5「覚悟の是非」
知ってるかい? とヤツは問う。
「『竹取物語』における五人の皇子は、かぐや姫の無理難題に応えられず悲惨な末路を辿ったけれど、唯一、燕の子安貝を求められた中納言石上麻呂だけはかぐや姫に心配してもらえて報われた。だから、こう語られている」
──『貝は無かったけれど、甲斐はあった』ってね。
急襲に、俺も笹貫もすぐさま姿勢を低くした。逃げ出せるように身体を半身にして、十数メートル正面に立つ燕貝の姿をじっと見つめる。
突如として語り始めたヤツに、震える唇をなんとか操って問いかけた。
「だから、なんだよ」
「不甲斐ないよね。姫との結婚を望んでいたくせに、心配されただけで満足しちゃうんだ。僕が思うに、かぐや姫は彼の弱さを見抜いていたんじゃないかな。……そもそも、燕の子安貝っていうのは燕石とも呼ばれているんだよ。だからね、石を持ってこいって要求はつまるところ、意思を示せって意味だったんじゃないかと思うんだ」
脳裏に浮かぶ選択肢は例によって二つ。戦うか、逃げるか。
前者は無理。光子分解はまだうまく使えない。
だからこそ、逃げる一択──なのに、隙が無い。
俺たちがヤツを見ているように、ヤツもまた真っ赤な瞳を輝かせている。
「中納言石上麻呂が持ちえなかったのは石であり、意思だ」
くだらないダジャレを披露した少年は、それでいてドスの利いた声で熱弁する。
それは、聞きたくもない悪人の論理だった。
「欲しいものに手を伸ばし続ける貪欲さ。妥協を許さぬ高潔さ。そしてすべてを捨ててでも、他者を害してでも望みを果たす傲慢さ。必要なのはこれだけさ。燕貝の名を戴く僕だけれど、それでも彼のような失態は犯さない」
だからこそ──と、ヤツは指を立てた。白く細い指先は、血を吸った一振りのナイフのように鋭かった。端正な顔立ちに邪悪な愉悦を滲ませて、燕貝は宣告する。
「今夜、火鼠が率いる〈月堕〉の信者たち、総勢三十二名が瓜丈の家族を襲う」
「は──」
こうなることは、予測していた。だからイワカサは綾瀬に残ったんだ。アイツなら、どうにかみんなを守ってくれる。と、思いつつも、目を見開かざるを得ない。
足元から駆け抜ける怖気が、口の端から漏れていく。
目の前が真っ暗になったとき、少年はカラカラと笑った。
「さて。選択肢は二つだ。一つは、僕に屈して月印を差し出す。そうすれば家族の無事は保証しよう。そしてもう一つは、僕と戦うこと。後者の場合、君の家族は襲撃され、よしんば僕を打倒したとて、君は死体と再会を果たすことになるだろうけれど」
どうする。大丈夫。イワカサを信じればいい。アイツは燕貝とやり合ってなお、平気だった男だ。きっとみんなを守ってくれる。それに燕貝の言うことだって怪しい。もしも月印を譲ったとしても、襲撃を止めてくれるかどうかはわからない。
ぐるぐると回る思考に答えはなくて、だからどうしようもなくて──
「……鳴海君」
押し殺された笹貫の声。落ち着けって意味だろう。
大丈夫。そう言い返そうと思ったのに、口から零れ出たのは呻き声だけ。口いっぱいに血の味がした。それほどまでに、きつく唇を噛み締めていた。
深い溜息を吐き出してから、怒りに震えるまま語る。
「今すぐ綾瀬に戻るのは無理だ。光子分解はまだうまく使えない。だからイワカサを信じる。俺たちは燕貝から逃げる。戦わずに、生き残る。そうだろ。うん。そうだ」
自分に言い聞かせるように繰り返すと、それを燕貝は鼻で笑い飛ばした。
「あはは。瓜丈はおめでたいね。イワカサのことを信じているなんてさ。彼がどこのだれで、なにを望んでいるのかも知らないくせに」
図星を突かれて押し黙る。イワカサのことはなに一つわからない。
俺が彼を信じようと思ったことに根拠はなかった。それはある種、前の見えない雛鳥が初めて見た生き物を親と認識するのと似ている。なにも知らない俺を守って、一番初めに道を示してくれただけなんだし。
でも、彼を信じる以外の道は──。
「どうしてこの前、僕が二度も君を見逃したと思う?」
端的な言葉が示すのは、イワカサと燕貝の繋がりだった。
ずっと不思議に思っていたんだ。
あの夜、おじさんを殺した燕貝は、気を失った俺を殺さずに立ち去って、代わりにイワカサが俺を助けた。そして、そのあと俺を殺しに来た燕貝はイワカサと共にどこかに消えて、玉枝が死ぬなりすんなりと引き下がって行ったらしい。
俺を殺すためだけに俺の家族を狙うようなヤツが、呆気なく諦めるとは思えない。
なら、イワカサと燕貝は通じている?
「鳴海君。落ち着いて。イワカサは私たちの──」
「相談する時間はあげないよ」
「きゃっ」
ぴしゃりと遮る燕貝は、一陣の風となって笹貫の背後に回る。そして彼女の細首を軽く締め上げる。苦悶の表情を浮かべる笹貫が呻いた。
考える暇はなかった。燕貝の動きがまったく見えなかった。動き始める前触れすら認識できなかった。だから燕貝とは戦えない。
だからこそ、逃げるしか──。
「逃げる。それもいい。さすがの僕でも、瓜丈が光子分解による瞬間移動を使えば捕まえられないからね。そのまま家族の元へと急げばいい。運が良ければ火鼠の襲撃に間に合わせることができるかもしれない。けれど。けれどね──」
僕がそれを想定していなかったとは思うなよ──と、ヤツはなにかを空に放った。
宙を舞うのは細い棒。赤い糸を引きながら、くるくると回転して──。
べちゃぁ、と。血の赤に彩られた肌色が、俺の目の前に転がった。
「は……?」「え……ぁ」
俺は当然のことながら、燕貝に拘束されていた笹貫ですら呆然とした。
でも、すぐに理解が及ぶ。これは、腕。だれの。そんなの、一人しかいない。
だって──。
「笹貫造健の腕だよ。でも安心してくれ。造健はまだ生きている。とはいえこれは脅しでもなんでもない。君が逃げるのならば、君が庇いきれないすべてを殺す」
もしも理想を語ることが許されているのなら──。
造健さんを探しながら笹貫を助け、二人を連れて燕貝から逃げる。
それから俺だけで光子分解を使って綾瀬に帰り、火鼠の襲撃を退ける。
そんな計画を立ててみる。
でも、無理だ。できるわけない。
絶望感に塞がれて、呼吸も忘れて、立ち方すら忘れてしまう。
思わず膝をつきそうになったとき、安い挑発を聞く。
「……次はだれのを拾おうかな。鳴海螢だっけ。受験生なんだってね。利き腕をなくしたら左手でテストを受けるのかな。どう思う? 興味深いね」
その言葉で、頭が沸騰しそうになる。
追い打ちをかけるように笹貫が笑う。引き攣った顔をして、涙目になって。
なんでもないと言うように、彼女は自らの命を諦める。
「な、なるみ君……いいよ、逃げて、一人で、お願い」
鼓膜の上にもう一枚膜が張ったように、世界の音が遠く感じる。
そのくせ自分の血流や心音がはっきり聞こえる。顔ばっかりが熱いのに、一方で腹の底が凍えるほどに冷たい。全身に立った鳥肌はきっと今後二度と収まらない。
それっくらい。ほんっとうに。
「──光れェ‼」
不安も恐怖も後悔も、すべてが塗りつぶされるほどに許せなかった。
考えを改める。決めた。今決めた。今絶対決めた。
俺の望みはただ一つ。
今ここで、俺は絶対にコイツを殺す。
それから綾瀬に帰って、みんなを守るんだ。
「ッぁあああああああああ‼」
殴り殺すためだけに、瞬間移動を行使した。
多分、今の一回で致命傷。喉の奥が焼けるように熱い。鼻から目から、口の端からたくさんの血が零れ出る。気持ち悪さは激痛を伴い、痛みは涙を誘った。
けれど、そんなことはどうでもよかった。たとえ不完全な光子分解によってこの身が傷つこうとも、俺は絶対にコイツを許さないと決めた。
「いいね! そう来なくっちゃ!」
燕貝は笹貫を蹴り飛ばし、俺を迎撃する構えを見せた。
その余裕ぶった面事ぶん殴って泣かせてやるよ。
そんな意気込みのまま、拳を振り上げたけれど──
「──■■」
「ぁえ?」
燕貝がなにやら呟き、途端に腹と背中とそのあいだに激痛。よろめきながら尻餅をつき、じわぁと生暖かいなにかが滲む。ゆっくりと見下ろすと「ぁ」ティーシャツに、指先ほどの丸い穴。そこからどくどくと血が吹きこぼれていて──。
「ッぅ」
脂汗がどっと噴き出してきて、頭が真っ白になった。
やばい。どうしよう。なにがおきた? なにをされた⁉
「イワカサと僕を結び付ける証拠を一つ、見せてあげるよ」
「ぇ」
燕貝が、甚平の胸元をはだけさせる。そうして、うっすら骨の浮かんだ胸に埋め込まれた奇妙な物体を見せつける。
赤黒く脈動する拳大のなにかが、ヤツの右胸から突き出していた。
第一関節までが千切れた人差し指で、その胸の突起を指し示して語る。
「三日月印──イワカサが持つ月印を真似て創られた〈月堕〉の科学の結晶さ。その出力は瓜丈のそれには劣るし、不死の実現も叶わない。けれど、けれどね、指先程度の物質を分解し、撃ち出す程度のことはできるのさ」
血を零す指先が再生されていくけれど、そんなことは些事に過ぎない。
やはり、イワカサと燕貝は──〈月堕〉はグルだった。
気がつけば、燕貝の指先は修復されている。
つまり、次弾の装填が済んだということ。
動くことすらできずに、その声を聞く。
「長旅、ご苦労だったね。でも、もう終わりだよ──」
燕貝の手から赤黒い光が漏れ出して、暴れ狂う。その奥でヤツの人形みたいに長いまつげが軽く震えて、仮面みたいに張り付けられた笑みが凄惨な笑みに成り代わる。
異能の引き金が、再び引かれた。
「──瞬け」
瞬間、火花みたいなきらめきが指の先を包み込み、
「ぁ」
小さな掌を離れた弾丸が、空を裂き、俺の右目を弾けさせた。
あんまりにも痛かったので、悲鳴を漏らす間もなく意識も弾け飛んだ。
泥濘に引きずり込まれる俺の意識が見たものは、走馬灯だったのかもしれない。
●●●
『──笹貫郁子を、頼んだぞ』
旅に出る直前、始発電車を待っているとイワカサがそう言った。ちょうど笹貫が自販機に行ったタイミングだった。囁くような彼に、俺は首をかしげるだけだった。
『頼むって……どうして笹貫がついてくることになってんの? いや心強いのはその通りなんだけどさ。でも、安全を考えるならイワカサと一緒の方がいいでしょ』
『友と見做した娘が御前の与り知らぬ場で、御前の力なしに幸福になることを、御前の自意識は許せるというのか? なればこそ、それは友足り得ぬだろうよ』
人を小バカにしたような言葉にムカついたので無視してやった。
そうすると、イワカサは遠い目をして呟く。
『……たった独りの旅路では、いつか孤独に飲み込まれるだろう。ゆえに、御前の旅には笹貫郁子が必要だった。私のような人間ではなく、な』
その言葉の意味はわからないけれど、なんだかすごく寂しい言葉だなと思った。
『笹貫郁子は、なん望みも持ちえぬ空虚な人間だ』
『へ……?』
『今の彼女を突き動かすのは、罪の意識だけなのだろうな。一族の悲願やらと語っているが、それは言い訳に過ぎない。そんなものに縛られる必要などないと、彼女はまだ気づいていない。……つまるところ、御前には、彼女を救ってもらいたいのだ』
笹貫を頼む。その言葉の真意は、どうやらそういうことらしい。これまた例によって意味のわからない言葉だったけれど、その想いだけは受け取れた。
『……ふぅん? よくわかんないけど、でも、わかった』
笹貫は、友達だからね。そう漏らすと、イワカサはどこか満足そうにうなずいた。
そういえば、イワカサを見ていると言葉にできない奇妙な感傷に囚われる。喜びとはまったくちがうが、悲しみや不安とも明確にちがう。胸を締め付けるような感覚は郷愁に少し似ていて、腹の底が熱くなる感じはわずかに怒りに似ている。
どうして彼を見るだけでこんな気持ちになるのだろうか。彼も光子分解を使えるから、俺と同じ月の民なのだろうか。俺を助けてくれるのは同郷のよしみ?
ただでさえ謎だらけの男なんだ。もう少しくらいわかりやすくたっていいだろ。
なんて、少しだけ不満に思って問いかけた。
『イワカサはさ、どうして俺を守ろうとして、笹貫を救おうとしてるんだよ』
『それは……』
一晩だけの関わりだったけれど、それでも彼が言葉に詰まるのが意外だった。
彼がちらりと顔を向けた先には、ペットボトルを三本持った笹貫がいる。彼女はゆっくりと歩きながら、眠そうな顔をしていた。
その姿にふぅと嘆息したイワカサはそっと囁いた。
『……もう、忘れてしまったな』
いつの間にか、世界はオレンジ色に染まり始めていた。
寝ぼけまなこを擦るように疎らに往き始めた車がアスファルトを削り、大きなあくびを漏らすように生暖かい風が吹く。淡い橙色が薄闇のベールを優しく剥がし、その瞬間だけは一分が永遠に引き延ばされて停滞している。
そんなまにまに響くのは、朝の到来を祝福するのではなく、死にゆく夜を惜しむような、そんな男の寂しげな願いだった。
『瓜丈高。惜別に臨む御前たちだが、それでもどうか幸福な旅を。そして──』
──どうか。どうか、だれも殺してくれるな。
このとき、どうしてイワカサは泣きそうな声でそう言ったのだろうか。
おまえは、本当は何者で、なにを望んで、なにに臨んでいたのだろうか。
もしもいつか、彼と対峙するときがくるのなら、俺は──。
イワカサを、殺すことができるだろうか。
これは、俺の持ち得る力の話じゃない。
ただ、もっと純粋な気持ちの話で、そしてつまり、まったく覚悟の話だった。
考えてみたけれど、やはり答えは出なかった。
かくして数瞬の走馬灯は、俺に生き足掻く術を教えるより早く、甲高い音と光に切り裂かれるのだった。
●●●
「うわっ⁉」「こっち‼」「え⁉」「早くッ‼」
殴りつけるような音の中、三人ぶんの声が飛び交っている。
それから、
「少年‼ 立てる⁉」
「ぁ、むりぃ……」
「ダメかぁ! しょうがないわねぇ‼ 火事バカ力の見せどころじゃあぁい‼」
だれかに身体を抱えられ、揺れながら、運ばれて、運ばれて──。
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