【KAC20242】仄暗い灰部屋の中で
八月 猫
薄暗い灰部屋の中で
「そうでございますね……。お客様の言われるお家賃では、こちらの物件くらいしかご紹介出来るのはございません」
不動産屋の老婆は深い皺の刻まれた顔を歪めながらそう言った。
紺色のローブを着た鷲鼻の老婆。
しかしその口調ははっきりとしている。
その物件の書かれている羊皮紙を見つめながら、同じく顔を歪める三人の女。
一人は四十に手が届くかどうかという中年の女。
残りの二人は若い娘。
ところどころがほつれた見すぼらしい衣服を身に纏い、手入れされていない痛んだブロンドの髪をしてはいたが、三人ともよく見れば美しく整った容姿をしていた。
「……とりあえず実物を見せてもらえるかしら」
中年の女はあまり乗り気という雰囲気ではなかったが、老婆の提示した住宅の内見をすることを希望した。
「では、早速でございますが、これから向かってもよろしいでしょうか」
「ええ、よろしく」
そうしてゆっくりと歩く老婆の後について、三人は不動産屋を後にした。
「こちらでございます」
不動産屋を出て三十分ほど歩いた。
そこは王都でも外れにある貧民街と呼ばれている地域。
老婆がこちらと指した家は、木造の平屋建ての建物で、築何年という基準よりも、残りの耐年数がどれほどあるのかと不安になるほどのボロ家だった。
「これは……人が住めるの?」
娘の一人が、その家を見て唖然とした顔でそう呟いた。
「お母様、お姉様。私はこんな家に住むのは絶対に嫌よ!」
もう一人の娘がヒステリックに叫ぶ。
「……中を見せてもらえる」
そんな娘の叫びを無視するように、母親は老婆へと話しかけた。
老婆は懐から鉄でできた大きな鍵を取り出すと、傾きかけた扉の閂にかかっていた錠前に差し込んで扉を開ける。
「どうぞ、中をごらんください」
扉は、ギイという軋む音を立てながら、今にも外れてしまいそうなほどに傾きながら開いた。
「明かりを点けますので、少々お待ちを」
老婆は部屋の中にあったテーブルに向かうと、その上に最初から置かれていた蝋燭に火を点けた。
蝋燭の明かりによって室内がぼんやりと照らし出される。
そこは八畳ほどの広さの部屋で、隅には湯を沸かす用の竈が設置されている。
「この部屋が玄関兼、リビング兼、食堂兼、湯あみ場となっておりまして、そちらの奥に同じ広さの部屋がございます。トイレはその奥の部屋から行けます」
三人は足下に注意を払いながら室内へと歩を進める。
「うっ」
入った瞬間、姉が自分の口元を袖で押さえて顔を歪める。
埃っぽい、何か煤けたような空気が室内に漂っていた。
「凄い埃ね……。いえ、これは灰かしら」
母親はテーブルの上に指を這わせてそう言った。
「長い間、誰も住んでおりませんから、そちらの竈の灰が隙間風で舞って積もったのでしょう」
老婆はそれが普通だと言わんばかりの口調で母親を見る。
「お母様!私はこんなとこ絶対に嫌よ!――ごほっ!ごほっ!」
妹は叫んだ拍子に空気中の灰を吸い込んでしまったのか、苦しそうに咳き込んだ。
「落ち着きなさいアナスタシア。私たちは……そんな贅沢を言ってられなくなってしまったのよ……」
涙目で咳き込む妹に悲しそうな目を向ける姉。
「分かってるわよ!ごほっ!これも全部エラの――ごほっ!せいじゃない!!ごほっ!ごほっ!!」
「エラ?」
老婆がその名前に反応する。
「アナスタシア!!」
母親が鬼のような形相で妹を怒鳴った。
「きゃっ!」
その突然の声に驚いた姉が、足下に積もっていた灰に足をとられて転倒する。
尻もちをついた勢いで、床の灰が一斉に舞い上がった。
「ごほっ!ごほっ!ごほっ!!」
薄暗い部屋の中で舞い上がった灰で視界はほとんど無くなり、顔に当てた袖だけでは防ぎきれなかったのか、三人は逃げ道すら分からない状況で激しく咳き込んだ。
少しすると舞っていた灰も落ち着きだし、濃い霧の中にいるかのようだった室内は元の埃っぽい臭いのする薄暗い室内へと戻った。
「これはこれは……」
老婆は全身灰まみれになった三人の姿を見て、どこか面白そうに呟いた。
「もう嫌!!ごほっ!ごほっ!」
「暴れないでアナスタシア!暴れたらまた灰が――ごほっ!」
「ごほっ!ごほっ!……こちらに、ごほっ!……決めますわ」
娘二人のやり取りを横目に、母親は老婆にそう言った。
「嘘でしょ!お母様!ごほっ!」
灰で真っ白になった面白い顔で叫ぶ妹。
「承知いたしました。では、事務所に帰ってから契約書を作成いたしますので、本契約は明日の朝にいたしましょう。ああ、今晩からこちらの家を使用されても構いませんが、いかがいたしますか?」
「ええ、今日はここに泊まるわ。明日契約書を持ってきてちょうだい」
「ねえ!お母様!!ごほっ!ごほっ!」
「では、トレメイン夫人。私は失礼いたします」
老婆は話を終えると、叫ぶ妹をたしなめている姉と母を置いて家を後にした。
貧民街を抜けると、夕方の繁華街は明日の式典に向けて賑わいを見せていた。
道行く人の顔は皆明るく、口々に新しい王妃の名前を呼んでは、これからの新しい王国の未来へと夢を馳せている。
「エマ王妃万歳!!王国の未来に光あれ!!」
まるでそれが国のスローガンであるかのように酒を片手に叫ぶ老人。
周囲の人たちも、その老人に倣うかのように言葉を繰り返す。
王子の一目惚れから始まった一連の事件は、落としていったガラスの靴の持ち主が判明したことで解決した。
そして、そのドラマチックでロマンチックな物語に国民は感動し、情熱的な王子と控えめで賢明な娘の結婚に歓喜していた。
そんな様子を見て老婆は思う。
――そんな幸せな二人の裏で、こっぴどくザマァされた者がいたなんてこと、知ったとしても誰一人として気にも留めないんだろうねえ。
そして深い皺の刻まれた顔が一瞬笑ったかのように歪んだ後、その老婆の姿は人込みの中に消えていった。
【KAC20242】仄暗い灰部屋の中で 八月 猫 @hamrabi
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