6「うじうじいじいじやくたたず」
鳴海君が倒れてすぐ、眩しい光と甲高い金属音が私たちの視覚と聴覚を奪った。未知の感覚に半狂乱になりかけたとき、だれかが私の手を引いてくれた。
お母さん。って一瞬だけ思って、すぐに後悔した。
あの人が、私の手を引いてくれるはずもない。
夢現をたゆたうようになにも見えず、聞こえずのまま駆けるだけ。そうして五分くらいで、土や埃の匂いが届き始めて、同時に耳鳴りが止んでいって、妙にテンションの高い女性の声を聞いた。
「ほら! 少年! 気ー確かにね! 傷はそんなに深くないわよ‼ 右目やられて腹に穴空いて内臓飛び出しかけてるだけだから! 生きてるぜ! 命舐めんな死んでたまるか‼ テンション上げてけバカヤロウ‼」
「ぁ、あぁい。がんばる」
訊き馴染みのある声はすっかり掠れて弱々しかったけれど、それでも鳴海君のものだとわかった。だからはっとして、手探りでポケットをまさぐる。
金属製のピルケース。中には、霊薬擬きが入っている。〈月堕〉を裏切ったことで補給を断たれたのでたった三粒しか残っていないし、その効果も三十分しか持たない劣化品だけれど、鳴海君の傷を癒すぶんには問題はない。
「あの、すみません。鳴海君にこれを……」
繋いだ手を軽く引き、女性に薬を差し出した。私の指先から丸薬の感触が消えるや否や、不思議そうな、というより不審そうな女性の声が響く。
「なにこれ? お薬? やばいやつ? 痛み止め的な?」
「やばいやつではあります。でも、鳴海君の傷が治ります」
「そんな都合のいいことが起きてたまるか‼ あたしいちおう車の免許持ってるからわかるけど、少年は今すぐ手術しなきゃ危ないのよ‼ そう簡単に治ってたま……治ってるぅー⁉ なんで⁉ 超キモイわね⁉」
車の免許? それと鳴海君の傷の深さがわかることとは関係ないでしょ。
なんて呑気な突っ込みが脳裏に掠めたとき、鳴海君の声がまた聞こえてきた。
「キモいとか言わないでくださいよ……。俺、そろそろ自分で走れます」
「えぇ⁉ なんでぇ⁉ キモイキモイ‼ 目ぇ治ってるヤバぁ‼」
回復した彼の姿を見て安心したくて、ぼんやりと白飛びした視界で探る。
ゆっくりと焦点を合わせていく目の中に、自分の脚で立ち、そして走る彼の背中が見える。同時に、この奇妙な場所の様子も視界に映る。
等間隔に並ぶ白熱電球がちかちか瞬く薄暗い道だった。道幅は人が三人並ぶので精いっぱいといった感じで、壁と天井が漆喰かなにかで押し固められている。
……地下通路だろうか。
呆然と周囲の様子を窺う私とはちがって、鳴海君は冷静に彼女に問いかける。
「駅で会いましたよね。あなた、何者なんですか?」
「あれ? 名乗んなかったっけ? あたし、祥子よ。よろしくね」
「とりあえず助かりました。ありがとうございます」
「感謝は要らんぜ少年よ。んなことよりとにかく走るわよ‼」
二人の短いやり取りが耳を通り抜けていく。さっきから──おじいちゃんの腕を見せられたときから、私の頭は鈍くなっている。
覚悟はしていた。ここに来た時点で。いやもっと前。〈月堕〉を裏切ると決めた時点で周りに被害が及ぶ可能性は想定済みだった。
でも、実際にことが起きればこのざまだ。
対して鳴海君は家族が人質に取られても燕貝に飛び掛かった。それは決して最善ではなかっただろうけど、少なくとも思考停止に陥ることはなかったように思える。
彼は、案外いざってときに冷静だったりする。
玉枝のときにもそうだった。
わけのわからない状況なのに、その中でどうにか努力する勇気を持っている。
それに比べて私は──。
「……役立たずだ」
燕貝に拘束されて、恐怖で身体が竦んでしまった。
思考停止に陥って、なにも言えずになにもできなかった。
こんなんじゃ、なんのために鳴海君と一緒に旅立ったのかもわからなくなる。
「笹貫? 大丈夫?」
自分だっていっぱいいっぱいのくせに、心配そうに鳴海君が言う。
それで気を取り直し、余計な思考を追い払う。
ダメだ。今はとにかく考えろ。両手で自身の頬を叩いてから、私の少し前、鳴海君と並走する女性の背中をじっと見つめて問いかけた。
「大丈夫。それで、祥子さん、でしたっけ? ここどこなんですか?」
「ここは広陵町の地下に張り巡らされた蟻の巣って話らしいわよ」
「らしい、というのは?」
ほかにもだれかいるのだろうか。そんなふうに問いかけると、彼女は言った。
「散歩してたら腕の無いじーさんが路上に倒れてて、手当てしてあげたのよ。そしたらそのじーさんに閃光弾持たされて、二人をここに連れてくるよーに言われて」
「腕の無いじーさん……?」
燕貝は、おじいちゃんはまだ生きてるって言ってた。でも、そんなの信じられなかった。そもそも腕が切断されたらすぐに止血しないと失血死するだろうし。
だから、彼がちゃんと手当を受けてくれていたと知って、少しだけ安堵した。
ただ、彼の現状を訊ねるのが恐ろしくて言いよどんでしまった。
そしたら代わりに鳴海君が叫んでくれた。
「造健さん‼ 無事なんですか⁉」
「ま、隻腕を無事って言っていいのかどうかはべつとして、死んではいないわよ。とりあえず血ぃ止めて休んでもらってるわ」
鳴海君は少しだけ走るペースを落とし、私の隣に並んだ。
血の付いた腕で自分の顔をごしごし擦ってから、途切れ途切れの震え声。
「……よかった。本当にっ……笹貫ごめん。造健さんが殺されたら、俺、さぁ」
「べつに、鳴海君が謝ることなんてないでしょ」
「でも、ほら、これ。俺のせいで……」
「そういうの良いから。とにかく今は逃げ──……どうして」
長く続いた通路が終わり、円形の広間に出たときに思わず零した。
蟻の巣とは言い得て妙で、その広間にはいくつかの通路が続いていた。そのうちの一つ──薄闇に包まれた道の奥からぬるりと現れた人影に私たちは急ブレーキ。
そこにいるはずのない人影は、少年の姿をした悪魔だった。
「どうして……? 妙なことを聞くね。この地下通路は笹貫家が〈月堕〉の襲撃に備えてコツコツ作って来た場所なんだと。……御鉢の祖父の、そのまた何代も前の当主が拷問に耐えかねて吐いたらしい。僕らはこの場所を知っていた。それだけさ」
平然と語るのは燕貝は、その全身から死臭を放っている。
〈月堕〉の一員として生活していたころ、ヤツと直接会話をしたことはなかった。ただ、いくつもの不吉な噂を聞いた。テレビで見たことのあるような政治家を殺しただとか、外国のマフィアを潰して金を強奪しただとか。
真偽不明のくだらない噂だったけれど、あながち嘘ではなかっただろう。
〈月堕〉は資金を集めるために違法薬物の売買や、殺人の依頼を受けていたから。
「──ぬきっ‼ 笹貫ッ‼」
「あっ、えっ、なに」
「なにじゃねぇよしっかりしろ!」
鳴海君が震えながら叫んでいた。
燕貝は余裕ぶった態度で屈伸運動なんてして、対する鳴海君は私たちを庇うように前に出ている。彼は、後ろを振り返らずに小さく早口で言った。
「逃げろ笹貫。祥子さんも連れてもと来た道を引き返せ」
「で、でも」
「でもじゃねぇ。時間ねぇ。合図したらすぐ走れ!」
「さて。逃げる気だね。それも良いさ。それでこそ──」
パキパキと指を鳴らした燕貝が言葉を区切り、ぐっと身体を縮め、解き放つ。
バガン! と地面が割れる轟音と共に、猛然と小さな身体が迫りくる。
「それでこそっ‼ 奪い甲斐があるってものさァ‼」
「クッソォオオォオああぁああああ‼」
叫んで迎え撃とうとする鳴海君だったけれど、
「逃げるのは──」
「なっ⁉ 放っ⁉」
祥子さんは鳴海君の襟首を引き、代わりに燕貝の前に出る。
そしてそのまま、
「子供の役目でしょうがぁ‼」
「だれだか知らないけれど、邪魔だよ」
「あ痛ぁ⁉」
軽く振られた拳が、彼女の身体を横凪ぎに吹き飛ばす。そのまま派手な音を立てて広間の側壁に叩きつけられ、土煙の中で動かなくなった。
死んじゃったかも。そういう恐怖で判断が鈍り、その隙を埋めるように、
「っお前ぇ‼」
「第二ラウンドと行こうじゃないか‼ 瓜丈高ッ‼」
鳴海君が燕貝に躍りかかった。まっすぐ突き出された鳴海君の拳を難なく回避した燕貝が、その勢いのまま鋭い蹴りを放ち、鳴海君の身体を弾き飛ばす。
広間の端まで転がった彼を見て、私は──。
ポケットの霊薬擬きを一つつまんで、口に運ぼうとして。
「笹貫‼ 祥子さん連れて逃げろ!」
「でも‼ そしたら」
鳴海君はどうするの? なんて聞いている暇はなかった。
「これ全部‼ 俺のせいだろ‼ お前まで死んだら意味ねぇだろうがっ‼」
「あははは‼ 好いね! 邪魔者が消えてこっちとしても楽になる!」
「ここは任せろ! 俺のせいでこうなったんだ‼ だから俺はっ‼」
鳴海君は膝立ちになったまま、構える。
右腕をまっすぐ伸ばし、親指を天井に向け、人差し指の先は燕貝に。
まるで空想の銃の照準を合わせるように──。
「おや? 気づいたのかい? それとも初めから知っていたとか……いいね!」
興味深そうに立ち止まり、その様子を観察する燕貝。
燕貝。鳴海君。祥子さん。
三者のあいだで揺れる視界は定まらず。判断がつかない。鳴海君を助けたい。でも祥子さんは見殺しにはできない。でも、戦ったって勝てる気がしない。鳴海君の家族を助けないと。おじいちゃんだって。
どうする。どうすれば──。
「ぁあ足手まといなんだよ‼ 光子分解も使えねぇくせに邪魔すんな‼」
鳴海君らしくない荒っぽい言葉が、私の心をずたずたに引き裂いた。
でも、その容赦のなさがいっそ清々しくて、私の脚を動かしてくれた。
「祥子さん‼」
「ぅう……」
うつ伏せで呻くだけの彼女を肩に担いで、私はそのすぐ傍の通路に入った。
背後から、鳴海君の声が聞く。
「俺がっ‼ 今ここでっ‼ コイツを殺すッ‼」
遅れて響く「光れ!」という絶叫が、泣いているように聞こえた。
何度も響く轟音が、悲鳴が、哄笑が。追いかけてきていた。
混迷を極めた頭の中に、いつかの言葉が木霊する。
仰向けに倒れただれかが、喘鳴の中に滑り込ませた優しい声。
今際の際のだれかが遺した、たった一つの、呪いみたいな愛情。
『都子はさ、将来、なにになりたい?』
わかんない。わかんないよ。
『お母さんのせいなのかなぁ……諦めるのばっかり上手になっちゃって』
しょうがないじゃん。どうしようもないことばっかりなんだもん。
『でもね。いつかきっと、絶対に諦められないものに出会える日が来るよ』
そんな日なんて来ないよ。おいてかないで。お願い。やめて。
『私がお父さんを諦めなかったように、都子もいつか──』
「おかっ、お母さん……わた、私……ぁ、あぁあごめんなさいぃ」
なにに対して謝っているのだろうか。なんて、答えはわかる。
私が諦めてきたすべてだ。殺して、見殺しにして、喪ってきたすべてだ。
罪悪感で息もできなくなりながら、みっともなく、声をあげて泣いて走った。
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