13「旅立つ理由は誰がために」
結局、鳴海君は帰ってこなかった。
あの夜、八月二十一日。
燕貝を倒した鳴海君は、そのまま消えてしまった。
綾瀬にいる彼の家族は無事だったのだろうか。
あるいは、鳴海君は──。
確かめる術はほぼ無かった。
そもそも携帯も持たずに旅に出ていた彼だから、電話番号の交換なんてこともしていない。それに、こんなにも早く別行動をする羽目になるとも思っていなかったので、緊急時に落ち合う場所も決めていない。
そうなれば、テレビや新聞で綾瀬在住の四人家族が惨殺されたり誘拐されたりしたって報道を探すしかないのだけれど、それも意味はなさそうだった。
〈月堕〉にとって報道規制くらいは造作もないことだと、祥子さんが語った。
そもそもヤツらが全国に児童養護施設を建てていたのは、月の罪人をいち早く回収するためだった。かぐや姫のような月の民は、地球では孤児として扱われるためだ。
けれどそのためには金が要る。ので、光子研究の副産物である医薬品を格安で医療機関に卸したり、秘密裏に依頼される殺しを引き受けたりしてきた。
当然、そんなことをしていればすぐに警察や記者の介入が合って大問題になるはずだが、かつて帝だった珂瑠に脅迫される宮内庁や、〈月堕〉がもたらす利権をむさぼる政治家たちが防ぐことで一見してクリーンな宗教団体を装うことができている。
そういうわけで、テレビも電話も新聞も、全部役に立たない。
だからこそ、残った選択肢は一つだけ。
──私も綾瀬に向かい、彼を探すこと。
だけど──。
「……おじいちゃん」
清潔なシーツが敷かれたベッドの上で、おじいちゃんは眠っている。
血の滲んだ包帯が巻かれた左腕はあまりにも短すぎる。その傷跡の重大さの割に、顔や身体に傷は無かった。土気色に染まった顔は、それでも高熱によってわずかに朱が差していて、それが死に化粧を施された死体のような不自然さを醸し出している。
薄い胸が微かに上下していることだけが、たった一つの命の証だった。
あれから三日。まだ、おじいちゃんは目を覚まさない。
ベッドわきの小さな椅子の上で、俯く私は拳を握る。旅に出てから一度も爪を切っていないせいで、掌にチクリと痛みが走る。
震えるほどに力を籠めていくと、肉に食い込む爪が皮を裂き、くだらない自傷行為で私の気持ちを晴らしてくれるんじゃないかって気がした。もっとも、それが無意味なことくらい、とっくの昔にわかっているのだけれど。
「抜け殻みたいね」
「へ……」
静かすぎる部屋に響いた声にはっとして顔をあげた。
部屋の入り口には、祥子さんが立っていた。ついさっき、〈月堕〉の追手が来ていないかを確認するために出て行った彼女がどうしてここにいるのだろうか。
先ほどの言葉の意味も深く考えずに首を傾げると、彼女は深く溜息を吐いた。
「一時間前とまったくおんなじ姿勢で、おんなじところに座ってる」
「一時間……」
そんなに経っていたんだ。漠然とこの無為な一時間を振り返り、バカらしさに苦笑する。でも、たとえ自虐の笑みですらうまく浮かべることができなかった。
抜け殻という言葉が、生きているのにもかかわらず目を覚まさないおじいちゃんではなく、生きているのに死んでるみたいに沈む私に向けられていたことを悟る。
「追手は来てなかったわよ。でも、ここもそのうちバレるだろうし、そうなる前に移動しなきゃだわ」
ここ──広陵町の外れにある山中、そこの廃ホテルを祥子さんは根城にしていた。
廃ホテルと言っても彼女が改装しているため、電気もガスも水道も通っているし、部屋もきれいだった。こんな感じの潜伏先を彼女はいくつも持っているらしい。
「逃げる……のに、おじいちゃんは耐えられません」
「そうね。それが悩みどころよね……っと」
おじいちゃんのベッドを挟んだ向かい側に椅子を引き、彼女はどっかりと腰を下ろした。長くしなやかに伸びた脚を組むとモデルかなにかに見える。それなりに日焼けした肌は、それでも色白に分類できるだろう。薄桃色に染まった唇は艶があり、どことなく気品のようなものも漂っている気がした。
けれど、そんな美貌を打ち消すように、彼女の瞳には狡猾さが滲み出ている。
悪い人ではないのだろう。そして同時に、敵でもないのだろう。ただ、味方かと言われれば首を捻らざるを得ない。彼女はきっとその言葉通りに、自分の望みを叶えることにしか興味がない。のかもしれない。
「……霊薬擬きは」
「ダメよ」
ぴしゃりと叱りつけられ、自身のポケットに伸ばしかけていた手を止める。すでに何回も繰り返されたやり取りに嫌気がさしたのか、祥子さんは不機嫌そうに呟いた。
「霊薬擬きはあと一つだけなのよ。造健に呑ませれば、腕も生えるし熱も引く。でもそれだけ。もともと衰えてる造健は戦えないんだから、無駄遣いにもほどがある」
「そんな言い方──」
勢い任せに立ち上がった割には、漏れ出た声は消え入るようだった。
それは、彼女の言い分が正しいことを理解しているから。
おじいちゃんに霊薬擬きを呑ませれば、私は戦う術を失う。玉枝のときも、燕貝のときも私が生き残ることができたのは霊薬擬きのおかげだった。
霊薬擬きの製造方法を一度として明かさなかった玉枝が死んだ以上、〈月堕〉が保有している霊薬擬きの数はわからない。ただ、もともと大量生産には向かない薬なので、その数は決して多くないだろう。
〈月堕〉を襲ったところで霊薬擬きを補給できるかどうかは望み薄だ。そもそも幹部にしか支給されないわけだし、一回の支給量だって作戦開始前の二、三粒だけだ。
だから、今私の手元に残っているこの一粒が、最後の唯一の武器だった。
おいそれと使うわけにはいかない。そんなことはわかっているんだ。
でも──。
「それじゃあせめて、病院に……」
「だぁかぁらぁ、それもダメって言ってるじゃない」
「……そう、ですね」
病院には〈月堕〉に関わる人間が頻繁に出入りしている。その信者たち全員が月の都のことを知らされているわけではないけれど、万が一ってこともある。安易な選択肢に流されて取り返しのつかない失敗をするのは避けたいところだ。
凍るように冷たい沈黙が流れる。そこに溜息を響かせることすら気が引けたので、私はぎゅっと目を閉じた。
そして思考は再び鳴海高という男の子の元に巡り帰ってくる。
鳴海君──。
あの夜彼は、私に「一緒に戦おう」と言ってくれた。彼が光子分解を使うまでのほんの数十秒間だけ、燕貝を引き付けておく役目を与えてくれた。
それがどれほど嬉しかったかなんて、きっと彼にはわからないだろう。
すべてが自分のせいだと思い込んで、たった独りで戦おうとしていた彼がようやく私を頼ってくれた。これを切っ掛けにして、これからも彼の隣で友達として、相棒として、それこそ同志として共に戦って行けると期待したりもしたんだよ。
でも、結局あの人は私を置いて綾瀬に戻ってしまった。
もちろん、彼の光子分解では私を連れて瞬間移動することなんてできなかっただろうし、しょうがないことだというのはわかるんだ。時間もあまりなかっただろうから、碌な相談もできなかったのもわかる。
仕方のないことだった。ちゃんと、わかっているのに。
私はまだ、彼の隣に立てていなかった。
そんな事実が、一つ確か。
胸に刺さった棘は、この痛みは、彼に再会することでしか癒せない。
「さて。これからの話をしましょうか」
祥子さんが冷酷に言い放つ。
良いこと──と、教師めいたしたり顔で彼女は続けた。
「覚悟とは、優先順位を決めることなのよ。譲れないものを一つ決めて、それ以外のすべてを捨てる勇気を持つ……それが本来の覚悟の意味だとあたしは思う。だからあたしに言わせれば、手当たり次第にすべてを救おうとするようなヤツは自分の掌の小ささを知らない愚か者か、あるいは──」
不自然なところで言葉を区切った彼女は、なにかを誤魔化すように咳払いをした。それから、「ま、愚か者ってことね」と無理やり結んで私を見つめる。
二対の蛇の瞳とその声で、彼女は私に問いかけた。
それは、いつかの夜と同じ問い。
「笹貫郁子は、なにを望むのかしら?」
「本当のところ、答えは決まっているんです」
私がなにをしたいのかは、もうわかっているんだ。でも、これまで間違え続けてきた私だから、この選択が本当に正しいのか不安になるってだけ。
覚悟。そう、それが私には足りていないんだ。
喪うことを恐れていては、なにも手に入らない。
そんなことは、とうの昔に理解している。
「おじいちゃん、ごめんなさい」
謝罪は短く。当然のごとく、彼の耳には届かない。
だからこれは、私が勝手に誓うだけ。
胸に手を当て、忘れ得ぬ始まりに立ち返る。
『俺と友達になってください』
始まりの夜の終わりに、鳴海高はそう言った。
あのとき彼は〈月堕〉や月の民のことを、なにもかもを知らなかった。だというのに、そういう話に触れるより先に、私に向かってそう言ったんだ。
おかしいと思ったよ。素直に。コイツ頭悪いなって思ったよ。
でも、でもね。それ以上に、
「救われた、と思ったんです。鳴海君が、罪を犯した私と自分が似てるって言ってくれたから……だから私もまだ、頑張れるって思ったんです。間違い続けたこれまでに、あの人が意味をくれたんです」
たとえこれが、どれだけ欲深い望みだったとしても。
たとえこれが、どれほど都合の良い思いだったとしても。
たとえ、罪を犯した私には、決して叶えられない夢だったとしても──。
「私は、鳴海高の友達に……永遠に一緒に居られる友達になりたい」
かつて彼に救われたから、今度は私が救いたい。
それこそが、受けた恩に報いるということで、責任を果たすということだ。
きっときっと、そうなんだと信じる。
だからこそ、私は言った。
「お願いします。祥子さん。私に、戦う力を教えてください」
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