三力のイザナ

さら坊

"伊佐薙"立志編

三力の申し子(1)

 心地よい風が吹く初夏の季節。自然と一体化したような田舎の住宅街には、小さな虫の声が微かに響き渡る。

 誰もが変わらぬ日常を繰り返している中、一つだけ、喧噪にまみれた音が、激しく地面を打ち鳴らしていた。


 平坂ひらさか 伊佐薙いざなは、全身全霊をかけて足を動かしていた。


 息が切れても、足がもつれても。伊佐薙はただひたすら己の命を守るために、背後に迫る異形からとにかく逃げる。

 伊佐薙の苦労も知らない周囲の人々は、鬼の形相で逃げ続ける彼をただ冷ややかな目で見つめていた。


「あーもう、しつっこい!」


 ネクタイを解いてカバンに突っこみ、制服の第一ボタンを開けてそう吐き捨た伊佐薙は、流れるようにに通学用カバンを背負い、本気で走れるような体勢を整えた。


 時は十数分前。

 終礼と同時に高校を飛び出て、二つほど角を曲がったところで、伊佐薙はと目が合った。

 嫌な予感はしていたが、少しでも早く帰りたいという思いが先行し、周囲の確認を怠ってしまったことが招いた結果だった。


 こうなってしまってはまっすぐ家に帰ることはできない。伊佐薙は家々の塀を乗り越えたり、駄菓子屋の看板などを使って身を隠したりして、無我夢中で自分を追う異形を撒こうとしていた。

 

 伊佐薙を追う存在は、一体だけではなかった。明らかに人の味方ではない形相をしている怪物らは、複数体で群れるようにしてねちっこく追い回してくる。残念ながら、これはいつものことだった。


 見た感じ―――四、五体か。どいつもこいつも気色の悪い見た目しやがって―――これが見えるものにしか見えないってのも、不平等な話だよな。

 伊佐薙は少し首を回してそれらを視界に捉え、険しい表情を浮かべたまま、無理矢理笑った。


 一体は首から上が無いせいか歩くことも覚束無いといった様子なのに、その隣には逆に首から上が奇妙に肥大したようなやつがいる。壁を這っているやつはスライムのようにドロッとしていながらも何かの生物のようにうねっており、それでいて動きが速い。


 伊佐薙は地上を追ってきている奴らから、ふと目線を上に移した。


 でも―――一番の問題は、さっきから俺を空から目で追い続けているあいつだ。老婆のようなものが肌色の翼でふよふよとホバリングしながら、下の奴らに指示を出し続けている。

 あいつがいる限り、俺の逃げ場所は常に限定され続ける。


 あっちだあ、違うこっちだあ、といった具合で叫び散らすその姿は、まるで近所で有名な厄介おばさんのようだった。


 伊佐薙はまずあの翼ババアから逃れるために、雨宿りするようにどこかの屋根に潜り込んでは、また次の屋根の下に逃げる、といったことを余儀なくされていた。


 相手の特徴をつかみ、逃げる方法を模索する。こんな必死の逃走劇も、伊佐薙にとっては慣れたものだった。




 こんなのに追われ始めて、もう一年以上になる。十人いたら十人全員がそれを怪物と呼ぶような存在に初めて目を付けられたのは、高校一年生のことだった。


 俺は昔からこういった存在を見ることができたけど、それまでは襲われるどころか見向きすらされたことがなかった。

 まるで空気でも見るような目で俺を見つめる異形も、それはそれで気味悪かったけど―――実害はない、ということは、一つの経験則として持っていたはずだった。

 

 だからこそ、初めて襲われたときは腰を抜かしそうになった。今まで無害だった怪物達が、自分の顔を見るや否や血相を変えて追いかけてくるんだから、その恐怖といったら、どんなホラー映画にも勝ると断言できるほどだった。


 それから伊佐薙は今に至るまで、それまで以上に異形の者を避けるようになり、目が合ったり見つかったりしたらすぐさま全力で逃げるようにしたのだった。




 普段なら、こんくらいであっちも見失ってくれるのに―――伊佐薙はある程度走った後で小さなバス停に身を隠した。

 そのバス停は日光と雨を遮ることができるくらいの仕切りに覆われており、正面からでなければ姿は見えないようになっていた。


「どこいきやがったあのガキい―――おい、お前達。諦めんじゃないよ。あいつだってここでは人間同然だ。派手なことはできねえはずなんだ、まだ近くにいるぞお、絶対になあ」

「探せエ、探せエ―――」騒ぎ立てている翼ババアの下で、魑魅魍魎はゆらゆらと伊佐薙を捜し回っていた。


 少し経ったが、まだ足音や自分のことを呼ぶ声がする。伊佐薙はバス停の割れたガラスの隙間から奴らの様子を伺った。


 翼ババアの言動からして、どうやら一旦は撒けたらしい。伊佐薙は天井を見上げて肺に思いっきり空気を送り込み、それを一気に吐いた。何度か繰り返すうちに、狭まっていた視界が段々と開けていく。

 ある程度落ち着くと、伊佐薙は額の汗を拭うと同時に、バス停から少しだけ頭を出してもう一度奴らを目視で確認した。


 音でなんとなく察してたけど―――やっぱり、ちょっとずつではあるけど、近づいてきてるな。じきに、ここも安全地帯ではなくなるだろう。あの翼ババアめ、見失っても尚勘の鋭いやつだ。


 伊佐薙はまるで追い込み漁をされている魚のような気分だった。

 バレないように細心の注意を払いながら、首を回して逃げ道を探す。

 

 バス停の正面は当然道路に面しており、この道路には出るにしてもその時間はできる限り短くしたい。ともなれば、あいつらがこっちに来るまでに、どこ行くかくらいは決めとかなきゃな―――

 伊佐薙は幼い頃からの記憶を頼りに脳内に地図を作り出し、この後の逃げ道を模索した。


 辺りには数件の民家がある―――が、住人にあれこれを説明している間に追いつかれたらどうなるか分からないし、それは却下だな。

 なら駅はどうだろう。いや、それもダメだ。駅はこの道路に繋がっている坂を下った先にある。翼ババアのせいで道路に出た瞬間見つかることを考えると、どうも現実的じゃない。


 近くにコンビニかスーパーがあれば―――伊佐薙は考えた瞬間、ため息をついた。そんなものがここらにあるのなら、俺は最初からバス停ではなくそこを目指して走ってる。


 伊佐薙は悩んだ末に、視界の端の茂みに目をやった。

 バス停からは少し距離があるが、あの茂みに潜り込んでそのまま山にさえ入ってしまえば、背の高い木々が翼ババアから自分を隠してくれる。


 しかしこれは奇策も奇策で、正直伊佐薙は気乗りしていなかった。


「おまえたち、あっちだよお、あっち。そこらの家々に入ったところは見てないからねえ。絶対にあっちの方にいるんだ、急ぐんだよお」

「おおー、おおう、逃がさない、ニガサナイ」


 考えているうちにも気味の悪い声と足音は近付いてくる。伊佐薙はギリギリまで頭を回していたが、結局何も思いつかず、時間切れになると同時に一目散に茂みへと走っていた。

 

「イタ! いたよ、見つけたア!!! あっちだよ、あっち。いたよ、見つけたよお―――」


 後ろからは絶え間なく翼ババアの声が響いている。それに合わせて他の奴らもうなり声を上げながら歩みを進める。


 見つかるのは分かってたさ―――でもお前らは、この先までついてこれんのかよ。


 伊佐薙は目をかっぴらいてにたりと笑い、茂みに向かって全身で飛び込んだ。その笑みが決して余裕から来ているわけではないということは、額に滲んだ汗が証明していた。


「待て、そっちはあ―――だめだあ、入れない。ハイレナイ―――」


 翼ババアは宙に浮きながら頭を掻きむしっている。その声や挙動も一切気に留めず、伊佐薙は茂みに向かって走り続けた。

 木の枝や葉っぱが全身を撫でるようにぶつかってくる。一応手で避けながら走っているが、無限に生い茂る草木にはほぼ無力だった。

 

 もうそろそろ―――止まってもいいか―――息も絶え絶えになりながら、しばらく走った後でそう思った瞬間だった。


「えっ―――」


 何に躓いたのかも分からないまま伊佐薙の身体は前に倒れ込んで横転し、ごろごろと落ち葉で敷き詰められた坂道を転がり落ちた。木の枝が目に刺さらないように半目になって走っていたせいか、伊佐薙は足元への注意が疎かになっていたのだった。


 全身の至る所に規則性のない痛みが走る。伊佐薙は自分の身体が自然と動きを止めるまで、歯を食いしばってそれに耐えていた。


「クッソ―――しくじった」


 ようやく落ち着いた伊佐薙は、苦悶の表情を浮かべながら身体を起こした。

 首を回したり腕や足に力を入れてみる。どうやら大きな怪我はないらしい。伊佐薙はまずその事実にほっとして、己の運動神経に感謝しながら大きくため息をついた。

 

 伊佐薙は四つん這いのまま移動してすぐ側にあった土壁に背中を預け、遠くを見つめて耳を澄ませた。自分の心音が収まると同時に、周囲の音が鮮明になっていくようだった。

 風に靡く草木の音、遠くから聞こえる車の音。それらの音量の違いが、伊佐薙が茂みの奥深くに入り込んでしまったことを示していた。


 ある程度身体を休めたところで、伊佐薙は重たい腰を上げた。


 うわあ―――まじか―――


 立ち上がると同時に目に入った制服は泥や落ち葉などで酷く汚れており、伊佐薙はつい声を漏らした。


 最近雨降ってなかったのが不幸中の幸いだけど、これ、明日までになんとかなるのか―――? 

 顔をしかめていると、その瞬間伊佐薙の背後で何か物音がした気がして、伊佐薙はすぐさま身を伏せた。バッグで顔辺りを隠し、姿勢を低くしたまま先ほどまで座り込んでいた場所まで移動する。


 一定のリズムで土を押すような、キシキシという音。間違いない、何かの足音だ。


 伊佐薙が山に入りたくなかった理由。それは服が汚れるからでもなく、迷子になるからでもなく、ただ一つ―――"山のあやかしは町中にいる妖より強い"というのが定説だからだった。




 妖とはさっきまで伊佐薙を追っていた異形のことを指し、ほとんどの人間の目には見えないものの総称だった。


 山には大量の妖がいる。それはひとえに、人間が少なく妖にとって都合の良い場所であるからなのだが、それだけの妖が一カ所に集まれば当然、妖どうしの諍いは避けられないものとなる。


 その諍いは彼らの間に強弱を生み、自然と階級を作り上げるに至る。結果、山では妖が町中よりも一層熾烈な争いを繰り広げることとなり、全体の妖のレベルを底上げしてしまっているのだ。


 そんな山という環境でトップに君臨する妖なんてのは、町中ではまず見られないレベルの妖であり、関わったらまず無事では帰れないとされている。




 この山にだって、そういう強力な妖がいないとも限らない。

 伊佐薙がこの山で起こる物音に全力で怯えているたのは、これが故だった。

 

 息を潜めて、自分を完全に自然の一部だと思い込む。その間にも足音は近付いてくる。


 ―――それにしてもリズムが一定すぎる、まるで目標が決まっていて迷いがないようだ。

 これは―――見つかっているかもしれない。そう想像するだけで、伊佐薙は身の毛がよだつ思いだった。

 

 それでも伊佐薙は、藁にも縋る思いで顔だけは隠し続けた。

 奴らが自分の何を判断基準にして追っているのかは分からない。ただ、もしそれが顔だった場合、顔だけ隠せればなんとかやり過ごせるのではないか―――そんな淡い期待を胸に、伊佐薙はバッグに顔を埋めた。


 そのとき、ピタリと足音が止んだ。その存在は真上にいる。足音からそいつの場所は割れていた。


 まずい―――頼む―――! 伊佐薙は目を閉じて息を殺した。

 

「あのう、大丈夫ですか。怪我、してませんか。すごい音がしたから、来てみたんですが」


 その声は疑いようもなく、人間そのものだった。しかしまだ伊佐薙は油断しなかった。

 過去にも"人間の姿を使った誘い出し"といった手法で伊佐薙を騙そうとしたやつがいたからだ。それに、まだ操られている可能性も捨てきれない。


 まだだ、まだそっちを向いてはいけない。そう思ったときだった。


「ああ、大丈夫です。すいません、心配かけてしまって」


 伊佐薙は顔を隠していたカバンを腕に持ち替え、その存在の方へと声をあげた。


 そこにいたのは至って普通の農家のような格好をした小太りの男で、彼は鍬のようなものを杖にして坂の上から伊佐薙のことを見ていたのだった。


 良かった、普通の人間だ。多分操られたりもしてない、伊佐薙は直感でそう判断した。


「そうですか? ならいいですけど、見たところ学生でしょう。帰り道とか、分かりますか」


 伊佐薙は目を輝かせた。きっと彼はこの山を熟知している。彼に頼めば、安全に下山できるかもしれない。


「はい、大丈夫です。今学校の課題で植物の観察してたんですよ。ここら辺結構珍しいものも多いので、もう少し見ていくことにします」


 伊佐薙の口は期待していることとは真逆のことを口走っており、その顔には不敵な笑みが張り付いていた。


 違う、違う違う。俺は、助けを求めたいんだ。今すぐ、彼に頼ってここから出たいんだよ。

 頼むから、俺の心を読み取ってくれ。この際能力でもいいから、彼がそういう能力を持っている、とかでもいいから―――!


 その叫びは、決して口から出ることはなかった。


「そうですか、なら安心しました。私ね、ここにタケノコを掘りに来たんですよ。しばらくはこの辺にいると思うので、またなにかあったら言ってください」

「タケノコですか、いいですね。ありがとうございます、そうさせて貰います」


 鍬を振って爽やかに去って行く男を綺麗なお辞儀で見送りながら、伊佐薙は自分の唇を噛みしめていた。


 また、邪魔しやがったな―――! 握りしめる拳には血が滲んでいた。


 能力名、多重面相たじゅうめんそう―――この能力は、伊佐薙だけが持っている個性であり、呪いだった。




 遙か昔から、妖と人間は時に争い、時に慈しみ合いながら関わり合ってきた。

 それが当たり前なこの世界には、人間や妖に宿る"三つの力"が存在する。


 一つ、それは妖力ようりょく。妖が扱う力のことを指す。


 妖は魂を核とし、外殻を己の妖力で作り出して実体化させている。つまり妖とはいわば妖力の固まりであり、その妖力の種類によって見た目も変わるのである。


 本来、妖力といえばそれだけのものだが、中には妖力が変質した"妖術ようじゅつ"という独自の力を持つ者も存在する。それを持つ妖は即ち強い妖ということになり、そういう奴らは総じて"妖怪ようかい"と呼ばれたりする。


 そしてそんな妖怪の中でも更なる上澄み―――妖の頂点と言われているのが、大妖怪だいようかいと呼ばれる伝説級の妖なのである。


 二つ、それは能力のうりょく。選ばれた人間が神から授かったギフトのことを指す。


 能力は選ばれた人間が生まれる際にランダムで授けられ、その者の成長と共に能力も成長すると言われている。

 能力は人間が持ちうる異能の中で唯一、妖に直接干渉できる力であり、故に能力は時に"人類の神器"と呼ばれることもある。


 能力の種類は多岐にわたるが、それらを極めることさえできれば、その人間は人間を超越した存在にもなれるという。第一、そんな者が現れれば、の話ではあるのだが。


 三つ、それは数式すうしき。人間が編み出した数式を元に、現実世界のあらゆる数値に干渉できる力のことを指す。


 古代から人類はこの世の理を数多の数式で解明してきたが、それと同時に人類は妖に対しての対抗手段も研究し続けていた。

 そしていつの日か人類は、既存の数式の変数にあたる数値を観測し、それを自由に操作することができるようになった。それが数式である。


 当時の数式使いは数式の力が自分らの代で途絶えてしまうことを危惧し、自分らの死後に数式だけでも、能力のような形で未来の人間達へ備わるように設計した。


 しかし、数式は妖に対して直接干渉できないという欠陥があった。それ故に、数式は"人間特化の異能"と言われることもあるという。


 三つの力はそれぞれがそれぞれを監視し続ける。どれかが膨れ上がれば、他の二つで抑えつける。そうして何も持たない人々の平穏は守られている―――多くの人間はそう教わっているし、そう信じている。

 だから人々は皆、のんきな顔をして毎日を送っていられるのだ。


 しかし、現実はそんなに単純ではなかった。

 

 三つの力、人呼んで三力さんりきは、それこそ種類が明確に分けられているからこそ三権分立のような見方をされるが、ある者に力があれば、それを行使するのもその者次第。

 はなからそんな理想論は叶うはずもなかった。

 

 そうして生まれる三力による被害や事故を、人々は"三力奇譚さんりききたん"と呼んでいた。




 多重面相、これは生まれながらに伊佐薙に宿っていた能力だった。


 その性質は"あらゆるコミュニティへの適応"。ひとたびこの能力を使えば、伊佐薙はどんな環境においても違和感のない存在となることができる。

 それがたとえ、難関大学の研究生で構成されたコミュニティであっても、老人ホームのおばさま達で構成されたコミュニティであっても―――例外はなかった。


 こう聞くと、この能力が非常に優れたもののように聞こえるかもしれない。だが、この能力には重大な欠点がいくつかあった。

 

 まず、この能力を使ったところで、今まで備わっていなかったような知識や身体能力が宿るわけではない。あくまで"周囲の人間にとって違和感のない存在になる"ことができる、というだけで、いきなり周りに感化されて秀才になることはないのだ。

 

 もしこの能力を凄腕のスパイとかが持っていたなら、きっとどんな状況でも身分を偽れる天才スパイになることができただろう。伊佐薙は何度もそういう妄想に耽ったことがあったが、結局宿っているのはなんの取り柄もない一高校生。なんとも勿体ない話だ。


 そしてもう一つ―――これは多重面相に限った話ではないらしいが、能力には伊佐薙にとって一番厄介な欠点があった。それは"能力の制御が効かない"という点だ。


 伊佐薙には、多重面相を発動する権限がない。つまり、能力のオン・オフが効かない。これが、伊佐薙が能力をだと言い張る所以だった。

 伊佐薙の多重面相に至っては、ほとんど常時発動状態のようなものだった。物心ついた頃から伊佐薙は満足に人と関われていなかったのも、このせいだ。


 辛い、苦しい、助けて欲しい。そんなことを思っても、相手が自分を本気で助けたいと思っていてくれない限り、勝手に多重面相が発動して当たり障りのない言葉だけが口から漏れ出る。

 しかも能力によって態度までもが完璧なせいで、誰も自分が本心を言えていないなんて気付かない。


 そんな能力を持っていたからか、幼い頃から伊佐薙の周囲には人だかりが尽きなかった訳だが―――伊佐薙からしたらそんなものは何の意味もなかった。

 どれだけの人に囲まれようが、心の中はただ、ずっと孤独が付きまとっていた。


 今もそうだ。伊佐薙の完璧な演技のせいで、男は自分に背を向けてすたすたと去って行く。自分の助けが届くことなど、今後一切無いのだろう。


 伊佐薙は力なく立ち上がった。そうだ、これで良かったんだ。彼を妖との追いかけっこに巻き込まずに済んだのだから。見たところ、彼には妖が見えていないらしい。そんな人間が、妖に襲われなくて本当に良かった。

 伊佐薙はしばらくそのようなことを呟き続け、同時に自分に言い聞かせた。


 今はとにかく歩こう。見たところ、この山は思ったより妖がいないらしい。嬉しい誤算だ。


 伊佐薙は再び顔をカバンで隠しながら、とぼとぼと道なき道を歩いて行った。

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