第4話 お弁当とお手紙

 意識がふわふわと揺蕩たゆたう。


 前も後ろも、右も左も、上も下も分からない。でも柔らかい感触に包み込まれ、とても温かい。

 耳に届くのはくぐもった音。近いのか遠いのか分からない。

 まるでプールの中を泳いでるみたいだ。


「う、うん……」


 呻き声を上げて目覚めた藤次郎が目にしたのは知らない天井だ。周囲をぐるりと白いカーテンに囲まれ、かすかに消毒液の匂いがする。人工的な清潔過ぎる匂いだが、嫌いではない。


「どこだろう、ここ」


 藤次郎は布団の中に横たわっていた。布団は温かいがベッドは少し硬く、お世辞にも寝心地が良いとは言えない。それでもぐっすり眠っていたのか、まとわりつくようだった睡魔は消え失せていた。


「失礼します。先生、伊達くんは目を覚ましましたか」


 きぃっと蝶番が軋む音と共に女子学生の声がした。声の主はカーテンの向こうで別の女性と会話を始める。会話の内容が自分を案じるものと分かるまで少し時間を要した。


 やがて会話が途切れるとカーテンの端がそっと揺れ、内側に人が入ってくる。


「あ、やっぱり蘆名あしなだったか」


「伊達くん! 目が覚めたの!?」


「うん、たった今」


 藤次郎は身体を起こして目を丸くした蘆名あしなかえでの顔を見た。


 蘆名楓は同じ学科の学生で、しかも小学校の同級生だ。当時はおとなしい少女だったが黒髪をブラウンに染め、ワンポイントのピアスをつけるなど、すっかり都会の大学生らしくなっている。もっとも、素朴な人柄はあまり変わってなくて今でも自分と友達付き合いをしてくれていた。


「ここ、どこ?」


「大学の医務室よ。伊達くん、表で急に倒れたの。それでここまで運んだの。覚えてない?」


「まったく。蘆名が運んでくれたの?」


 華奢な楓にはかなり難儀しただろうと察せられる。


「まさか。通りかかった男子の手を借りたの」


 そういうことか、と得心した。


「伊達くん、アルバイト全部無くなっちゃったんだってね。それでご飯食べてないのよね?」


 ベッド脇の丸椅子に腰掛けた楓は眉をハの字にして唐突に切り出した。


「な、なぜそれを!?」


「仁和寺くんから聞いた。ここに運んですぐに駆けつけたの。その時にね」


「余計なことを……」


 頭を抱える藤次郎。見舞いはありがたいが口の軽さは頂けない。


「運んでる時もずっと『お腹空いた』ってうわ言を言ってたし」


「う……。恥ずかしいから忘れてくれ」


 顔から火が出そうだ。だが意に反してお腹の虫が一際大きく鳴いた。


「伊達くん、これ、良かったら使って」


 楓は膝の上のトートバッグから財布を取り出した。そこから二万円抜き取り、藤次郎に差し出した。二万円は藤次郎には――いや、彼に限らず大学生には大金だ。ギョッとして目玉が飛び出そうになる。


「これだけあればしばらくは保つでしょ? これでご飯食べて。そうじゃないと試験に身が入らないでしょ?」


「いや、そんな……お金なんて……。そうだ、試験は!? 今何時!? 三限目に試験があるよね!?」


「お昼の三時よ。残念だけど三限目は終わっちゃった」


「そんな……」


 ガックリと肩を落とした。三限目は必修科目で試験のパスは絶対だ。紀尾井町大学は必修科目を三つ以上落とすと留年が確定する。なので藤次郎はワンアウトだ。『留年』という最悪の事態に一歩近づいた。


「過ぎたことは仕方がないよ。それよりも明日からの試験に集中しよう。これでしっかりご飯食べて。ノート見せてもらった私が進級して、貸してる伊達くんが留年したら後味悪いし」


 楓は藤次郎に紙幣を握らせようとする。だが藤次郎は唇をかみしめて彼女の手の中の諭吉を見つめた。


「もらえないよ」


「……そのうち返してくれればいいから」


 楓は食い下がるがそれでも藤次郎はかぶりを振った。


(金融業者から借りるのは嫌だが、友達から借りるのはもっと嫌だ)


 このお金を受け取れば、なるほど、きっと自分は生き延びられる。試験期間中の食い扶持に充てられるし、給料日まで保つだろう。


 だがその後はどうなるのか?


 次の給料を得ても家賃と生活費でいっぱいになり、返済の目処なんて立たないだろう。そうなれば返す約束は果たせない。彰人にせよ楓にせよ、親切で金を貸そうとしてくれるが、返してもらえないと知ったらどんな顔をするだろうか?


 藤次郎の心配は疑心暗鬼の領域だ。親切を疑う失礼にも自覚はある。だがお金は仏を鬼に変える力があることを藤次郎は嫌というほど知っているのでやめられなかった。


「気持ちは嬉しいけど、受け取れない」


 藤次郎はお金を差し出す楓の手をそっと押し返す。ひんやりした女性らしい拳がかすかに震えた。


「でも、お金に困ってるんでしょ?」


「困ってるけど、なんとかなるよ。母親に連絡して出してもらうから」


「仕送りしてもらえるの?」


「……」


 藤次郎は一瞬目を泳がせ、小さく頷いた。彰人と違い昔のことを知ってる楓に方便は通じそうになかった。しかし何か言いたげにまごまご唇を蠢かせたが、やがて、


「分かった。でも無理しちゃダメだからね」


 そう言ってお金をしまった。本当は喉から手が出るほど欲しいお金を藤次郎の目玉はつい追いかけていた。


「伊達くん、この後は?」


「五限に選択科目の試験がある。そっちは?」


「私はこれでおしまい。これから帰るところなの」


 楓は立ち上がってスカートを整えた。そして「それじゃあね」と言い残してカーテンの向こうへ去っていった。


 ふー、っと藤次郎は息を吐いた。


「これでいいんだ……」


 自らに言い聞かせるが、楓の申し出を断ったのは果たして正しかったのかとの疑問が脳裏を過ぎる。


 目下の優先事項は試験をパスして留年を回避すること。すでにワンアウト確定の自分に見栄を張る余裕はない。となれば命懸けで返済する覚悟で借りるべきだった。


 だが出来なかった。藤次郎のお金嫌いはアレルギーの領域だ。お金の話になるとネガティブなことばかり考えてしまう。


 そんな自分に残された道はやはり節制と我慢。忍耐で乗り越えるしかない。もはや苦行だ。


「伊達くん、まだ起きてる?」


 悶々と考え込んでいると去ったはずの楓の声がカーテンの向こうから聞こえた。藤次郎が返事をすると彼女はそっと内側へ入ってきた。


「これ、どうぞ」


 差し出したのは桜色の巾着袋だった。


「私のお弁当。良かったら食べて」


「いいの?」


「お昼に食べるつもりだったけど、食べそびれちゃったから上げるね。保冷剤入れてるからまだ痛んでないと思うし」


「そうか。それじゃあ遠慮なく」


 弁当と知ってあっさり受け取る。食い物なら返さなくて良いので気安い。態度の変貌ぶりに楓は微笑みをこぼした。


「それ、気が向いた時に返してくれればいいから」


「うん、ありがとう! いただくよ」


「どういたしまして」


 笑顔でそう言い残して楓は今度こそ立ち去った。


 入れ替わりで今度は女性校医が顔を出した。簡単な問診を受け、空腹と寝不足が原因の疲労と診断を下された。

 それから校医に許可を取り、医務室の机で食事を摂らせてもらうことにした。その校医は事務室に用事があるとかで退出し、一人きりになる。


 藤次郎はわくわくしながら巾着の口を開き、中身を取り出す。まともな食事はいつぶりか。思わず口角からヨダレが垂れてしまった。

 その時、中に何かが入っていることに気づいた。覗き込むと二つ折りにされた白い紙が出てきた。不思議に思って検めると中から一万円札が二枚顔を覗かせた。


「え……」


 なぜお金が入っているのか。その答えは白い紙にあった。


『困ったらこれを使ってください。

 一緒に進級して、卒業しようね。

                蘆名』


 筆圧の弱い、形の綺麗な女性らしい字だ。藤次郎は手紙を何度も読み、楓の言葉の真意を悟る。


『それ、気が向いた時に返してくれればいいから』


 最初は弁当箱のことかと思ったが、それだけではなかった。


 藤次郎は二万円を手の中に納め、どうしたものかと頭を抱えた。楓の好意はありがたいが、借金に変わりはない。今から追いかければ返せる。


(ありがたく借りよう)


 だが今回ばかりは考えが変わった。楓の美しい笑顔を悲しみで汚したくなかった。


「一緒に卒業しようね、か……。今度は一緒だといいな」


 弁当を食べているとなぜか楓との給食の時間を思い出した。何も生まれた時から貧しかったわけじゃない。毎日が楽しい普通の生活を送れた時期もあった。

 しかし日常は両親の離婚によって失われた。藤次郎は母と共に地元を頼って北陸へ移り住んだのだ。あまりに突然な出来事だったため、誰にもお別れを言えなかった。もちろん楓にも。


 今となっては夢のような幼少期を懐かしんでいるとあっという間に平らげ、藤次郎は再びベッドに横になった。校医からは気が済むまで休んで良いとの許可を貰っている。


 見慣れぬ天井を見つめながら考えたのはやはりお金のことだ。当面の食い扶持は確保した。八月十日には書店とファミレスの最後給料が入るので家賃は払えるが、その後は崖っぷちである。

 どうにか失った三つのバイト分の稼ぎ口を探さねばならないが、あてはない。


(いや、一つあるか)


 彰人に紹介してもらった有償インターン。藤次郎は応募してみることにした。


 さっきは弱ってて及び腰になったが、よく考えると悪い話じゃない。高時給な上に仕事を一本に絞れるので効率良い。

 ファイナンス・ホライゾンなる会社の様子は分からないが面接前に心配しても仕方がない。考えるだけ杞憂というものだ。


(とにかく受けてみよう)


 藤次郎は彰人にLINEで連絡を入れた。彰人からはその後しばらくして返事があり、応募の仕方を教わった。


 これが今の自分にできる精一杯だ。今後は試験に専念し、有償インターンで食い扶持を稼ぐ。合否は不透明だが、不合格なら地道にアルバイトを探せば良い。


 当面の見通しを立てると藤次郎は一時間ほど眠った。スマホのアラームに起こされたのは次の試験科目の始業前であった。食事と睡眠を取った藤次郎は十分に回復し、万全の態勢で試験に臨むのであった。

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