【KAC20242】ダブルブッキング

@ahorism

ダブルブッキング

 ある日曜の昼下がりのこと。某不動産会社の事務室で、一人の男が悩んでいた。

 駅から徒歩五分、日当たりの良い1LDKの良物件に、内見の予約が入っていたからである。

 同時に、二件--。


 今から両者に謝罪の電話をしようにも、予定の時刻までもう半刻もない。気が付くのが遅すぎたのだ。

 こうなっては仕方ない、と、男は一人覚悟を決め、来訪者たちの到着を待つことにした。 


「すいません、内見の予約をしていた者ですけども」

 まず若い男性が、受付に現れた。どうやら内見を予約した一人のようだ。

「はい、承っております。こちらの物件ですね。実は取り入ってお願いがございまして--」


 男が事情を説明しようとしたその時、もう一人の来訪者が姿を現した。

「本日こちらの不動産で物件の内見を頼んでいたのですが」

 二人目の客は、若い女性だった。



「ですので、大変申し訳ないのですが、お二方ご一緒に物件の方を案内させていただけないかと」

 冷や汗を浮かべながら、男は事情を説明して懸命に頭を下げる。

「別に僕は構いませんが」

「私も、特に」

 よかった、と男がホッとした瞬間、続く女性の言葉に緊張が走った。


「ただ、内見の後、その部屋で契約したいとなったら、どうするのでしょう?」

「それは僕も気になっていました。まだこの方との契約はまとまっていないんですよね?」

「まさか早い者勝ちなんてことには、しませんよね」


 しどろもどろになりながら男は懸命の弁解を行う。

「それは、その。お二方で話し合っていただくということで。その」

「私はこの部屋でいいかも、と思ってここへ来ているんですよ」

「僕だってそうです。こんな良物件、逃したくありません」

「ええ、ええ。それでは、ひとまず物件を見てから考えられてはいかがでしょう。車の方を用意しますので」

 と、男は半ば逃げるように裏手の駐車場へと去っていった。



 移動中、車内は気まずい沈黙に溢れていた。男も、後ろめたさからか言葉を発することをしない。

 目当ての建物に到着すると、男はこれ以上車内にいたくないかのように、駆け足で階段を上がって行った。


「こちらのお部屋になります」

 さあどうぞ、と男は二人を部屋へと案内する。


「キッチンは随分と新しいんですね」

 男性は調理場の方が気になるようで、棚の扉を開け閉めしたり、換気扇をつけたりしている。

「はい、数年前に取り替えたばかりでして」

「それはいい。今の部屋はキッチンが狭くて、苦労してるんですよ」


 一方女性の方は巻き尺を片手に、部屋中の寸法を測っていた。

「引越しを気に家具を新調しようかと思っていまして」

「そうですか。この間取りなら、ドラム式の洗濯機にも対応できると思いますよ」

 女性は納得したように頷くと、手帳に何やらメモを書き込んでいった。



 あらかた内見が終わったのも束の間。男には最大の難所が残っていた。、男女は二人とも興奮した様子でいる。

「お部屋の方、いかがだったでしょうか……?」

「すごくいいです! 僕はすぐにでも決めたいぐらいです」

「私もとても気に入りました! ぜひこのお部屋にしたいのですが」

 む、と睨み合う二人。


「そ、そうですか。それはよかった、です……」

「よくはありません! 先に内見を申し込んだのは、私のはずです!」

「いやいや、今日の内見の受付は、僕が先に済ませてる!」

「でしたら、これからお二人で話し合っていただいてですね……」

 二人の剣幕に、男の額に汗が浮かぶ。男の期待とは裏腹に、二人は一歩も引く気がないようだった。


「それはできません、これから予定があるので」

「僕もです。すぐにでもここを出ないと、予約した映画の上映に間に合わない」


 ふと、女性の顔色が変わる。


「映画? もしかして今日公開の新作ですか?」

「はい、あなたも見に行かれるんですか?」

「そうなんです! 駅前の映画館ですよね? もう、本当に待ち遠しくって」

「僕もです! もう数ヶ月も前から予約してたんですよ」


「あの、もしよろしければですが。映画館まで、お送りいたしますよ」

 物件そっちのけで盛り上がる二人に、こちらの不手際ですので、と男は申し訳なさげに切り出すのだった。


 映画館へ向かう車内で、二人はどうも後日物件について話し合うことで合意したらしかった。

 物件を、二人の仮予約物件とすること。抜け駆けを避けるために、どちらかから電話があればもう片方に確認の電話をすること。

 この条件でなんとか納得してもらい、二人を車から下ろすと、男はようやく胸を撫で下ろすしたのだった。





 数日後。不動産の窓口に、来客が現れた。

 男が挨拶に行こうとすると、先日の男女が、二人並んで腰掛けている。


「実は僕たち、同棲しようかということになりまして」

「この部屋なら、一緒に生活できるかと思うんです」


 まさか今さら同居不可とは言えませんよね、と無言の圧力を女性からは感じる。


「あの内見の日、キッチンをじっくり調べてる彼を見て、家庭的で素敵な人だなって思って」

「僕も、間取りをしっかり測ってるのを見て、すごくしっかり者なんだな、と感心しちゃって」


 映画館で意気投合して、付き合うことになったんです、と二人はにこやかに語った。


「それはよかったです。その節はこちらの不手際で、大変ご迷惑をおかけしました」

「いえいえ、むしろ幸運でしたよ」

「そうです、こんないい人と出会えたんだから」


 物件の契約書にサインをすると、二人はこう言い残して去っていった。



 これから、結婚式場のに行くんです、と。

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