12 罪過の始まり。」

 溺れてるみたいだ、と思った。でもまぁ、生まれてこの方溺れたことなんて無いし、正直なにがなにやらって感じなんだけれども。

 ただ、手足に重たいなにかが纏わりついているような感じがして、もがけばもがくほどに抵抗が増していく。それで結局、指一本動かせないくらいにくたびれる。

 呼吸は錆びつき、心は擦り切れ、恐怖と後悔だけが唯一確か。ほんの一瞬でも気を散らせば、すぐに俺が消え失せてしまう気がしたから、必死に思考を回し続けた。


 しばらくのあいだそうしていたら、声が聞こえた。低く唸るような声はゲップ混じりで気色悪くて、そこに混じる水音もまた汚らしい。ついでに言えば、すえた匂いもする。でも、耳を澄ませばその音も、匂いもすべて俺が出したものだった。

 四つん這いになって、派手にえずいているんだと気がついた。


「っづぅううぅううああぁ……」


 いくら吐いても楽になれない。胃の中身をすべて絞り尽くしても、空っぽになる傍から充填されていく。燃えるように熱い下腹部が痙攣していて、鼻の奥からどろりとした鼻血が零れて落ちていく。口も鼻もそんな感じなので呼吸はできなかった。

 でも、すっぱい胃液の匂いを嗅がなくてすむのは不幸中の幸いだったのかもしれない。まぁ、血の鉄臭さは強く感じるのだけれど。

 これはきっと、へたくそな光子分解を使った代償だろう。自分の体内なんて見たことが無いから、イメージが及ばなかったんだ。でも、そんなことはどうでもいい。

 なにせ──。


 幾度となく朝と夜とを繰り返した鳴海家が、台風や地震などという自然災害に見舞われたのかと思うほどに荒れ尽くしていた。

 見慣れた壁紙はずたずたに切り裂かれ、あちこちに血が飛び散って乾いた跡がある。踏みなれたフローリングもあちこちがひび割れ、床板の下に隠されているはずの打ちっぱなしのコンクリートでできた土台部分が露出している部分も目立つ。

 当然のようにソファは破け、テレビの液晶は割れ、ダイニングテーブルはただの薄汚れた木材の破片に変わり果てている。


「──」


 おそらく。まだ霊薬擬きの効果が残っていたのだろう。あれだけ痛くて辛かった内臓の熱は立ち消え、代わりに生じた冷たさは呼吸を浅くする。

 言葉を発することもなく立ち上がり、リビングを出ようとしたとき、ちらりと横目に飛び込んできたのは、土足で踏みつけられた写真やらの小物類だった。

 俺が鳴海家に引き取られてから初めての誕生日に旅行に行って、そのときに撮ったもの。それだけじゃない。俺や螢が学校の授業で造った置物やらが、悲惨に砕けて転がっていた。平穏な家族の思い出が、容赦なく破壊されてゴミ同然に転がっている。

 だから。思わず口の端が震えた。

 ダメだ。やめろ。口ぃ閉じてろ。黙れ。喋るな。喋ったら──。


「ひっ、ひぃ、け、謙一……蓮子っ、け、っ、螢……み、みんなぁ……?」


 だれもいないこの家で、残酷な沈黙を聞く羽目になる。

 いつしか呼吸は意味を失くし、酸素の得られない身体は悲鳴のような呼吸音を奏で始めていた。眩暈がするほど息苦しくて、それでもこのくだらない確認作業を止めることはできない。リビングから始まったルームツアーは長く続く。


 「子供は二人以上欲しい」と蓮子が言ったから立派な家を買ったんだと、謙一が自慢げに語っていた。それに蓮子は顔を赤らめて「お父さん無茶するんだから」なんて惚気るものだから、鼻白んだ俺は肩をすくめて、螢は気まずそうに苦笑して──。


 だめだ。考えるな。なにも。見るな。探すな。考えるな。やめろ。

 脳内では最大音量のアラートが響いているのにもかかわらず、夢遊病患者のようにふらふらと家の中を歩き回る。リビング。とりあえずトイレ。風呂場。玄関。和室。書斎。謙一の部屋。蓮子の部屋。螢の部屋。そして最後に──俺の部屋。


 一切の灯が消され、薄暗かった家の中とは対照的に、閉め切られたドアの隙間から黄色い明かりが漏れている。そして薄い扉一枚隔てた向こう側から流れる空気は血の香を含んだ冷たさを発していて、肌がちくちくと痛むようだった。

 この向こうには、きっとなにかがあるだろう。それは家族の死体かもしれないし、そうでないかもしれない。ただ、いずれにせよ碌なものはない。


 開けずに逃げる。それもまた、一つの選択肢。このまま安易な平穏を守るのなら、これ以上ない最善手。家族の死を確認しない限り、俺はバカでいられる。無邪気に無軌道に無防備に、彼らの生存を信じて生き続けることだってできる。

 でも、それでも俺は、震える手でドアノブを握っていた。

 勢いよく、とはいかなかった。恐る恐る、掌に力を籠めた。

 そして──


「ぁ」


 冷たい床に積み重なる三人分の死体を見た。

 大人の男女と、少女の遺体だった。一番下には少女が蹲っており、それを守ろうとするかのように女性、男性の順で覆いかぶさっている。けれどもそんなささやかな抵抗も虚しく、彼ら彼女らは息絶えている。

 直接の死因は推し量ることができなかった。

 なにせ、三人の肉体は損傷が激しく、全身にはいくつもの刺し傷があった。

 それだけでなく、男の片腕は無惨にも捻じれて、手首から先が千切れていたし、女性の脚はなにかで無理やり押しつぶしたかのようにつぶれているし、少女に至っては額が大きく陥没していた。

 ひょっとしたら二人の大人が守ろうとしていたのは少女の命ではなく、その遺体だったのかもしれない。初めに少女が致命傷を負い、命からがら彼らはこの部屋に逃げ込み、そこに追手がやって来て──。

 克明なイメージが脳裏に描かれ、だから気がつけば呟いている。


「……謙一、蓮子、螢……みんな……」


 今際の際に彼らがなにを想っていたのか。もう知る術はない。

 いやそもそも、生前の彼らがなにを想っていたのかすら、俺は知らなかったんだ。

 ただ少なくとも彼らは善人であり、こんな目に遭う謂れはなかったはずだ。真っ当に生きて、真っ当に年老いて、真っ当に死んでいく。それが彼らの辿るべき運命であり、決してこんなふうに身体を惨たらしく傷つけられて死ぬべきじゃない。


 不思議と吐き気は催さなかった。さっきまであれほど吐き乱していたはずなのに、胃は痙攣を起すどころか平穏そのもの。三人の遺体を一度脇に寄せてから、床に布団を敷いてその上に横たえる。

 抱えた重たい身体から、血なまぐささに混じった嗅ぎ慣れた香りがした。一通り血痕を拭きとって、見開かれた目を閉じてやる頃には、夜は明けていた。

 埋葬してやるとか、警察や救急を呼ぶという考えには至らなかった。だからといって、このまま丁寧に安置してやれば目を覚ましてくれるんじゃないかって甘い考えは持っていない。

 どこからどう見ても、三人はすでに死んでいた。


「イワカサは……」


 いったいどこに消えてしまったのだろうか。

 燕貝の言葉を鵜呑みにするわけじゃないが、ヤツが〈月堕〉と通じていたのなら、みんなを殺したのはイワカサだったのかもしれない。けれどそれではこの家の荒れ具合に説明がつかない。火鼠とその部下たちが襲撃してきたと考えるのが妥当だろう。

 ではその場合、イワカサにはいったいどんな役目が与えられていたのだろうか。

 火鼠たちに鳴海家の居場所を伝えること? そんなことのために玉枝を殺そうとして俺の信頼を得たかった? いや無意味だろそれは。

〈月堕〉の狙いは月印だ。三人を殺したところで俺から月印が奪えるわけではないだろうに。それなら彼らの身柄を拘束して人質として運用する方がよほど賢明だ。

 それに、そもそもイワカサだって光子分解を使えるのだ。ならば珂瑠の標的にイワカサが挙がらないのも奇妙だ。ヤツもまた、燕貝と同じく人工月印を有していた可能性は十分に考えられる。

 が、しかし。燕貝は一度として瞬間移動を為さなかったし、ヤツ自身その口から語っていたように人工月印は出力が本物に劣るらしい。だからこそ瞬間移動を何度も繰り返していたイワカサが人工月印の所有者であるというのも考えにくい。

 ……いや、完成品をイワカサが、劣化品か試作品を燕貝が持っていたのか?


「……ははっ」


 気がついた途端、笑いが零れてしょうがなかった。なんてひどい笑い話だ。

 一度として家族足り得ない幼いふるまいをしてきたにもかかわらず、それでも俺は、鳴海謙一と、鳴海蓮子と、鳴海螢と暮らしてきた。同じ時間、同じ場所で生きて、同じように笑ったり泣いたりして生きてきた。

 だというのに俺は悲しむこともせず、淡々と冷静に思考を回している。眼前の光景を受け入れられていないから。なんてありがちな機微もここには無かっただろう。

 そして虚しいことに、俺がどれだけ頭を働かせようとも、答えは依然闇の中。

 なにもかも、わからない。 

 わからないけれど──。


 不意に造健さんの言葉がよみがえって来た。


『あなたはあなたの望むものを追ってください』


 俺が望んでいたものが、今この瞬間に定まった。

 もちろんこの望みを叶えたとしても、きっと月の使者は来ない。だって彼らは、俺が月の都を追放されたときに抱いていた望みを果たしたときに来るらしいから。

 でも、それでいい。

 帰る場所も、行き着くゴールももういらない。

 俺はもう、救われたいとは思わない。

 言い訳ももうしない。現実逃避だって二度としないとここに誓おう。

 たとえどれほどの罪を重ねようとも。

 たとえどれほどの傷を負おうとも。

 やがて犯した罪で息ができなくなったとしても──。


「──〈月堕〉を、ぶっ潰してやる」


 立ちふさがる敵は、みんな殺してやる。

 そうしなければ、だれ一人として幸せにはなれない。

 なにもかもがわからないまま、ただ一つだけを理解していた。

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