第2話 神がいた時代

   今から50年前、大学生の時に旅行したアメリカには、至る所に神がいました。「神」を信じて真っ当に生きる人が、ごく自然に存在していたのです。


  ニューメキシコで不良に囲まれたり、ニューヨークの宿ではプロレスラーのような男が部屋のドアに体当たりをしてきたりと、物騒なことは何度もありましたが、それ以上に、行く先々で出会う親切なキリスト教徒たちの中で、安心して旅が続けられました。

  昔の日本も、日本各地の神々の庇護の元、在来種純粋日本人の心はまとまり、皆で一生懸命働いて心から楽しむことのできる(現在の「見せかけの好景気」とは違う)本当に活気のある社会でした。


21世紀の現在「アメリカが荒れている」「日本が衰退している」というのは、要は、いい加減で嘘つきな政治屋や、くだらないニュースばかりを垂れ流す軽佻浮薄なマスコミによって、「神」という揺るぎない絶対的価値観が人々の心から喪失させられていることに、根本的な原因があるのではないでしょうか。

50年前の北米旅行、カナダのカルガリーという、4月でも雪が降る町で、YMCAのフロントマンは、深夜、宿無しの私を玄関横のフロアで寝かせてくれました(朝、目が醒めたら私のほかに数人のホームレスが周りに寝ていました。)


  バンクーバーのある公園を歩いていると、3歳くらいの男の子が水辺に遊ぶ鴨の親子に大きな石を投げ、激しい水しぶきが上がりました。すると、彼の父親が無言・無表情でゆっくりと歩いてきて子供の隣に立つと、いきなり子供のお尻に蹴りを入れました。男の子の体が10センチくらい浮くほどの強い蹴りでした。男の子は泣きもせず、ただ恥ずかしそうにして、母親の方へ走っていきました。

  子どもたちは自由に遊ばせる。しかし、ちょっとでも道理に外れるようなことをすれば、厳しい罰を与える。「竹の節」のような躾(しつけ)といえるでしょう。  また父親は、人間として叱ったのではなく「神」として罰した。そう思わせるような光景でした。


人間から見れば口で注意すればいい、という程度の悪戯にすぎない。しかし、神の目線からすれば「絶対に」悪いことなのだ。だから、そういうことは絶対にしてはならない、という意味を子供にわからせるために、重い体罰を与えたのです。

これが「神という絶対目線」が浸透していた、当時のキリスト教社会であったのだと思います。

  一つ一つの具体的な話だけでなく、(今にして思えば)アメリカやカナダ全体が、キリスト教という規律・規範・道徳観念によって、きちっとまとまっていた。あれが宗教の徳(利益・もうけではなく、道をさとった立派な行為。善い行いをする性格。身についた品性)が行き渡った社会・国というものだったのでしょう。


  それから数年経ち、ボストンの駐在員時代、仲良くなったアメリカンインディアンン夫婦と日曜日に教会へ行ったことがありました。  日曜の朝早くからお祈りをしたり賛美歌を歌うという、規律・厳しい習慣を自分に課している人たちが大勢いるというのは、聖書の教え以前、大切な生活習慣によって人々の心が律せられた良き社会を作っているように思えました。  竹の節のように、ある期間は自由にしていても、一週間に一度は(精神的に)ビシッと締めることで、規律とリズムのある社会になっていたのです。(毎日決まった時間に厳しい殴り合いをする大学日本拳法も、それと同じかもしれません。一日のうちで2・3時間は必死になって殴り合いをする、超真剣になる時間があってもいいのではないでしょうか。)


「神」という絶対的な存在を強く意識し、謙虚になることのできる人たちが運営する「自由と規律」という、バランスが取れた社会とは、何物にも変えがたい価値があったのだと、今にして思います。

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