時計仕掛けのオレンジ 現代の「カインとアベル」 V.2.2

@MasatoHiraguri

第1話 はじめに

本文章・エッセイ(小論)は、2分30秒間の彼女たちの戦いからインスパイア(鼓舞・啓発・触発)されたわけですが、文責は私(平栗雅人)にあります。   


日本拳法とは、本気で・思いっきり・真剣に人の顔面をぶん殴るボクシングのような(激しい)スポーツでありながら、審判(という神)によってその殴り具合が即座に判定されるという点では武道です(強固な面と胴、グローブを着用)。

  さらに、大学日本拳法となると、18歳から25歳くらいまでの、人間の気力と体力が頂点に達する時期ですから、アマチュア・スポーツとしては、肉体的激しさ・技術的に最高峰といえます。  同じ「日本拳法」といっても、自衛隊の徒手格闘術や警察の逮捕術といった、完全に肉体的に相手を屈服させるための、体力や技術中心の格闘術・格闘技ではなく、むしろ、精神を鍛えるために肉体を酷使するという意味で、精神力の育成・強化・熟成を主な目的としている大学も多い。


  いわゆる「小手先の技術や技巧に凝る」のではなく、ただただ前へ出て死に物狂いで戦うことに日本拳法の意味を求め、大学生という「社会人を目の前にした、いい歳をした大人」がやるぶん殴り合いに大きな意義を見いだそうとする。  ケンカに勝つためのぶん殴り合いではなく、大きな大会で優勝することにのみ意義を見いだすのでもない。自分自身の闘争心・勇猛心を磨くことで、デカルトのいう「コギト・エルゴ・スム 真の自分」を見い出し、掘り下げる。真の自分をdistinguishする(オレはオレである、私はわたしである、と、自分と他との見分けがつくまでに、自分の形而上的な存在感を高める・磨く)のが、大学日本拳法である(と私個人は考えています)。

  そういう哲学をする場こそが、ボクシングやフェンシングに与えられる「noble science(哲学的な気高さを追求しながらも、科学としての厳密性・合理性・再現性)」を兼ね備えた、大学日本拳法という武道なのです。

  今回、ある大学日本拳法の試合映像を見る機会があり、50年前に自分がやっていた大学日本拳法というものの真価を改めて認識すると共に、肉体のぶつかり合い以上に激しい、彼女たちの精神的な戦いの中に、「絶対」を見ました。  そして、その「絶対」こそ、昨今の私たち日本人が忘れ、疎かにしている「神」のことであると、気づいたのです。


YouTube「2017全日本学生拳法個人選手権大会 女子の部準決勝戦 岡崎VS谷」 

  https://www.youtube.com/watch?v=O7kumnslLns 


   彼女たちは、目の前の敵ではなく、絶対的に揺るぎない自分、自分の拳法は絶対にこうあるべきである、という内なる神と一体化しようと格闘しているかのようです。私もまた、大学日本拳法時代、目の前の敵をぶん殴ることばかりに熱くなっていました。  ただ私の場合、人をぶん殴るという「人間のレベル」での格闘・闘争でしたが、彼女たちの戦いには、そういう人間くささが消えた、もっとずっとピュアな「絶対という神」が見えたのです。

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