第2話 お金がない、仕事もない

 藤次郎は大学に入ってから三つのアルバイトを掛け持ちしていた。学業と両立するにはオーバーワークであるが、彼の経済事情では致し方ない。


 藤次郎は母子家庭の育ちである。自分のためにせっせと働く母の背中を見て育った彼は当初高校を出たらすぐに働くつもりだったが、勉強が出来たので周囲に勧められて進学した。

 母も喜んでくれたのでその決断に後悔はない。しかしその後、母は持病を悪化させて懐に余裕がなくなり、仕送りを期待できなくなってしまった。おかげで糊口ここうを凌ぐ羽目になったのだ。


 生活は常にギリギリ。毎月、大学までの定期代と家賃を払って手元に残るのは雀の涙。そのわずかなお金で日々を過ごしている。


 さて、三つのバイトを掛け持ちしていたが、現在持ち駒は一つしかない。ファミレスのバイトは店舗の閉店に伴って失ってから未だ代わりが見つかってないし、書店の仕事も今日辞めてしまった。

 生活費の源泉が三つから一つに減るのは由々しき事態である。一刻も早く代わりを見つけなければならない。

 とはいえ大学は来週から期末試験が始まるので動き出すのは再来週になってからだ。八月になれば大学は二ヶ月間の長い夏休みが始まるのでアルバイトに注力出来る。

 お金がないのはひもじいし、生活不安もあるが今は耐える時だ。


 郵便局を梯子してやってきたのはサラリーマンの聖地・新橋駅。付近の雑居ビルの一階に入居している居酒屋がアルバイト先である。


「ちょっと遅れちゃったな。店長、怒らないでくれよ」


 藤次郎はヒヤヒヤしながらビルの裏手に自転車を停めた。ここの店長は遅刻にうるさい。体育会系の性格なのもあるが、経営難でバイトを減らしたせいで一人でも遅刻欠席が出ると店が回らなくなる。そのため従業員の勤怠にはいつもピリピリしていた。


 気持ちを逸らせながら勝手口のドアノブを捻る。


 ガン――


 だがドアは開かない。藤次郎は首を捻った。勝手口は従業員が頻繁に出入りするため営業中はいつも開錠しているはずだった。


「誰だよ、鍵かけたやつ」


 藤次郎はイライラしながらドアノブを捻ったり、戸を叩いたりして鍵を開けてもらおうとしたが全く反応がない。仕方がないので表に回って正面から入ることにした。


 だがそこでふと気づく。入り口に暖簾がかかってない。窓から灯りが漏れてないし、換気扇から炭の匂いが出てこない。不自然な静けさに藤次郎は薄寒うすらさむいものを感じた。


「おはようございます。店長、暖簾出てませんよ」


 幸い戸の鍵はかかってなかった。ガラガラっと引き戸を開けて挨拶をするが返事はない。

 やはり店内は照明が灯ってない。そのせいで薄暗かった。それに人っ子一人おらず、不気味な静けさに満ちていた。聞こえてくるのは遠くの表通りの賑やかさだけであった。


「店長、いないんですか!?」


 この時間に無人はおかしい。藤次郎は山で遭難したような孤独感に襲われおずおず店内に踏み込んだ。


「店長なら逃げたっぽいよ」


「うわぁ!?」


 カウンター脇の厨房に至る通路から突然黒い影がにゅっと現れる。地鳴りのような低い声に腰が抜けそうになった。


「どどどど、どなたですか!?」


 薄暗くて表情は分からないが知らない男性だ。暗がりに慣れた瞳に映ったのは、坊主頭にリムフレームのメガネ、顎髭を蓄えた、どことなく俳優の山田孝之に似た強面の男性だった。


「俺はここの店長に融資してた牛峰うしみねだ」


「融資? えっと……銀行の人ってことですか?」


「まぁ、そんなとこだな」


 牛峰の言葉は嘘な気がした。銀行員というと高そうなスーツと清潔感のある身だしなみが連想される。しかし彼の口髭とブランド物のジャージはそれとは真逆。タチの悪い借金取りにしか見えない。


 いや、そんなことよりも……


「逃げたってどういうことですか?」


 自分の雇い主が行方を眩ませた方がよっぽど重要である。

 牛峰は指先でカウンターに置かれた暖簾を弄びながら、抑揚のない声で答える。


「言葉通りだよ。店の経営がまずくて、家賃も払えず、うちに返済もできなくて首が回らない。だからトんだんだよ」


「トぶって……。それじゃあお店無くなるんですか!?」


「無くなるよ。ここもじき大家さんが来て、中を片付けて次の業者に貸すんじゃないかな」


「そ、それじゃあ俺の給料はどうなるんです!?」


「もらえないんじゃない? 給料も出せなくて進退極まったから逃げたんだよ」


「そんな……」


 ガツンと金槌で殴られたような衝撃。藤次郎は牛峰の言葉に打ちひしがれ、膝から崩れ落ちてしまった。

 そんな藤次郎を牛峰は憐れむでも嘲笑うでもなく、無味乾燥な視線で見下ろしていた。


「どうしたの? そんなにお金に困ってるの?」


「……全財産三千円。ここの給料もらえなかったら別のバイトの給料日までそれで持ち堪えないといけないんです」


「給料日いつ?」


「来月の十日です」


 それまでの日数は二週間。三千円で一週間耐えるはずが倍になってしまった。経験上、一週間は三千円で保つがそれ以上は無理だ。生活費の削りようがないし、家賃も払えない。万事窮すである。


「金に困ってるなら貸すよ?」


 そこに突然差し伸べられた救いの手。藤次郎は呆然と男性の顔を見上げた。


「貸すって……俺にお金を?」


「おう。言ったろ、俺は金融屋だ。給料日に利子と合わせて返してくれればそれでいいよ。一見さんでしかも学生だから安くしとくよ」


 聞く分には願ってもない話だ。次の給料日まで、生きるためのお金を用立てせねばならない。しかし母親を頼るのは躊躇われるし、大学の友人に頭を下げるのは恥ずかしい。そんな藤次郎に貸してくれるのだからありがたい。


「いえ……結構です」


 だが藤次郎は断った。


「借金なんて嫌です」


 金貸を仕事にしている人に面と向かって言うのは不躾だが、つい本音が溢れた。


 藤次郎には大嫌いなものが二つある。一つは『お金』であった。当然、借金も嫌いだ。

 それにこの牛峰という男は近づいてはならない危険なオーラを纏ってる気がした。


「あっそ。まぁ、困ったらここに連絡しな」


 牛峰は全く機嫌を損ねた様子を見せず、ポケットティッシュを藤次郎に差し出した。ビニールの中には小さなチラシが入っていた。


『モーモーファイナンス 融資はうちに申し込モー!』


 会社名と電話番号、可愛らしい牛のマスコットキャラクターがデザインされたそれをおずおず受け取る。彼の唇は青くなるくらい噛み締められていた。


 彼にお金を借りれば二週間生き延びられるだろう。見出した希望に縋りたくなるが、やはり借金だけは嫌だった。

 藤次郎はポケットティッシュがくしゃくしゃになるくらい握りしめ、逃げるように店を後にした。

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