さよならを覆す最高の方法

増田朋美

さよならを覆す最高の方法

3月になった。まだまだ寒い日が続くけれど、少しづつ花が咲き始めて春が近づいているんだと言うことを予見させる日が続いている。それは嬉しいことでもあるのかもしれないけれど、同時に、別れということも感じさせる。それは、終わりということになってしまうのだろうか。それとも、また別のものが始まっていくということにもなっていくのだろうか。

その日、製鉄所では、一人の利用者が、通信制高校の卒業式ということで、小振袖を着て、袴を履いて、卒業証書の入った筒を持ってきて、製鉄所にかえってきた。製鉄所と言っても、鉄を作るところではない。ただ、居場所のない女性たちに、勉強や仕事をするための、部屋を貸している施設である。もちろん、訳アリの人が、部屋を借りることもある。今回の通信制高校を卒業した女性もその一人で、通信制高校の勉強をしたいために、製鉄所を利用し始めたのであるが、重い事情を背負っていたため、いろんな人と比較しては泣くことを繰り返すという、トラブルを起こしてきた。通っていた通信制高校でも、随分、批判をされたものだ。結局、通信制高校には、3年どころか、4年以上かかってしまったけれど、なんとか卒業することができた。それからの進路は、自分の家でやっている花屋を手伝うと言う。そういうことで、もう家に居場所を見つけてしまったので、製鉄所に通う必要もないことから、彼女は製鉄所を退所することになった。

「只今戻りました。行ってきましたよ。卒業式。」

利用者は、卒業証書を持って、製鉄所の食堂に入ってきた。

「おめでとうさん。良かったね。」

直ぐに杉ちゃんは言った。

「着物はちゃんと寸法通りに着られたんだろうな?」

「ええ。ちゃんと着付けの練習もしました。着物って意外に簡単なんですね。私、成人式に行けなかったから、おばさんになって、高校を卒業することができてよかったと思いますよ。」

利用者は、杉ちゃんに言った。ちなみに利用者が着ている小振袖は、杉ちゃんが仕立てたものである。始めは、中年おばさんに小振袖はどうもなんて言っていた杉ちゃんであるが、水穂さんがやっとやり直しの高校生活を終了するのだからと言って、結局縫ってもらうことになった。

「そうですね。それではあなたも今日で、製鉄所の利用はおしまいですね。何年かかってもいいから、ここは終の棲家にしては行けないといいましたけど、やっと居場所が見つかったようで良かったですね。」

ジョチさんは、そう利用者にいった。

「ええ、ありがとうございます。こちらには本当にお世話になりました。私、いつまでも忘れませんから。ここで過ごさせてもらえたこと。花屋さんで仕事しても、ここでのことは思い出にしておきます。本当に長い間お世話になりました。」

利用者が、涙をこぼして、静かに頭を下げると、四畳半から、誰かが咳き込む声がした。

「ああ水穂さんですね。最近朝晩で寒暖差が激しいですから、それで容態が良くないんですよ。すみません、感動的なお話をしていると言うのに。いつものことですから、気にしないであげてください。」

ジョチさんはそういったのであるが、水穂さんの咳き込む声は、ストップすることはなかった。

「あの、本当に大丈夫ですか?あたしのことは構いませんから、誰かがそばに行ってあげたほうがいいのではありませんか?」

利用者は心配そうに言った。

「いえ、由紀子さんが一緒ですから、大丈夫です。多分、薬出せば止まります。」

「それに今日はお前さんの一生に一度の卒業式なんだから、もうちょっと明るくパーッと行こうよ。ほら、寿司も作ってある。卒業記念にみんなで食べよ。」

杉ちゃんは、食堂のテーブルの上においてある、寿司桶を顎で示した。こういうときに杉ちゃんという人は、非常に手先が器用なのだった。マグロとか、ブリとか、どんなネタでも作ってしまう。

「そうですね。じゃあ、いただこうかな。」

利用者は食堂の椅子に座った。製鉄所には、あと二人利用者がいて、一人は同じく通信制高校に、もうひとりは専門学校に通っている。どんな学校を出たかというより、学校生活がどれだけ楽しいものであったかを重視することのほうが、将来に向けて安心感が得られるので、製鉄所の中で、どこの学校に行っているなどで差別的なものが発生することはない。その二人の利用者もすぐに帰ってきて、杉ちゃんの指示で、直ぐに食卓に付き、各々に配られた飲み物を持って、

「カンパーイ!涼子ちゃん卒業おめでとう!」

とみんなで乾杯をした。他の利用者たちは、涼子さんという女性が、今まで嫌だ嫌だと言っていた実家に、彼女が戻ることを、感心していた。だって、製鉄所を利用し始めた頃は、涼子さんは、実家の家族の悪口ばかり話していたからだ。それが、製鉄所や、通信制高校に通うことができて、少し実家から距離を置くことができて、より客観的に見ることができるようになったということだろう。そういうわけで家以外の場所で行くところがあるというのは、本当に幸せなことなんだなと言うのがよく分かるのであった。

杉ちゃんたちが、涼子さんの学校の思い出を聞きながら、寿司をぱくついていたところ、いきなり食堂のドアがギイっと開いた。

誰だろうと思ったら、由紀子がそこに立っていた。

「ああ由紀子さん、折角だから、お寿司食べたら?今日は涼子ちゃんの卒業祝いでもあるし、大事な記念日でもあるんだぜ。」

と、杉ちゃんが言うと、由紀子は怒りの顔をして、

「どうして、水穂さんがあれだけ大変な目にあっているのに、あなた達だけ、平気で食べているのよ!」

と言った。

「怒りっぽいのはいかんよ。だって、涼子ちゃんが通信制高校を卒業したのは、紛れもない事実でしょ。だから、お祝いしてあげなくちゃ。折角、卒業できたんだから。お前さんもよく知っているだろう。ここを利用している人の中には、卒業できなかった人だっているわけだし。」

杉ちゃんがでかい声でそう言うと、

「そんな事よりも、水穂さんがすごく苦しそうで、辛そうだったのをなんとかしてあげてよ!」

由紀子は強く言った。

「またやったんですか?」

ジョチさんが言うと、由紀子は、できるだけ強くハイと言った。ジョチさんが椅子から立って、ちょっと見せてというと、由紀子は、勢いよく、四畳半へ連れて行った。ふすまを開けると、水穂さんはおそらく由紀子が飲ませた薬で静かに眠っているのであるが、朱肉のような赤い液体で、畳がたいへんひどく汚れていた。

「やれやれ。またですか。そうなると、畳の張替え代がまた困りますね。」

ジョチさんは、ちょっとため息を付く。

「畳の張替えなどどうでもいいのです。お医者さんに見せるとか、そういうことはしないんですか?」

由紀子は、そう言ってみたのであるが、

「そうですね。まあ、水穂さんの出身地を言ってしまえば、お医者さんに見てもらえる可能性は落ちますよね。それは、もうね、しょうがないことですよ。日本の歴史ですから。とりあえず柳沢先生には連絡しておきます。」

と、ジョチさんは事務的に言った。

「この頃、ひどいですね。それは僕も認めますよ。まあ、この時期ですからね。朝晩で寒暖差もあるし、雨が降ったり寒くなったり、いろいろ変わりやすい天気ですから、そうなりやすいのかな。確かに、畳の張替え代とか、すごいかかりますけど、それはもうしょうがないものとして、我慢するしか無いのですかね。」

由紀子は、そういうことしか言わないジョチさんに失望するというか、腹が立つというかそんな気持ちになったが、でも、どうにもならないことであることは知っていた。いわゆる同和地区と言われるところから来ている水穂さんは、医療機関などで邪険に扱われることが多いのである。

「それでも。」

由紀子はジョチさんに言った。

「水穂さんには考慮するべきだと思います。だって、可哀想じゃないですか。みなさんが、卒業祝いでどんちゃん騒ぎしている間にも、水穂さんは、咳き込んで苦しそうだったし、そういうところは、水穂さんが一人だけ参加できないで、辛いのではないでしょうか?」

「そうだねえ、でも涼子ちゃんの卒業祝いができるのは今日だけだぜ。」

杉ちゃんは、直ぐに彼女に言った。

「それに、涼子ちゃんが、通信制高校を卒業したのも、今日しかないからねえ。それをお祝いしてあげるっていうのは悪いことではないしそれを阻止してしまうというのは、どうなんだろうね。」

「そうかも知れないけれど、でも、水穂さんには、考慮してあげるべきだと思います。だって、水穂さんは、これまでいろんな人を助けてあげて来たのに、それに感謝するというようなことは何も無いんですか?」

由紀子はそれでも杉ちゃんたちに言った。たしかに水穂さんに、助けてもらって、良い思いをしている人は大勢いる。確かにそれに対して礼をされるようなことがほとんどなかった。

「でもさあ、由紀子さんは、そう言うかもしれないけど、でも世間一般では、卒業とか、そういうシーズンだからねえ。それを、やめろということはできないんじゃないの?」

杉ちゃんに言われて由紀子は、そうねとだけ言った。

「まあ、由紀子さんの気持ちもわかりますけど、世間的には、どうしても少数派より多数派のほうが勝ってしまいますよね。それはもう仕方ないことではないですか?」

ジョチさんにそう言われて、由紀子はもう言えなかった。

「わかりました。それなら、あたし、水穂さんのそばにいます。」

由紀子はそう言って、四畳半に戻って、ふすまを閉めてしまった。杉ちゃんもジョチさんも、由紀子がそのような態度を取ったのが、不思議で仕方ないという顔をした。とりあえず、二人は、涼子さんの卒業祝いの席に帰ってきたが、なんだか卒業祝いの席は、由紀子が乱入してきたせいで、湿っぽいものになってしまった。でもそれを、由紀子さんのせいだと言う利用者は誰もいなかったが。

しばらくして、水穂さんがまた咳き込む声がした。今回は、杉ちゃんだけが、ああまたやってらといっただけで誰も四畳半には行かなかった。女性の利用者たちは、涼子さんの祝い事だから、味わって食べようと言って寿司を食べていたのだが、なんだかあまり美味しそうという顔をしていない。

一方の由紀子から見たら、水穂さんが、再び苦しみだしたので、直ぐに水穂さんが内容物を出しやすくするように、横向きに体の向きを変えて、口元にちり紙をあてがってあげていた。本当に、杉ちゃんもジョチさんも、他の利用者たちも、何をしているのだろうと思う。こんなときに水穂さんが可哀想じゃない。そう思っているうちに水穂さんの口元からまた朱肉のような内容物が漏れてきたので、由紀子はそれをふきとった。水穂さんは、自ら枕元にあるちり紙を取ろうとしたが、体が動かないでそれはできなかった。由紀子は大丈夫?苦しい?と声をかけるが、ただひとこと、ごめんなさいとだけしかいわかなかった。

「大丈夫よ。水穂さん、あたしは、水穂さんのそばにいるから。こういうときってね、誰かがそばにいてあげたほうが、ずっと楽でしょう?」

由紀子は、そう言って、水穂さんの背中を擦った。もうかなり痩せ細ってしまって、窶れているという言葉がピッタリの水穂さんは、男性用の着物ではまず無い、衣紋を抜いているような着方になっていた。それでは、本当は行けないのだということを知っていた由紀子だったが、杉ちゃんみたいに、何にも食べないからそういうことになるんだと言うセリフは言えなかった。もう何日食べない状態が続いているのだろう。人間は、食事で得たエネルギーを、一日で使い果たしてしまうという。それでは、水穂さんは、何日もエネルギーのもとを食べていないはずだ。それでは行けないんだと言うことは確かであるが、由紀子は、ご飯を食べろということはできなかった。水穂さんが、食べないのは多分単にダイエットとかそういう問題ではないのだと思われた。ダイエットで体重を落とすためというわけではなくて、きっと、つらい気持ちが続いていて、食べようと言う気持ちにならないのだと由紀子は、直感的に思った。不思議なことにそういうときって、腹が減ったとか、そういう気持ちにはならないのである。辛いときが続いてしまうと、人間は食べようとしなくなるようなのだ。

咳き込み続ける水穂さんに、由紀子は、とりあえず咳を止める薬を飲ませた。それでまた眠ってしまって、目が覚めたら咳き込む繰り返しである。日常生活というのはおんなじことの繰り返しだけど、水穂さんの場合咳き込んで苦しむことを繰り返すのだ。水穂さんは、水のみを受け取って、薬を飲み、また倒れるように布団に横になった。由紀子は、これを見て、水穂さんはもう弱ってしまって、どこかへ逝ってしまうのではないかと一瞬思ってしまった。そんな馬鹿な。まださようならをするのは早すぎる。それはどうしても避けたいのに、由紀子の前から消えてしまうなんて。

そう考えていると、玄関の引き戸がガラッと開いた。玄関はにはインターフォンが無いので、いきなり引き戸を開けても良いことになっている。

「おまちどうさまです。いしゅめいるらーめんです。」

ということは、鈴木イシュメイルさん、つまりぱくちゃんが拉麺を持ってきたのだろう。寿司を食べた上に拉麺まで食べるのかと由紀子は呆れてしまったが、中国では珍しいことではない。というのは拉麺というのは、昔は小腹が空いた程度の小食だったので。

「おう、ぱくちゃん来たか。今日は、涼子さんの卒業祝いをやってるんだ。彼女が拉麺を食べたいと言うので、お願いしたんだけど、食堂へ持ってきてくれるか?」

と杉ちゃんのでかい声がして、ぱくちゃんがハイよと言いながら、食堂に入っていく音が聞こえてきた。由紀子は、なんだか呆れたというか、悲しいというかそういう気持ちになってしまった。なんでそうなってしまうのだろう。みんな楽しそうにしていて、なんで水穂さんだけ置いてきぼりなのだろう。やがてぱくちゃんが、一人ひとりに拉麺を配っている音や、美味しいと言って、寿司の最後の締めの拉麺を食べている音などが聞こえてきた。それも由紀子には辛いものだった。

「水穂さん、」

不意に四畳半のふすまが開いた。

「水穂さんも担々麺食べる?肉は入れてないから安全だよ。なにか食べたほうが良いよ。そうしないと力も出ないよ。」

そう言いながらぱくちゃんが、水穂さんの眼の前に、担々麺の入った丼をおいた。やっぱり流石はぱくちゃん、美味しそうな担々麺を作るものだ。由紀子は、水穂さんの体を揺すって起こし、

「水穂さん、ぱくさんが担々麺持ってきてくれたから、少し食べましょうよ。」

と水穂さんに言った。水穂さんは目を覚まして、ぼんやりとした顔で担々麺の丼を見つめた。

「ほら、食べるのよ。水穂さん、食べて元気をつけなくちゃ。きっとぱくさんが作ってくれたのだから、美味しいわよ。ほら食べて。」

由紀子は、水穂さんの口元にそっと麺を近づけた。水穂さんはもう体が動かず、起き上がろうとする力もなさそうだったので、由紀子は、そうしたのであった。水穂さんは、眼の前に担々麺が現れたのを見ると、そっと口に入れて、静かに食べた。由紀子は、また咳き込んで吐いてしまうかなと思ったが、それはなかった。やはり、体が食べ物を欲しがっていたに違いない。

「よかった。食べてくれたんだから、水穂さんは正常ね。食べたいという気持ちが湧いてくれれば大丈夫。じゃあ、もう一口食べよう。」

由紀子はもう一度、担々麺を水穂さんのところへ持っていく。今度もなんとか口に入れてくれて、咳き込んで吐き出すことなく食べてくれた。

「良かった。ぱくさんの味付けが良かったのかな。それとも辛いから、食欲を増進させてくれたのかしら。」

由紀子はそう言うが、

「いやあたいしたことないよ、でも、僕たちウイグルの間では、日常的に拉麺を食べると言うことはあまりなく、特別なときに食べるんだよ。」

とぱくちゃんは説明した。由紀子がそうなんですかと聞くと、

「ウン。だって、拉麺なんてめったにお目にかかる料理じゃなかったもん。僕らの食事はいつもパン。それもせんべいみたいなコチコチのね。全く、ひどいもんだったよ。それと、ちょこっと野菜が入ったスープ位が、いつもの食事だもんね。だから日本ではこんなに食べ物があるというのがびっくりしたよ。」

とぱくちゃんは言った。

「だけど、日本人が、食べるものを美味しそうだと思わないのは驚いたよ。それはどうしてかなっていつも思ってた。だから食べ物を売る商売がすごいはやるんだなって思った。それで心を込めて料理することが、日本では大事なんだなと思った。」

やっぱりこれは海外からきた人の特権だ。ぱくちゃんのような海外から来た人は、そういう日本人が当たり前だと思うことに疑問符をつけてくれる。

「だから水穂さんにも、心を込めて料理を作ったよ。それは、忘れないでね。祝い事でも悲しいことでも食べることはするけどさ。でも、そのときにあわせて、心を込めて作れば絶対食べてもらえる。そう思っているから、ご飯を食べようという気になってくれるんだと思う。」

ぱくちゃんに言われて、由紀子はなるほどと思った。由紀子は水穂さんに今の言葉が伝わってくれたかどうか、確認したかったが、水穂さんはずっとぱくちゃんを見ていた。それは決して疑い深い目ではなかったので、由紀子は、食べようという気になってくれているのかなと思い、水穂さんの口元に、三回目の担々麺をそっと持っていき、

「さあ水穂さん。」

と、今度はニッコリしながら言った。もしかしたら、さよならを覆す最高の方法というのは食べるということなのかもしれないと由紀子は思った。水穂さんがこの世からさようならしないためには、食べるということをして、さようならをしたいエネルギーを少しずつ消していくこと。これが、さよならを覆す最高の方法。



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