正論武装

小狸

短編

「前向きで、確固たる自分を持って、人に過度な心配をかけることなく、自立できる普通の人間になりたいのですが、どうしたら良いですか」


 私は先生にそう訊ねた。


 当たり前のように、当たり前のことを聞いたつもりだったが、先生はしばらく考え込んだ後――


「それはできないと思います」


 と、答えた。


白瀬しらせさんは、少々『普通』の基準が高いのではないでしょうか。いえ、少々ではありませんね、かなり、です」


 先生は訂正した。


「それは、何故でしょうか」


「何故――かと問われるとまた難しいですが、世の中には『前向きで、確固たる自分を持って、人に過度な心配をかけることなく、自立できる普通の人間』というのは、存外いないのですよ」


「いない――そうでしょうか」


 私の周囲には、たくさんいるように思える。


 少なくとも、普通に高校に通って、普通に勉強できている人達が当てはまると思うし、実際すごいと思う。


 私がどれだけ努力したところで、家庭の機能不全と、いじめと、教師運の悪さで、私の頑張りは、中学時代で全て水泡に帰している。


 受験でやっと入った県立の進学校には、そんな私の必死の頑張りや努力などを簡単に吹き飛ばすくらい当たり前に幸せを享受してきて、それでいて特技を持ち、容姿にも恵まれ、勉強もできてしまう者達が大勢いた。


 そんな人々と自分を比較してしまって、壁に頭を何度もぶつけたり、かきむしったりしてしまうことがあった。


 中学の時点で、私の人生のエネルギーはほぼ消費したようなものなのだ。


 やがて学校に行けなくなった。


 あまりにも、クラスメイトが、眩し過ぎたのである。


 だから私は今、先生と話している。


 世間体を気にする母親が、勝手に精神科の予約を取ったのである。


「ええ。前向きさ、確固たる自分、他人に心配をかけない、自立している――それらは全て社会的に見て良い人間です。そんな良いだけの人間は、存在しません。世の中の人々は、もっと混沌の中で生きています、辛く、苦しく、悩みを持っています」


「だったら――」

 

 私は、喉が裏返りそうになるのを必死に防いで、続けた。


「だったら私が見た人達は、何なんですか。皆当たり前に仲の良い家庭に育ち、当たり前にいじめを受けず、当たり前に教師に恵まれ、当たり前に特技を持ち、当たり前に生きているじゃないですか。皆が苦しいことなんて、辛いことなんて、分かっているつもりです。だから皆我慢して生きていようって、いうんですか。そんな息苦しいのが今の世界だったら、今の常識だったら、私は死にたいです」


「そう、ですか」


 先生は、少し考え込んだ。


 どうやら、あまり口の回る先生ではないらしい。


「皆苦しい、皆辛い、でも――白瀬さんにはそうは見えない。それはですね。多分、白瀬さんの周りの方は、苦しさと辛さの隠し方を知っているのですよ」


「隠し方を、知って?」


「ええ。だって、毎日苦しくて、毎日辛かったら――言葉の反復になってしまいますが、苦しいでしょ、辛いでしょ。それは死にたくなっても当然です。ですので、人間は、生きるための機能として、頭の中の記憶や考え方を、良い方向に持っていく、或いは悪いものを忘れるようにできているのです」


「だったら――」


 だったら、私が辛いのは、何故なんですか、と。


 私は問うた。


「それは大抵、思春期の周囲の環境から、身に着くものです。お母さまのお話や、白瀬さん本人からの話をお聞きする限り、相当凄惨な環境に身を置かれていたらしい――最も周囲からの影響を受けやすい思春期にそうなると、ゆがみが、起きている場合があるんです。認知のゆがみ、という言葉があります」


「ゆがみ――ですか」


 それは、曲がっている状態を示す言葉、だったか。


「ええ。例えば、白瀬さんの考える『普通』像は、はっきり言って、一般的な『普通』像とはかけ離れています。言ってしまえば、完璧超人です。その差異が均されないまま、高校生になった、大人に一歩近づいた。白瀬さんが籍を置いているという高校は、県でも有名な県立の進学校ですよね、だったら余計、思春期に良質な環境で育った方が多いと思います。白瀬さんが今、辛いのは――自分の中で勝手に決めた『普通』像を一般化して、自分の現状に当てはめているからなんです。お話を聞くに、相当、環境が悪かったんでしょう。苦しかったと思います。辛かったと思います」


「わ――私は」


 何故か。


 何故だろう。


 私は、涙が出そうになった。


 いつもそうだ。


 本音を話そうとすると、泣きそうになる。


「私は――普通になるために、もう無理をしなくて、良いんでしょうか。苦しいと、辛いと、言って、嘆いて、叫んで、泣いて、良いんでしょうか」


 もう、ちゃんとしなくて、良いんでしょうか。


「ええ、勿論です」


 先生のその言葉と共に。


 私はせきを切ったように、泣いた。


 こうして。


 私は、一度目の受診を終えた。




(了)

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