インターンシップ・ルール
紅ワイン🍷
Round 1. お金アレルギー
第1話 お金とやり甲斐
お金があれば幸せなのか。
きっと大抵の人は「そうだ」と答えるだろう。
お金があれば服を着られるし、ご飯を食べられるし、家に住むこともできる。お金は俺達を生かしてくれるし、幸せにしてくれる。だから皆お金が好きなのだ。
でもお金には恐ろしい力もある。
お金で壊れる絆、崩れる家族、振り回される人生。
お金には幸せを作る力があるが、容易く壊す魔力もある。
だから俺はお金が嫌いだ。
*
ここは都心部のとある書店。平日の夕方、社会人が家路に着くにはまだ早い時間帯にも関わらず店内は多くの客で賑わっていた。
赤本の背表紙を眺める口の開いた高校生、眉間に皺を寄せて専門書を立ち読みする大学生、お気に入りのファッション誌を探す大人のお姉さんなどなど客の顔ぶれは様々だ。
ネット通販が旺盛になった現代において古参の書店は劣勢を強いられ経営が厳しい。それが嘘のように書店が賑わうのは日本人が未だ紙の媒体に愛着を持っているためだ。
そんな大盛況な都会の書店で
「すみません、通してください」
シュリンクされた新刊のコミックスが乗ったカートを藤次郎は押していく。客の隙間を縫い、時に道を譲ってもらってはペコペコ会釈して、ようやくコミックス売り場に辿り着いた。それから新刊コーナーに商品を平積みし、乱れた陳列を整えた。
「これでよし」
整然とした売り場を眺めてひと心地つく。そんな彼の傍から数多の手が飛び出し、今しがた並べた新刊が次々と客に持っていかれる。しかしそのせいで藤次郎がせっせと整えた売り場はぐちゃぐちゃになり、仕事は一からやり直しになってしまった。売れ行きが好調なのは結構だが余計な仕事が増えるのには辟易する。
ちなみに本日の新刊のラインナップであるが――
『「お前クビ」デビュー直前にバンドを追放されて彼女も寝取られた俺は一人寂しく弾き語りするつもりが何故かS級美女達に囲まれてます。』
『女子校教師俺、S級美少女の教え子に弱みを握られダメ教師にされる』
『Q.あなた達は付き合ってるんですか? A.いいえ、ただの腐れ縁です。』
などなど。
(これの何が面白いんだか……)
嬉しそうに商品を持っていく客達には絶対に聞かせられない感想を口の中で噛み殺し、ため息をついて商品を綺麗に陳列させた。
ようやく陳列の仕事を終えた藤次郎はカートを返しにバックヤードへ戻った。バックヤードには在庫の本が整然と並んでいる。シンと静まり返った従業員専用のこの空間は図書館の書庫のようで、藤次郎の一番好きな場所であった。
「新刊の陳列終わりました」
バックヤードの隅っこの机にはスチールの机が設置されている。椅子に座って机に向き合うワイシャツとスラックス姿の正社員の男性――川村の背中に向かって藤次郎は報告した。
「あ、伊達くん。お疲れ様」
川村は首を藤次郎に振り向ける。
「伊達くん、次の仕事何かあったっけ?」
「いえ、今ので最後です」
「旧作コーナーの整理、してくれた?」
「……してないです」
藤次郎は目を泳がせながら答える。対して川村は大袈裟なため息をついた。
「伊達くん、いつも言ってるけど与えられた仕事だけやっておしまいじゃないんだよ。自分で仕事を見つけて動かないとダメだよ」
「はい」
「『どうすればお客様にもっと喜んでもらえるか』って考えれば仕事はいくらでも見つかるものだよ」
「はい」
藤次郎は殊勝に頷いて川村のお説教を聞いた。だが彼の説教は暑苦しいばかりで藤次郎には馬耳東風。それどころか「また始まった」と内心ため息をついた。
「自発的に動ける人間にならないと社会で通用しないよ。というわけで、上がりの時間になるまで売り場の整理よろしく」
くどくどした説教は次の仕事の指示で締め括られた。だが仕事の指示を受けても彼はその場から動かなかった。
「あの、もうすぐ退勤なので引き継ぎしたいんですが」
「え、まだ退勤まで三十分近くあるよね?」
川村は反射的に壁の時計を見た。現在の時刻は十六時半を少し過ぎたところ。藤次郎の定時は一七時なので退勤の支度をするには少し早い。
「今日は金曜日なので早上がりの日です」
「あぁ、次のバイトがあるんだっけ。…………じゃあ引き継ぎしていいよ」
藤次郎の事情を思い出した川村は口をもごもご動かして何か言いたそうにしたが、結局何も言わず彼を解放した。
ため息がまた一つ溢れる。幸い、川村は自分の仕事に集中しているため彼の耳には入ってない。
仕事とお説教でくたくたな藤次郎は控え室に入り、休憩中だった同僚に引き継ぎをして帰り支度をした。もっとも、これから次のアルバイトに梯子するので気が重い。
「伊達くん」
従業員用の勝手口から出て行こうとする藤次郎の背中を川村は引き留めた。藤次郎は小さく、本当に微かにため息をつくと彼を振り返った。
「今日までアルバイトお疲れ様。次のバイトも、新しい職場でも頑張ってね」
「あ、ありがとうございます」
何を言われるかと身構えたが、意外にもぬくもりのある言葉だったので拍子抜けしてしまった。
藤次郎は今日でこの書店のアルバイトを辞めることになっている。辞める理由は他ならぬ川村である。やり甲斐とかおもてなしが口癖の彼とどうにも水が合わず、夏休みを前にして辞めることにした。
内心では明日から彼の暑苦しいお説教を聞かずに済むと喜んでいた。だが、こんな餞別を送られては忌避していた自分がひどく矮小に思えて心苦しかった。
「仕事は自分で見つけて、積極的にね。自分で考えて動くとやり甲斐を感じられるから」
「……どうも」
だが最後に贈られた満面の笑みの暑苦しいエールで彼の心は一気に冷めた。
(やり甲斐なんて、安定した身分だから言える世迷いごとだろ)
やっぱりこの人とは水が合わない。藤次郎は不恰好な愛想笑いでお礼を言うと、今度こそ店の外に出た。同時に、ポケットのスマホから通知音が響いた。画面を見ると大学の友人の
『これから飲み会だけど来る?』
藤次郎は頭を掻きながらメッセージを二、三回読んで断りの返信を入れた。
「『無理、これからバイト』っと」
店の裏手には従業員用の駐輪所があって、藤次郎はそこに停めてあったシティサイクルの鍵を解錠すると表通りまで押した。
七月下旬の夕方はまだ日が高く厳しい暑さが続いている。藤次郎は日没が待ち遠しい思いで太陽を一瞥し、サドルに跨ってペダルを踏み込んだ。これから二十分ほどかけて次のアルバイト先へ向かう。
途中、郵便局に寄ってATMで生活費を引き落とすことにした。冷房の効いた郵便局は閉店間際の慌ただしい空気が流れている。ATMの前には長蛇の列ができており、最後尾に立った藤次郎はイライラしながら自分の番が来るのを待った。
やがて彼の番になるとキャッシュカードを使って現金を引き落とした。紙幣の取り出し口から三千円を抜き取り、財布に突っ込む。
その際、機械のタッチパネルの表示が一瞬目に入った。
『お取引き後の残高 ¥321』
見ないようにしていた現実を突きつけられ、肩がずっしり重くなる。
「飲み会なんか行く余裕ないっての……」
次の給料日までは一週間。その日数を三千円でやりくりする藤次郎に、おおよそ大学生らしいキャンパスライフを謳歌することなど不可能であった。
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