第3話 日本における「神がいる社会」

 同じころの日本でも、何(十)万年ものあいだこの地に住む在来種純粋日本人が、酒や納豆・味噌や醤油のような「自然発酵」を神とし、毎日の生活の中で「神への信仰」による生活をしてきました。

  発酵食品(味噌・醤油・納豆・漬物)を前にして「いただきます」と、手を合わせる習慣こそ、立派な宗教活動といえるのではないでしょうか。


  毛唐(白人)が偉そうに「日本人は信仰心が薄い」などとと言いますが、日本人は教会やモスクへ行かずとも聖書やコーランがなくても、朝、ラジオ体操をしながらお天道様に挨拶をし、納豆と味噌汁を食べながら「神への感謝」を自覚してきたのです。発酵食品こそ偉大な神の恩恵であり、白人たちが偉そうに「遺伝子組み換え」だのやっても、味噌や納豆は作れまい(現在では化学的に製造できるのだろうか?)


  いずれにしても、さまざまな人種や民族の入り交じった雑種社会のアメリカには、キリスト教という「神への感謝とそれに基づく、人間社会の規律・規範・倫理観」があることで、国民がまとまっていた。

  日本では、全国至る所に大小の神社や祠(ほこら)あり、それらを中心にした数百にも及ぶ「祭りという神々への感謝を捧げる催し」が盛んでした。毎日、発酵食品で神に(さりげなく)感謝し、年がら年中どこかでやっている厳粛な神事(神を意識する儀礼)や祭りというバカ騒ぎによって、日本人らしく、ごくごく自然でさり気ない神への感謝・神との共存という宗教儀礼・宗教行事を行い、尚且つ、その神事を(Japanアニメの如く)みんなで楽しんできたのです。


  アメリカのように神を意識して生きるにせよ、日本のように無意識に神と仲良くしてきた日本人にしても、神という絶対的な価値観・尺度をベースにした社会・国家であったからこそ、人々の心はうまくまとまっていたのです。

  ところが、近年の日本もアメリカも、「神の目線」ではなく、いい加減な役人やマスコミが垂れ流す、軽薄なものの見方や価値観に汚染されてきているために、バランスの取れた正しい目で社会を見ることができない。政府とマスコミによる無責任なプロパガンダ(煽動)に乗せられて、どう生きたらいいのかという「絶対的価値観」を喪失してしまったのです。


今の日本人の親は、昔と違い、神の目線ではなく人間として(強く)叱るから、「虐待」になってしまうのではないでしょうか。

  60年前、私の祖母は「お天道様に叱られるよ」といって、いたずら小僧の私を戒めたものです。それくらい、日本人の心の中では「神の価値観・絶対尺度」がベースになっていたのです。

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