隣人

 荷物は少なかったけれど、それでも引っ越しとなると、それなりに忙しく、早朝から始めたのに、気がつけば夕方になりかけていた。

「市役所は、明日に回すか」

手伝いに来ると言う母の申し出を断ったことを、僕は、まさに今、後悔している。

「腹減った〜」

近くのコンビニにでも行くか。面倒くせ〜。


 コンビニで弁当やパンや飲み物なんかを買ってきて食べ、作業を続けた。

「あ。これ……」

母に持っていくように言われていた粗品だ。

「昔はねえ、向こう三軒両隣りっていってねえ――」

あ〜、わかったわかった。わかりましたよ、母上様。


 大家さんには入居の時に、既に挨拶をして、菓子折りを持って行っていたが、隣と上の階の人にも挨拶をしておかねばならない。

「よっ、と」

重い腰を上げた。


 隣は留守だったので、上の階の人だけ挨拶をしてきた。両隣と言うが、僕の部屋は一番端の部屋なので、左隣しかいない。一階だから下の階の人もいないし。

「いたりしてな」

一人で呟いて笑った。


 それは、深夜のことだった。


 カリ…… カリカリ…… ガリッ


 小さな音で目を覚ました。耳を澄ます。……お隣さんが帰ってきたようだった。

 

 ガシャガシャ、バン、トンッ


 生活音。テレビの音もかすかに聞こえる。

 夜遅くまで仕事をしている人なんだな。こっちはまだ仕事が始まってるわけでもなし、明日の朝、少し遅い時間に訪ねていってみよう。そう思いながら、寝た。



「は〜い」

出てきたのは若い男性。大学生か? 眠そうな顔。しまった、まだ寝てたんだろうか?

「あっ、隣に引っ越してきた高橋たかはしといいます。よろしくお願いします」

そう言って、粗品と書かれた紙で包まれた洗剤を渡す。

「あっ、山田です。あれ? いつ引っ越してこられました?」

「ああ、昨日です」

「あ、そうなんですね。僕は3日前に引っ越してきたばかりで、僕の方こそ、ご挨拶に伺わないといけなかったのに」

彼はそう言って笑った。


 山田は、大学3年生だと言う。前のアパートの老朽化が進んで、出ていかないといけなくなり、渋々引っ越してきたらしい。それでも、バイト先から近く、何より家賃の安さに惹かれて即決だったとのことだった。ちなみに、バイト先は、僕が昨日行ったコンビニで、これからしっかりお世話になりそうだった。


 カリ……カリカリ……ガリガリ……


「まただ……」

山田君がいない時にも、隣から微かに音が聞こえてくる。なにかをかじっている? 引っ掻いている? そんな音。

「ネズミかなあ……」

あんまり毎日続くようなら、大家さんに相談しないとな。そう思っていた。


 1ヶ月ほどが経ち、満員電車の通勤にも段々慣れてきた頃のことだった。

 部屋の前で山田君と会った。

「こんばんは。うちに何か?」

「こんばんは。あの、おにぎりとか、パンとか、ちょっと手伝って頂けたらなと思いまして」

「え?」

「バイト先のコンビニで、おにぎりとかパンとかって、賞味期限間近になると廃棄扱いになるんですよね。それをいつも持って帰ってきてたんですけど、今日はパートさんに、これもこれもっていつもの倍以上持って帰らされてしまって……」

困ったように笑う。

「廃棄扱いっていっても、賞味期限が切れているわけではないので、美味しく食べられるんですよ」

「助かるよ。ありがたく頂きます」

僕がそう言うと、彼は、僕を自分の部屋に招き入れた。

「外で分けるわけにもいかないんで。散らかってますけど、どうぞ」

「わあ、なんかごめんね。お邪魔します」


 一人暮らしの男の部屋とは思えないくらいキチンと片付けられた部屋。真ん中に置かれたテーブルの上いっぱいに、コンビニのおにぎりやサンドイッチ、パンなどが置かれていた。

「なるほど。この量は流石にねえ」

「でしょ?」

二人して笑った。


 好きなものを、と言われ、3つ4つ選んだ。

「もっと持ってって下さいよ〜」

そう言いながら、山田君はキッチンに袋を取りに行く。

 僕は、改めて、山田君の部屋を見渡した。

「やっぱり広いねえ。いいなあ」

僕がそう言うと、彼は不思議そうな顔をする。

「同じ間取りじゃないんですか?」

「いや、僕の所は、壁の1/3が1メートル弱内側に引っ込んでるんだよね。その分、ここより狭いよ」

「そうなんだ。うちの部屋と反対側が、ですか?」

「いや、こっち側が、なんだよね。この部屋にクローゼットがついてる分、って聞いたけど」

「クローゼット……浅いですよ?」

「え?」

「ほら」

彼が開けたクローゼットは、奥行きが30センチあるかないかだった。

「え?」

「収納がありますって言われて見てみたらこれで、まあ、ハンガーがけした服も斜めにすれば入らなくはないし、いいか、と思って決めたんですよね」

「え? あれ?」

僕の頭は混乱している。

「ちょ、ちょっと一緒に来てくれるかな?」

僕は、自分の部屋に山田君を連れて入った。

「僕の方、こんなに凹んでるんだけど……」

「……30センチではないですよね?」

何だろう、何とも言えない気持ち悪さが二人を襲う。


 その時だった。


 カリ……ガリガリ……カリカリ……


 いつもの音がした。

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