺麗ではあれど、同時にどこか不気味にも感じる出で立ちだった。


 しかし彼女の容姿は驚くほどに人間そのものだった。頭にはこれまた黒々としている長髪を束ねるためのかんざしが数本刺さっており、少しつり上がっている目を備えた麗しい女性の姿はまるで昔話で出てくる美人といった具合だった。


 だからといって、そのような格好をした女性が山の中に立っているという違和感が消えるわけではないのだが、たとえ彼女が妖だったとしても伊佐薙はこんなにも人間らしい妖を見たのが初めてで戸惑いを隠せずにいた。


「僕のこと―――ですかね」

「ええ、もちろん。今あっしらの周りにはなんもおらんので」

 

 彼女にそう言われて、伊佐薙は少し首を回した。

 本当だ、人も妖も、何もいない。

 おかしい。数は少なかったとはいえ、さっきまで普通にそこらをうろついていた妖が一匹も見当たらないなんて。

 

「はは、そうですよね。それで、僕に何か―――」

「なあに、少し顔が見たかっただけです。その四角い―――物入れですか。どけて貰えませんか」


 顔―――? 伊佐薙は抱いていた嫌な予感が収束していくような気分になっていた。

 嫌だ、と言いたかったが、それは多重面相が許してくれなかった。


 静かにカバンをどかした伊佐薙の両目は、その女に釘付けになっていた。


 女は少しずつ目を見開いていき、すぐに片方の口角を目一杯にあげた。

 女はどこから出したか分からない扇子を伊佐薙に向けて、もう片方の手のひらを身体の横で開いた。


「見つけたぞ、ユキ」


 先ほどより数段低く轟いた声と同時に、女の広げた手のひらに青白い炎が灯った。そしてそれはすぐに赤黒い炎へと変わり、辺りを灼熱で覆い尽くした。

 なんだこれ、あんな小さな炎なのにまるでサウナにいるみたいな―――きっと本気ではないだろうその灯火を前に、伊佐薙は満足に目も開けられなくなっていた。


「ユキって、誰ですか」伊佐薙が呼吸もままならない状態で、せめてもの思いで発した言葉だった。

「なに、まだ茶番を続けるつもりかい。逃げるなり、戦うなり、早くお前も角を出したらどうだ」


 そう言って威圧する女の額にはいつの間にか鋭い角が生えており、耳の先も尖ったものに変わっていた。やはり、妖だったんだ。しかもこれは―――間違いない、妖術というやつだ。

 こいつは、ただの妖じゃない。妖怪だ。しかも鬼なんて伝説級といってもいい。

 伊佐薙の足は震えを抑えられずにいた。まさか、こんな怪物までもが自分を狙っているとは。

 

「―――なんだい、そんな姿のままであっしの相手をすると? 冗談だろう」

「少し、待ってください。話をするべきだと、思いませんか」


 女は間違いなく自分を殺そうとしている。殺したがっている。それなのに多重面相が自分の身体を差し出さない―――ということは、きっとこの女はなにか勘違いをしているのだ。

 つまり、奴が狙っているのは俺ではない。伊佐薙はどうにかして目の前の怪物を鎮める方法を考えていた。


「話。話ねえ。あっしはお前と話したいことなど無いね。言いたいことがあるなら、妖術で語りな」

「だから、違うくて―――僕は、人間です。妖術なんて、使えません。そうでしょう」


 時間が経つにつれて炎が大きくなっていく。肺が焼けそうだ。今すぐここから逃げ出したい。ただ、そんなことをしたら絶対に殺される。

 今自分の命が繋がっているのは、怖いながらもこいつと正面から対峙しているからだ。伊佐薙はそう自覚していた。


「人間、そうだね。どこからどう見ても人間そのものだ。強くなったんだね、と言えば満足かい?」

「はあ―――?」伊佐薙は眉をひそめていた。

「だから、強くなったんだろうと言っているんだ。強い妖であればあるほど、現実世界のものに擬態するのが上手くなる。

 そりゃあ、犬みたいな見た目をしたやつが人間になるのは相当難しいだろうけどね、あっしらのような元々人間に近い見た目の奴は、強くなれば人間の姿になるのもそう難しくない。

 そしてお前はとても上手く人間に擬態している。強くなったんだね、ユキ」


 なるほど、どこまでいっても俺が人間ではないと決めつけて疑わない訳だ。伊佐薙は片膝をついた。熱が激しくて立っていられない。搔いた汗がその場から蒸発していきそうな程の熱だった。


「そう、ですか、本当に俺が―――人間に擬態している妖にしか、見えないんですね」

「初めからそうだと言っておる―――なあ、もういいか。そこまでして雪鬼ゆきおににならないというのならその姿のまま殺すぞ。よいな?」


 そういうと女は扇子を帯に差して両膝をついてしゃがみ、両手を地面についた。その姿は土下座に似ていたが、彼女の立ち振る舞いがそれとは似て非なるものであることを示していた。

 その状態で彼女は顔だけを上げて伊佐薙を睨み、ふっと嘲るかのように笑った。


「どうせなら壮大に弔ってやるとしよう。あっしの得意な術の中でも、一番範囲の広い技で―――お前を魂ごと消し去ってくれる」

 

 伊佐薙はその瞬間、逃げてもどうにもならないことを悟った。範囲が広い、ならば人間の脚力で逃げたところで無駄だ。それなら、今考えられる最善の手を打つしかない。

 伊佐薙はその場で抜刀の構えをとり、大声で叫んだ。昔剣道を習っていたときに、よくかっこいいポーズを取って遊んでいた。そんなことを思い出しながら、全力で記憶の中のアニメのキャラを演じた。


「そうだ! よく見破った! 俺がユキだ! ええと、ユキだから―――氷結術、氷輪ま―――」

 

 全部妄言だ。でもこれしかない。少しの間、術を止めてくれるだけでもいいんだ。

 その叫びは間違いなく女の耳には届いていたが、女の心には一切届いていなかった。


獄炎操術ごくえんそうじゅつ―――大叫喚だいきょうかん―――!」


 伊佐薙を本気で殺すつもりで放たれた妖術は、先ほどから女が掌に出していた炎を操るという妖術の極地だった。あの赤黒い高熱の炎、きっとあれが獄炎というのだろう。


 女の言葉と同時に、獄炎は地面を伝って蜘蛛の巣のように広範囲に広がった。女が山を覆う程に獄炎を展開すると、それからすぐに地面を這った獄炎は爆発してそこら中に火柱がうねり始め、木々から小さな祠まであらゆるものを飲み込んだ。


 ほんの数秒で豊かな自然は文字通りの地獄となった。誰もが想像しうるような、死後にのみ目にするはずの見るも無惨な光景が広がっている。


 かくいう伊佐薙は、その光景を上空から手足をぷらんとさせながら眺めていた。爆発した瞬間、上昇気流で宙に浮き上がったのだろうか―――それにしてもこんなにも上手く火柱を避けられるなんて、よほど日頃の行いが良かったのかな―――


 そんな馬鹿なことを考えていた伊佐薙を律するように、唸るような声が伊佐薙の上空で低く響いた。


「よかっか、あにあっあ―――」


 よかった、間に合った―――? 焦ったように言い放たれた言葉は濁っており、まるで何かを咥えていたようにもごもごとしていた。

 そのときになってようやく伊佐薙は背中に感じる違和感の正体を目で捉えて、叫んだ。


「わ、うわあアアアアア、おろして、いや、今おろしたらダメだ、もうこの際飛んでても良いから丁重に家まで返してくれえエエ―――」


 伊佐薙は自分を咥えていた大きな狼のような妖に向かって叫んでいたが、その妖は答えることなく伊佐薙を睨み、空中に静止して伊佐薙を真上に放り投げた。


「え?」


 急のことで叫ぶことすらできずにいると、伊佐薙は硬めのベッドのようなものにうつ伏せのまま突っこんでいた。これはきっとあのデカい狼のようなやつの背中だ。

 すごいな、この毛色。全体的には灰色にみえるのに、月明かりや獄炎に照らされると水銀のような輝きを放っている。


 伊佐薙が見惚れていると、下から野太い声が響いた。


「早く私に掴まれ、落ちたら生きながら地獄の炎に焼かれるぞ」

「は、はい!」


 その言葉に従って、伊佐薙は全力でその毛を握りしめた。今、伊佐薙の目の前には二匹の怪物がいる。けれど、きっとどちらかといえばこの狼みたいなのは自分の味方側だ。伊佐薙は直感でそう判断した。


「ん―――? なんだ、やはりこの程度ではとどめを刺せなんだか。というより、あれは―――那肋なろくだね。那肋が助けたということは、やはりあいつはユキで間違いなかったということだ」


 女は再び扇子を取り出し、自分の頬を仰いでいた。それを見て那肋は歯ぎしりしていた。


 できることなら奴に気付かれる前に自分の術で逃げたかったが、流石だな。自分が炎の中に飛び込んだ瞬間、獄炎を人間一匹を殺す為のものではなく、この場から誰一人逃がさないようにとにかく範囲を広げるものに変えた。そのせいで、そのまま逃げることを躊躇ってしまった。

 

 那肋は自分の背に乗る人間を目だけで追った。こやつには確かめなくてはならないことがある。


「おい、お前名はなんという」

「え、平坂伊佐薙ですけど―――」


 那肋は少し黙り、その後でもう一度口を開いた。


「分かった、お前も難儀だったな。私はユキの頼み通り、お前を助ける為に全力を尽くす。つまり味方だ、安心してくれていい。だが、下にいるあいつ。あれは正真正銘敵だ、いいな」

「はあ―――それで誰なんですか、あれは」

「鬼神の一八いちはつという者だ。鬼神、分かるか。鬼の中でも上位の奴だ」

「とんでもなく強いじゃあないですか―――」

「そりゃあもう、しかも鬼神の中でも指折りだからな。そしてあいつの強みは、あの獄炎で―――」


 空中で会話を続けていると、地上から透き通った声が何かを呟いた。伊佐薙はそれに気付かなかったが、那肋は気付いた瞬間全身の毛を逆立てて警戒態勢を取った。


「ちッ―――来るぞ!!!」

「鬼火操術―――酒呑しゅてん


 一八が扇子を閉じ、顔の前で立てる。すると一八の背後から、げんこつくらいの大きさの青白い火の玉が躍り出た。四―――いや、五つだろうか。その人魂のようなものは少し一八の周囲を旋回したかと思うと、すぐに那肋と伊佐薙の方へと突っこんできた。


「いかん、鬼火か」那肋は空を蹴って高速で場所を移した。

「鬼火ってなんですかー、あれのことー!?」伊佐薙は振り回されながら尋ねる。


「ああ―――そうだ。鬼神はあの鬼火を操るという妖術を持っているんだ」

「じゃああの獄炎ってのはー!?」

「あの鬼火の妖術だ。鬼といえば、地獄の獄卒だからな。鬼火は地獄の業火、いわゆる獄炎を呼び出すことができるわけだ」

「じゃあこれって―――」


 伊佐薙を乗せた那肋は全力で逃げていたが、気付くとふよふよと浮く鬼火に囲まれる形になっていた。

 変則的、かつ高速。それが何個もあるとなると、速度に自身のある那肋でさえも逃げ切るのは至難の業だった。


「ああ、まずいな。少し地上に降りるぞ」

「ええ!? わ、分かりました―――」多重面相の馬鹿、あんなところに降りたら俺は一発で死ぬ。マグマに突っこむようなものだぞ。伊佐薙は心の中で叫んでいた。


「獄炎操術―――等活とうかつ

「くそっ―――神下かみくだ妖術ようじゅつ―――神解かむとけ!」


 一八の合図で鬼火は赤黒い獄炎を吐き出し、辺り一帯は獄炎で包まれた。獄炎は勢いよく弾け、まるで花火のように静かに消えていった。


「あら、降りてきたの。空中戦ができるってのが、お前の強みじゃなかったかい?」

「馬鹿を言うな。あのまま空にいればいずれ打ち落とされるのも時間の問題だろう」

「はっ、それこそお前の術で逃げればいいだろう。それとも自分の術を忘れていたのかい? 滑稽だね」


 那肋は四本の脚で力強く地面を踏みしめながらも、表情には力を入れられずにいるようだった。

 しかし那肋が着地した地点は獄炎がほとんどなく、燃えかすだけが残っている焼き畑農業をした後の地面のようになっていた。そのおかげか、伊佐薙は那肋の背に乗っていながらも熱で焼け死ぬことはなかったのだった。


 これはきっと、着地する瞬間に那肋が呟いていた、妖術が原因なのだろう。


「それよりもユキ、みっともないのはお前の方だ。こんなもの、わざわざ那肋の術で守って貰うほどのものか? 雪鬼とはいえ、この程度の獄炎が致命傷になるわけでもなかろう。

 全く、異種族連合いしゅぞくれんごうの長だというのに―――那肋もこんなのが長ではさぞかし大変だろう、なあ」


 異種族連合―――? 伊佐薙は聞いたことのない言葉の応酬で、頭が回りそうになっていた。

 推測するに、この那肋という狼のような妖は、ユキという妖が作り出した異種族連合というものに属しているのだろう。そしてそのユキ、という妖を追っている連中に、どういうことか伊佐薙は間違って追われている。全く厄介な話だ。


 そしてこの一八という妖。鬼神といったか。鬼神の中でも指折りの怪物は、ユキと那肋のどちらとも知り合いなのだろう。

 しかもこの二人は話し方的にも、那肋の説明の仕方的にも、関係性はどこまでも"敵"であることが推測できる。


 問題は、どっちの方が強いのか、ということだ。伊佐薙からしてみたら当然那肋の方が強くあってくれなくては困るわけだが、どうやらそうでもないらしい。

 しかも那肋は伊佐薙という一般人を守りながらの戦いなのにも関わらず、一八はただ蹂躙すれば良いだけの勝負だ。やりやすさでいったらその差は明確だろう。


 伊佐薙が少したじろいでいると、その不安も消し去るように那肋が吠えた。その姿は炎と月に照らされて、まるでゲームで出てくるような伝説の獣のようだった。


「どうした、いきなり吠えて。お前は邪狼じゃろう。群れない種族だろう? その遠吠えで助けに来てくれる仲間などいないぞ」

「ふん、安心しろ。これは自分を鼓舞する為の遠吠えさ。お前も吠えたらどうだ、力が漲るぞ」

「生憎そんなことをしなくても問題のない相手なのでな、もう少しお前が強ければ精一杯吠えてやれたのだが」


 しばらく二人は互いを見合っており、那肋はグルル、と唸っていた。その様子を那肋の後ろから眺めていた伊佐薙にも、互いの緊張はビシビシと伝わってきていた。

 そして一八が閉じていた扇子をゆっくりと開き、最後まで開ききった瞬間。二人は同時に詠唱を始めた。


「獄炎操術―――等活」

「神下り妖術―――神隠かみかくし―――!」


 一八は扇子を伊佐薙の方へ向け、二人同時に獄炎で焼き尽くそうとした。その方法は今の那肋と伊佐薙に一番効く、いわば定石のようなものだった。

 

 那肋はというと、詠唱が終わったと同時にその場から姿を消してしまっていた。

 急に一八と二人きりにさせられて、伊佐薙は動揺から腰が砕けてしまったように後ろ向きに転んでしまっていた。


 しかしどうだろう、獄炎がなかなか襲ってこない。先ほどの等活、という攻撃を考えると、きっとあれはただ単に獄炎を爆破させるようなものなのだろう。

 もしや鬼火を撒いておく必要が―――? いや、だとしたら一八が急に獄炎操術から詠唱を始める意味が分からない。


 伊佐薙が色々と考察しているうちに、一八も考えを巡らせていた。

 今、あっしは何を燃やし尽くそうとしたのだ―――? あの男、そうだ、ユキだ。ユキを燃やせば良いのだから、ユキに獄炎を放てばいいではないか。

 しかしなんだか引っかかる、あっしは何かを忘れてはいないか。この違和感、気味が悪い。

 

 一八が獄炎を放たずに様子をうかがっていると、その瞬間一八の目の前に口を開けた那肋が現れた。

 那肋が口を閉じると同時に、金属どうしがぶつかるような重々しい音が鳴り響いた。


「相変わらず厄介だな、神隠しというのは―――!」一八が目を見開いて那肋に向かって叫んだ。

「くっ、ただの扇子ではないのか―――!」

「逆に三大将の一角ともあろうものが、ただの扇子を使うとでも思ったか―――?」


 那肋が一八に突っこんだ勢いのまま、二人は炎の側を飛び回った。那肋の牙は一八の履き物と扇子で受け止められ、噛みきることはできないようだった。


「いいのか? そんな悠長に甘噛みしていて。口の中を火傷するぞ―――!」

「いわれず―――ともっ!」


 勢いよく振られた那肋の首により、一八はそのまま地面へと叩きつけられた。地面は大きく割れ、流石の一八もダメージがないわけではないようだった。


 舌打ちと共に顔を歪めている一八に、止まることなく那肋が襲いかかる。その爪は十分な鋭さを持っており、容赦なく叩きつけられた足は一八が避けなくてはならないほどの威力だった。


 その後も二人の攻防は続き、その動きは一般人の伊佐薙の目には追い切れない程のものだった。打ち合いの最中にも、定期的に那肋は気合いを入れるためか遠吠えを繰り返していた。


 しかしほんの一瞬。一八が那肋の攻撃を扇子で受け流し、那肋と距離をとったときだった。一八が両手を開いて掌を那肋と伊佐薙に向ける。


「獄炎操術―――叫喚きょうかん!」


 一八の顔には不気味な笑みが張り付いており、その詠唱と共に大叫喚で山全体に広がっていた獄炎が一気に伊佐薙と那肋の方へと向かっていった。


 神隠し。あれは神にのみ許されていたような力が、時を経て邪狼のような"神格化されている獣"にも使えるように下ってきたものだ。その力は強力で、邪狼本体や周囲にいる任意の生物に対して、世界から見えなくなる術をかけることができる。

 見えなくなるのが姿だけなのか、存在もろともなのか、それは使用した本人が選ぶことができる。


 先ほどの神隠しは一八に自分を存在ごと見えなくさせていた。だから一八は直前の自分の行動と認識の齟齬に困惑し、正確な判断ができなくなった。

 だがこれはあくまでも、一対一という状況に限った脅威。一八はこの術を使う隙を待っていたのだった。


「神隠しがどれだけ強力でも、結局ユキに使わないのならこれは避けられんぞ! なあ、那肋!」


 那肋が炎を避けながら伊佐薙の元へと降り立った。その表情は険しく、頭をせわしなく動かし続けてどうにか解決策を探そうとしているようだった。


 その間にも獄炎は巨大な竜のように二人の元を目指して向かってくる。


「くそっ、まずいな―――」


 那肋が声を漏らした、その時だった。

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