第3話 おいしい話

 週が明け、七月最後の週が始まった。


 今週から大学は期末テスト週間に突入する。そのため勉強漬けの学生で溢れたキャンパスにはピリついたムードが漂っていた。

 一方でどこか浮ついた表情の学生もいる。テスト週間が終われば二ヶ月間の長い夏休みが待っている。レジャーや旅行、帰省、恋人とのデートなどなど楽しいイベントが目白押し。楽しみで仕方がないのだ。


 そんなキャンパスにあって藤次郎は緊張感とも期待感とも無縁な顔をしていた。


「おーい、藤次郎。大丈夫か? 死にそうな顔してるぞ?」


 一コマ分の試験が終わった講義室は学生達の安堵のため息で満ちている。その中にあって土気色の顔をした藤次郎を、金髪ピアスの仁和寺彰人が気遣った。


「やばい、死にそう」


「寝不足? それとも空腹?」


「両方……」


 終業のチャイムがなっても藤次郎は動かない。いや、動けない。机に突っ伏して力尽きた。


 バイトを全て失った藤次郎がまずやったのは食費を切り詰めること。

 当面、食事は一日一食に減らす。一食あたりの費用も下げる。実際、週末はお茶漬けしか食べてない。

 しかし肉と野菜を食べてないので当然力が出ない。気を紛らわせようと勉強に励んだが集中出来なかった。やぶれかぶれになって眠ることにしたが空腹も過ぎると眠気が飛んで入眠できなかった。


 空腹と寝不足。藤次郎の心身は急速に蝕まれていた。


 藤次郎は居酒屋の店長が夜逃げしたことも含めてそんな経緯を話した。


「お前が弱音吐くなんて珍しいな。それだけ追い詰められてるってことか」


 藤次郎は何も答えなかった。その代わりにお腹の虫がぐぅっと大きな声で鳴いた。虫というより獣が「食い物を寄越せ」と吠えているみたいだ。


「飯も食えないんじゃ試験に身が入らないだろ。金、貸してやろうか?」


 彰人はいつもの明るい調子を抑え、平坦な声で言った。


「いや、いい」


 それを藤次郎はあっさり断った。やはり借金が嫌なのだ。


「遠慮することないって。バイトが見つかってから返してくれればそれでいいよ。金のアテなんかないんだろ?」


「アテならあるよ。親に仕送りしてもらえないか聞いてみる」


 藤次郎は見栄を張った。母に仕送りの目処などない。が、そこまでは知らない彰人は安堵した。


「そうか。お袋さんに送ってもらえるなら越したことはないが……。でもヤバくなったら相談しろよ。単位一つ二つ落とすくらいならまだしも、留年になったら目も当てられないぞ」


「怖いこと言うなよ。それより彰人、どこかいいバイト先知らないか?」


「金は借りないのに働き口は相談する。お前って変に真面目だな」


 呆れる彰人であったがその顔色はどこか明るい。藤次郎が当座のお金を工面できそうだと信じているのだ。


「ちょうどいい仕事があるぞ」


「本当!?」


「あぁ。俺が運営に参加してるイベサーのチケットの売り子。チケットを一枚二千円で仕入れて、五千円で売る。上がりは三千円。十枚も売れば次のバイトが見つかるまでの生活費にはなるだろ」


「遠慮する」


「ですよねー」


 一考だにせず断る藤次郎に彰人は苦笑した。藤次郎の性格をよく知ってるから最初から断られることを見越していたのだ。


 彰人はイベントを主催する学生団体に一年生の頃から属しており、学内外に顔が広い。おかげでチケットの売り子で荒稼ぎしたらしく、二年生になってからは運営に関わり始めてますます人脈を広げている。

 片や藤次郎はバイトと勉強漬けで人脈はすこぶる狭い。チケットを売り捌く自信がない。もっとも一番の理由は、


「お金のトラブルになりそうだ」


 これに尽きる。藤次郎の嫌いなものはお金。大学で金銭トラブルのリスクを抱え込むのは気が引けた。


「お金は欲しいけどお金のトラブルは嫌、か」


 彰人は呆れたように肩をすくめた。


「そんなの、皆一緒だろ」


 藤次郎はムッとして答えた。


「まぁ、当然だけどさ。お前っていつもお金のこと考えて生きてるみたい。そんなんじゃやりたいこともやれずに歳取るぜ」


「大きなお世話だ。俺はお前と違って親から仕送りもらってないから仕方がないだろ」


 いつになくキツい口調を叩いてしまった自分にハッとした。空腹でカリカリしてるところに図星を突かれて嫌味が出てしまった。


「すまん」


「いいよ。俺も意地悪だった」


 なんとなく重い空気が漂い、藤次郎は荷物をまとめて彰人の前を辞そうとした。


「藤次郎、待てよ」


「まだ何か?」


「あぁ。お前に打ってつけの話がある」


 彰人はスマホを操作しながら伝える。


「先輩からの紹介でな。IT企業のインターンをやってみないか?」


「インターン? それって就活生がやるやつだろ?」


 インターンというのは企業での就労実習のことだ。就職活動中の学生が企業に赴き、仕事の内容や職場の雰囲気を掴むことが目的である。


「俺が欲しいのは給料だ。ガクチカエピソードや単位じゃない」


 紀尾井町大学ではインターンをすると単位が出される制度がある。だが今の藤次郎には夏炉冬扇な話である。


「ただの就業体験じゃないよ。有償インターン、つまり給料が出る。実質アルバイトだな」


「……ほう」


 それを聞いて俄然興味が湧いた。借金や歩合の売り子はリスクがあるがアルバイトなら安全と思ったからだ。


「自社製品の開発エンジニアの仕事らしい。藤次郎、情報科目のプログラミング実習得意だったろ?」


「まぁな」


 藤次郎の所属は社会学科で文系である。だが社会学や心理学と統計は切っても切り離せないのでカリキュラムに組み込まれていた。そして藤次郎はこのプログラミングが得意だった。言われた通りに動くプログラムと相性が良かったのだ。


「ちなみに時給は二千五百円」


「たっか!?」


 高給にひっくり返りそうになる。二〇一六年現在の東京の最低賃金は九三〇円くらいなので三倍弱である。つまりこの会社はアルバイト三つ分に匹敵する。かなりおいしい話だ。

 だがおいしい話には裏がある。高時給すぎて藤次郎は警戒した。


「それ大丈夫な仕事なの? 株式会社ファイナンス・ホライゾンなんて聞いたことないけど」


「悪いことしてる会社ではないと思うよ。まぁ、俺も人伝に聞いた話だからよく知らないけど」


 彰人のスマホに表示された説明によると創業して間もない会社だ。画像の女性社長はかなり若い。だが分かるのはそれだけで他にこれといった情報は無い。


「主なサービスは『給料の前借りサービスの展開』……。うん、やめとく」


 会社の概要といい、事業の内容といい、胡散臭くてならない。


「それに高すぎる時給も変だ。学生にこんなに払うなんて何か裏があるに違いない」


「金は欲しいのに高給は嫌だって? お前って本当に金に難儀な性格だな」


「う、うるさい」


 長年に渡って染みついたお金へのアレルギーは、好条件にさえ過敏に反応した。だが高給をたてにして無理難題を突きつけられては堪らないのも事実だ。


「ま、気が向いたら連絡してくれ。他にもバイト募集中の所がないか当たってみるよ」


「助かる」


「でも選り好みしてる場合じゃないぜ。チャンスに食いつくくらいじゃないとおっつかないだろ。万が一留年でもしたら……」


「だから怖いこと言うなって」


 最悪の事態から目を背けるように藤次郎は退室した。


 昼休みのキャンパスは試験期間中の束の間の息抜きの空気で弛緩していた。夏も真っ盛りで青葉の隙間から注ぐ陽光と蝉時雨が新緑の季節を演出している。


 しかし藤次郎は相変わらず精気の無い瞳のままキャンパスを彷徨った。

 足が自然と学食に向くが、頭の中ではずっとそろばんを弾いていて、最後には『ご破産』の三文字が浮かび上がる。やはり次の給料日までは切り詰めるしかない。

 しかし彰人に警告された『留年』も危ぶまれる。紀尾井町大学は私立なので学費が高い。大学から授業料の免除措置を受けているが、それは成績優秀なことが条件である。当然、留年するようなバカは措置を打ち切られるだろう。


 空腹と睡眠不足で朦朧とする藤次郎の頭の上を『ご破産』と『留年』の二つのNGワードが循環する。

 未だかつてないほど藤次郎は追い詰められていた。こんなことなら素直に高卒で公務員になれば良かったと今ほど後悔したことはない。


 木陰から出ると厳しい夏の日差しが照りつける。何気なく空を見上げるとギラついた太陽が見下ろしている。まるで地を這うアリを嘲笑うように。


 と、その時だ。藤次郎の視界がぐわんと激しく揺れた。

 訳も分からず藤次郎は倒れる。

 水に落とした墨のように意識は薄れていった。

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