4話 最後の奇跡

 3方向から囲まれるように熊に追い詰めれられた状況――。

 生きた心地などまったくせず、だがそれがかえって現実感を薄らげさせ一周回って恐怖が緩和されていたのが幸いだった。

 とはいってもこの状況を安全に解決する手段が思いつくわけではない。これではどう逃げたところでほぼ背を向けて逃げる形になるし、そうじゃなくてもここまで意図的な包囲をされたんだ、いつタイミングを計って襲ってくるかは時間の問題というもの。

 覚悟を決めて足元に転がる枝から太めで長いものを2本拾い上げる。


「ラスク、動けるか?」

「う、うん、腰はもう治ってます」

「ならよし」


 いつもの虚勢からくる軽い口調を返せるぐらいには自分が平静なのを改めて自覚する。

 目や鼻、おおよそ生き物の急所という急所にクリティカルさせれば、いくら熊といえどただじゃすまない。

 やりようはある。ああそうだ、たとえ相手が2mはある猛獣だとしても弱点がある以上はやりようがあるはずだ。

 それが99%不可能だと突きつけられたとしても、相手が血の通った生き物であるのならば1%をこじ開ければ勝ち取れる。

 やらなければ0だがやれば0じゃない、ならやるかやらないかじゃない、やるんだ!


「……すまないな、ラスク。せっかくこうやって会えたっていうのに」

「ううん、クロマメさんと一緒だったら、わたしどんなことでもがんばれます……たとえまた死ぬことになったとしても、それでも一緒だから……」

「そうか、けどな」

「うん、だけど!」


 背中からゆっくりと降りていくラスクに拾った枝を渡し背中合わせに槍のように構えていく。

 ――どこか望んでいたこういう展開……ゲームの中で仲間たちに頼られていた自分がリアルでも実践できる日がくることを……。

 だけど実際に相対してしまえばそれどころじゃない、ラスクは死なせない。僕も死なない。そのためにはどうすればいいか、そう考えることしか思い浮かばない!


「簡単には死なない、足掻いてやるぜ!」

「簡単には死にません、足掻きます!」


 覚悟を察したのかたまたまタイミングがかち合っただけか、こちらが構えたのと同時にまずは1頭の熊がこちらへと突進してきた。


「来るぞ! 左右に分かれて目や鼻、急所と思えるところを確実に狙うんだ!」

「はい!」


 やはり仲間割れを恐れてか一斉には襲ってこない。さらに左右に分かれたことで一瞬だが熊の動きが止まり二足歩行になりながら見回している。

 合図も初動自体も完璧と言っていい。転移の恩恵なのは間違いないが体から湧き上がる高揚と力、初動で見えたラスクと僕の運動能力から常人以上に動けたのだ。

 憶測と言うには分の悪い賭けだったが心の中でどこか期待していたし自信もあった。

 転移の影響で理想的な肉体状態に変化したのだと聞いたときから、つまり……僕とラスクがゲームで培った知識と経験がダイレクトに表現できるのではないかと。

 そして僕は得た、その確信を!


「ふっ!」


 その経験から来る勘が告げる。狙うなら今!

 屈んだ姿勢からのそっと立ち上がるわずかな無防備な瞬間、棒の尖ってるほうを槍の穂先に見立て片手を逆手に持ち替え、もう片方で根本をしっかりと押さえ込むように持つ。

 そうして杭を打ち込むように構え串刺しにするために体重を乗せながら全神経を一点に集中させ――貫くッ!


「おおぉぉぉっ!」


 ――お見事――


「ッ――」


 カラン、カランと乾いた音が脳裏に響き、それに続いてどこか面白がりながら這い回り絡みつく俯瞰的ふかんてきな意志を感じる声が頭の中で聞こえた気がした。

 なんだ――?


「グゴあぁぁッ!」


 ほんの一瞬の刹那に意識を奪われたが耳をつんざく獣の雄叫びにはっとする。


「あ、当たった?」

「すごい!」


 奇跡……そう、奇跡としか言いようがない、が。この際そんなことはどうでもいい。

 事実なのは見事に僕の繰り出した突きが熊の目に串刺しにするように突き刺さり、柔らかいビー玉を潰したような感触と共に熊を大きく怯ませたということ。


「グモォゴァッ!」

「くっ!」


 痛みに暴れる熊の動きに耐えきれず棒から手を離してしまう。


「クロマメさん!」

「大丈夫だ!」


 他の2頭が加わらないように警戒をし始めてくれているラスクの声に僕は威勢の良い調子で返す。

 そう、大丈夫……大丈夫なんだ。奇跡は起きた、なら後は勢いに乗じ畳み掛けるだけ!


「グゥッ……」

「今だ!」


 痛みに少しずつ慣れてきているのかうめきながらも熊の暴れる様子がわずかに治まり、熊の動きと共に揺れる棒の根本を正面に捉えた瞬間を見逃さず僕は即座に動き出していく。

 その辺に転がる手の平ぐらいの大きさのある石を鷲掴みにし、それを熊に刺さった棒に目がけて石をカバーにした掌底を繰り出す。


「潰れ、ろォッ!」


 足から腰にかけて全身の力が腕に伝わっていく、後一押し――後一押し、後一押し!

 押し付けていく力に何度も何度も力を込めていき、最後の力を込めたところでぶちゅっと大きな膿が潰れるような嫌な感触が伝わってきた。


 ――またもやお見事――


 またあの音と声……。

 2度ともなると幻聴や気のせいとも思えない、思えないが……今はそれに気を取られている場合じゃないんだよ!


「はぁ、はぁ……」


 謎の声を払拭するように熊のほうへと意識を向け凝視する。

 よろよろと動き最後に大きな痙攣を起こしたかと思うと、そのまま熊はその巨体を沈ませうつ伏せに倒れていく。


「や、やった……?」


 狙い通り棒が眼球を貫き脳まで達したのだろう、いくら熊といえどそこまでのことをされれば無事ではすまない。

 もっとも、ここまで上手くいくとは正直思わなかったけど……。


「クロマメさん!」

「大丈夫だ、まずは1つ」

「うん!」


 駆け寄って支えようと手を差し出してきたラスクの手を取り体勢を立て直す。

 まずは1つ……なんとかやった、やったんだがどうだ? どう来るよ?

 残りの2頭を視界に収めながら足元から再び太くて長い枝を拾い上げて構える。


「クロマメさん、次の作戦は?」

「次……」


 仲間がやられて激昂する? いいや、言っちゃ悪いが野生動物はそんなセンチメンタリズムな情動は持ち合わせていないはず。

 子供がやられたならまた別だろうが、どう見てもこいつらは大人。なら仲間がやられたのを見て我が身の安全を優先して警戒するか引き下がるか……少なくとも闇雲に襲いかかったりはしない、野生っていうのはそういうもんだ。


「穴は空いた。ならこれ以上刺激しないようにして、背を向けずに後退して離れよう」

「はい」


 ここまで刺激しておいてなんだと自分でも思ってしまうが、1頭を倒せただけでも奇跡すぎる。

 そう考えれば残りの2頭を相手して凌ぐという奇跡を期待するよりかは、仲間がやられて警戒しているうちにさっさとこの場から退散するほうがまだ確率が高い。

 こちらからこれ以上仕掛けてこない体勢を取れば、向こうだってうかつなことはできないはず。そんなことをすれば返り討ちに合うかもしれないんだからな。

 少なくとも感情的になった人間ならいざ知らず、うかつなことが死に直結すると本能的に知っている野生動物なら適用できるやり方だ。


「いいか? ゆっくり行くぞ」

「う、うん」


 ラスクを傍らに立たせるようにしながら1歩、2歩と徐々に後退する。

 歯を剥き出しにして激しく威嚇をしているがなんとか少しずつ距離が離れていく。

 距離にして目測10m……まだまだ安全圏というには苦しい。


「ふぅ……ふぅ……」


 息を整えていこうとすると心臓の鼓動が激しくなり緊張状態が限界近くまで達して軽くめまいまで覚えているのがわかる。

 はやるな……はやるなよ。もう少しで安全が確保できる……そうよぎる思いが気持ちをはやらせ焦りを嫌でも生み出していく。


「クロマメさん……」

「あっ……」


 そんな僕の思いを察してか、ラスクが構えを解かないようにしながら深く体を寄り添ってきた。


「大丈夫です、クロマメさん。わたし、どんな結果になってもクロマメさんを信じ続けますから」

「ラスク……」


 たったそれだけ……それだけのことだというのに、まるで鉛で固められてしまったかのように重かった心が軽くなっていく。

 彼女の優しさに涙がこぼれそうになる。感謝の言葉を紡ぎたくなる。


「僕は……」


 ――だが。


「クロマメさん!」

「ッ!」


 そんな優しさに浸ることを許してくれるほど現実は甘くなかった――。


「クッソがぁッ!」


 2頭の熊が同時にこちらへとかけ走ってきていた。

 どうする――? どうするどうするどうするどうする!

 きっかけはわからないが違うそうじゃない、理屈なんて考えている場合じゃないどうすればいいかを考えろ!

 考えろ――! 考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ!


「くっ、迎え撃つ! カウンターで急所を突け!」

「は、はい!」


 行動に移るのが決して遅かったとは思えない、ただ熊のスピードに対応するにはあまりにも距離が〝足りなかった〟。

 ダメだ! 間に合わない――!


「させねえッ!」


 感情のままにラスクの前に飛び出し棒の中間を盾にするように熊の突進を受ける。


「クロマメさん!」

「ぐッ……! あぁッ!」


 いてぇ……い、てぇ……。

 突進の直撃はかろうじて防げたものの棒は割り箸のように砕け、反動でラスクもろとも吹き飛ばされてしまった。

 骨が……骨がやられた……死ぬ……死んでしまう。


「クロマメさん……クロマメさん!」

「はぁ……はぁ……」


 ラスクの悲痛な叫びが聞こえる……そうだ、死なせるもんか……彼女だけでも、死なせて……たまるか……!


「クロマメさん……? なにを?」

「逃げ、ろ……」


 両腕で支えるようにして隙間を作るようにラスクに覆いかぶさる姿勢を取る。


「とっさのことで熊たちがまた警戒をしてくれている……今のうちに僕を囮にして……はぁ、はぁ……隙間は作っている……逃げれるはずだ」

「イヤです! イヤですよ、クロマメさん! 死ぬときは一緒って!」


 ラスクの目から溢れてくる涙を直視できずに目をつむってしまう。

 くそっ、くそっ……なんだよこれ、こんなのってねえよ……。

 ニートだからってせめて少しは体を鍛えておけば、もう少しはなんとかなったのか……?

 ちげえ、ちげえよ……そういう話じゃないだろこれは……。

 せっかくやり直せると、救われると思ったのになんだよこれっ……ありえていいのかよこんなこと……。

 ひでえよ、上げるだけ上げて下げるなんて……こんな結末、認められるかよ……!

 神よ……! 願ったことなんかろくすっぽなければ悪態ばかりついて都合がいいのはわかってるけどよ、もし本当に居るのなら救ってくれ……!

 力や能力を願っていたら、だなんていまさら言わねえ……だけどラスクを……せめてラスクだけでも!

 神よ、救え! 救いやがれよぉッ――!


 ――実に見事――


「ッ――」


 奇妙な感覚が僕の意識を包む。

 まるで時が止まり魂だけが抜け出したかのように思わせる不思議な感覚。


 ――素晴らしき願いと想いだ。塵風情ごみふぜいにしては賞賛に値してあげよう――


 僕の頭に何度となく聞こえていた声、今度ははっきりと響いてきている。

 侮辱的なものなどという分かりやすく甘い感情は感じない……ただただ俯瞰的で上から見下ろす存在だと感じさせる超然的な〝なにか〟。

 僕だけじゃない――生きとし生けるもの形あるものすべてを見下し、つまらないものだと諦観した抑揚のない声。

 その声を直感的に気に食わないと感じたが、だけどそれがなんだ。おおよそ神とは思えない声の主だとしても関係ない、神でも悪魔でも邪神だったとしても構わない、奇跡を……奇跡を起こしてくれるのなら――!


 ――元よりフェアにするため君たちに与えられた奇跡の権利だよ。だがいいのかね? これまでに君は奇跡を2度も起こし、君に与えられた奇跡の権利は残り1つしかない。さらにここで奇跡を行使したとしても、それは君自身に作用する形ではあらわれないだろう。それでもいいと?――


 変な御託ごたく饒舌じょうぜつに並べている暇があったらさっさと奇跡を起こせ! 出来ないなら見下して悦に入ってんじゃねえよ!


 ――ふふふ、よかろう――


「ッ――!」


 不思議な感覚が途切れる。ほんのわずかな刹那の瞬間を長く味わったかのような、そんな感覚。


 ――君に与えられる最後の奇跡。その意味をしっかりと〝刻む〟といい――


「クロマメさん……!」


 時が動き出す――。


「大丈夫」

「クロマメさん……?」


 涙でぐしゃぐしゃになったラスクの頬にそっと手を触れさせるとぬくもりが伝わってくる。大丈夫、僕の奇跡が君を守ってくれる。

 ……ごめんな、悲しい思いをさせてしまう。約束を守ることだってできない。それでも、君だけは――。


「ごめんな、ラスク。ありがとう」

「クロマメさん……」


 ああ……素直にこの言葉をもっと言えればどれだけよかっただろうか。たった2つの言葉だというのに、ここまでならないと言えないなんて……ほんと、不器用でダメなやつだな、僕は……。


「ゴォァァッ!」


 熊の雄叫びが聞こえる。おそらく警戒を解いてこちらへと向かってきているのだろう……。

 これで……本当に終わり、か……。

 したくもない死の覚悟をし、涙がラスクの頬に落ちるのを見つめ、そして――。


「――――」


 声にならない獣の雄叫びがしたのと同時、激しい轟音と熱風が背後から吹き荒れてきた。


「……今の、は?」

「誰か、います……」


 ラスクの言葉に振り返ると霧に包まれた大きな人影が見え、身の丈ほどもある巨大な戦斧せんぷを担いでいた。

 あれが奇跡? ……霧? なんで霧が?


「おう、大丈夫かのう? ご両人」


 どっしりと低い声が人影からすると徐々に霧が晴れていき人影の姿がはっきりと現れていく。

 バケツ型のフルフェイスの兜に肩から手にかけて伸びた装甲が目立つ全身を覆うよう着込んだ黒い光沢を帯びた黒鉄の鎧、フェイス部分はオープンしており無精髭を生やした初老の男の顔が覗かせている。


「クロマメさん、あれ……」

「あ、ああ……」


 ラスクの言わんとすることはすぐにわかった。

 男の足元には、さっきまで僕たちを食い殺さんとしていた2頭の熊の死体が転がっていたのだ。

 それが意味するところは1つ――。


「クロマメさん、わたしたち……」

「ああ、ああっ……!」


 助かったんだ、僕たちは……ラスクも僕も助かった。目の前の男に助けられた、奇跡が起こったんだと。


「立てるか?」

「あ、ありがとうございます」


 近寄ってきた男から差し出された手を取り、ラスクにも支えられるようになんとか立ち上がっていく。


「なんのなんの、熊には悪いが民を助けるのは騎士の役目でな」

「騎士?」

「騎士様?」


 期待通りの反応だったのか男は年甲斐もないようなふふんとした笑みを浮かべてくる。


「ワシは赤熱のアンダルギス、何はともあれ無事なようでなによりだ」


 唖然とする僕たちの様子などお構いなしに男はガッハッハッハッと豪胆に、とても気持ちのいい笑い声を森中にこだまさせていった。

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